第六回 未来のまちづくりミーティング
令和4年8月27日(土)午後2時から左京西部いきいき市民活動センター高齢者ふれあいサロンにて開催した、かもがわデルタフェスティバル実行委員会・養正学区各種連絡協議会主催『第六回 未来のまちづくりミーティング』の様子を、議事録にてご紹介します。
このミーティングは計10回開催予定ですので、是非皆さんもご参加ください。
開会の挨拶
司会:かもがわデルタフェスティバル実行委員会事務局長 杉山準
皆さんこんにちは。お忙しい中お集まりいただきまして誠にありがとうございます。
第6回のまちづくりミーティング、定刻になりましたのでそろそろ始めさせていただきたいと思います。
まずは実行委員長の浅井からご挨拶をさせていただきます。
養正学区各種連絡協議会・かもがわデルタフェスティバル実行委員会委員長
浅井吉弘
皆さんこんにちは。コロナの発生数も高止まりしています。ちょっと心配な面もありますが、よくお集まりいただきましてありがとうございます。
今日は6回目となります。今までは学区内のいろんな方の声を聞こうということで、5回まできました。(今回)6回目に専門的な観点から研究者にお越しいただいて、アドバイス的に何か僕らの参考になればということでお呼びしております。
9月、10月は、デルタフェスティバルのお祭りの準備が忙しくなりまして、まちづくりミーティングをお休みさせてもらいます。次回は11月に、11月からはワークショップ形式で充実した議論をしていこうと思っておりますので、またよろしくお願いします。
それと、懸案になっていました全体の説明会を京都市がやってくれることになっています。時期的には9月中にはやろうということで調整しておりますので、日にちが決定しましたら、皆さんにまた、いろんな形でお知らせすると思いますので、よろしくお願いします。
では、乾先生、よろしくお願いします。ありがとうございます。
杉山
乾先生のお話を伺う前に、今日初めてお越しの方も若干いらっしゃると思いますので、簡単に今までのこのミーティングの経緯を説明させていただきます。出席されていらっしゃる方には大変申し訳ないですが、少しお時間をください。
まず第1回は今年の3月26日に行いました。これは、元々はこの(地域の)団地再生計画が進行しているということと、この団地の再生に伴って空き地ができる。そういうことは団地の住民のみならず、周辺にお住まいの方にも影響を及ぼす問題ではないかということを思いまして、そういう情報があまり知られてないんじゃないかということで、この第1回をまず、この団地再生計画がどういうことかということを、京都市に説明していただくという会を設けました。そして第2回以降は、このミーティングはそういうことで始まったんですけれども、このミーティングがどういう性格のものかということがちゃんと決まっていませんでした。そこで、この話し合いを行いながら、このミーティングのまず性格付けをするということと、団地再生に伴ってできる跡地やまちづくりについて、いろんな方のご意見を伺うということで、前回第5回まで行ってきました。
その中でこのミーティングはどういう性格のものかという位置付けもできまして、このミーティングがどういうものかという性格づけをしております。オープンな開かれた会で、ここで何か決める、議決をするということではなく、いろんな方の意見を聞き合おう、話し合おう、意見を出し合おうという、そういう性格のものです。そして最終的にはワークショップを行って意見の集約整理を行い、京都市にこういう意見が住民の間から出ましたということをお伝えしようと思っています。
そして今日はその第6回目になります。第6回目ということで、先ほど実行委員長からもお話ありました通り、専門の先生にお越しいただいて、まちづくりについて、またこういう会の性格やこの会が一体何になるんだろうということを疑問に思っている方もいらっしゃると思いますので、そのあたりを過去の実績を交えてお話しいただけたらと思っています。
もうひとつお断りがありまして、この会は毎回記録を残して、この会に出席できなかった方のためにホームページで内容を公開しています。そのために、記録に写真を撮らせていただきたいと思います。もちろん出席の方のお顔などは分からないように加工はさせていただきますが、どうしても写真はお断りしたいという方がいらっしゃったら連絡ください。一声おかけいただいたら省くようにいたします。それと、その記録用に録音をさせていただいています。また、この発言を、記録で出さないで欲しいという方もいらっしゃると思います。その方も、写真同様に私どもの方に一声かけていただいたら削除するようにいたしますので、ご協力よろしくお願い致します。
すみません、前置きが長くなりました。それでは今日お話いただく先生を紹介させていただきたいと思います。立命館大学の名誉教授で、乾亨先生です。それではどうぞよろしくお願いいたします。
立命館大学名誉教授 乾亨(いぬい・こう)先生からのお話
こんにちは。立命館大学を一旦退職して名誉教授という名前で、あと特任教授という形で教えています。産業社会学部で教えていますけれども、元々建築です。京大の建築を出て、設計事務所で働いていたという経歴がありますから、建築プラスの社会学ということに専門としてはなるんでしょうけども、あんまり研究者のつもりはないので、その所属はどちらでもいいかと思っています。
元々は建築設計技術者で、現実に設計もしていました。設計技術者として住民参加の住まいづくりとか、まちづくりの支援をしていっていて、それがいつの間にか大学の先生になりまして、大学の先生になっても同じようにまちづくりのお手伝いをしながら一応勉強しているという形で65歳まで先生をやって、そして今を迎えているということです。ですからコミュニティの実践的研究ということになっていますけども、基本的にまちづくりのお手伝いです。あと、自分の学区で今は社協の役員もしています。
養正の皆さんは、今まさに「自分たちのまちを自分たちで創る」取り組みをされている真っ最中だと聞いています。なので今日は、「自分たちのまちを自分たちで創る」というのはどういうことなのか、本当にできるのか、どうやったらいいのかについて、二つの事例を交えながら話させていただきます。
お詫びしないといけないのが、私自身は、養正学区のまちづくりについてあまり存じ上げません。一応京都市さんの報告書はネットで見て、ざっと目を通しましたけれども、実際のところどういうことで、今どんな状況に直面しているのか、という話をちゃんと理解しているわけではないので、もしかしたら皆さん方の思いとか疑問にうまく答えることができないかもしれません。ということで、後半は質疑の時間にします。皆さん方が今自分で思っていることとか、あれっと思っていることとか、今日聞いた話で尋ねたいことがあれば、出してください。可能な限り養正の問題について私なりの考えを答えてやりとりできたらと思っています。そういうつもりで進めていきます。
ということで、今日の本題ですけども、「自分たちのまちを自分たちで創る」とはどういうことか。まずそれを言葉で説明しておきたいと思います。「まちづくり」ってよく使いますけど、よく分からない言葉です。「まちづくり」って何だと聞かれたときに、人によって(解釈が)違うんですけども、私は要するに、そこに住んでいる人一人一人が機嫌良く暮らせるようにすることだと思っています。だから、物を作ることだけでもないし、でも物もいる。人の繋がりとかそういう暮らしの場面の問題もある。そういうのをセットにして、少しずつ良くしていくことが「まちづくり」だと思っています。ですから、そういう意味での「まちづくり」の話を、今日はさせていただきます。
その上で、「自分たちのまちを自分たちで創る」いうことを聞いたときに、二つあると思ってください。一つは、文字通り自分たちの思いを活かして、こんな場所があったらいいな、こんなものがあったらいいな、こんなまちだったらいいな。そういう自分たちの暮らしに合った場所、建物、あるいは共有空間ですね、それを作っちゃおうということですね。これはハード、ソフトという言葉をよく使いますけども、ハードのほう。ものづくりを中心とした「まちづくり」ですね。私が建築でやっている「参加のデザイン」というのは、こういうもののためによく使います。ワークショップをしたりしながら、みんなの思っているものはこうでしょう、みんなこんなものが欲しかったよね、という話をしながら、一緒につくるということ。「いいまちをつくる」うえで大事な部分です。
もう一つの「自分たちのまちは自分たちで創る」と言うことの意味は、「自分たちのことは自分たちで決める」ということ。人に決められたら、自分たちのことではないわけですからね。自分たちのことは自分たちで決める。あるいは、自分たちの仲間は自分たちで守る。抽象的な話じゃないですよね。隣に住んでいるおばちゃんだとか、おばあちゃんだとか、そこで遊んでいる子供たちだとか、そういう人たちを自分たちで守ろうじゃないか、という暮らし方。別に、役所の責任逃れじゃないですよ。役所はするべきことをしてもらわないといけないけれども、自分たちは自分たちで、ちゃんと自分たちの仲間を守ろう。住民自治ということはそういうことですよね。自分たちのまちのことを自分たちで決めながら、自分たちで仲間を守っていく。そういう住民自治のまちを創る。これがソフトのまちづくり。一般に、コミュニティづくりと言われるやつです。自分たちのまちをつくりましょうというときに、この二つがありますよ、という話はまずは知っておいてもらった方がいいかなと思います。
そして実はこの一つ目の、いいものをつくろうじゃないか、私達の暮らしに合ったものをつくろうじゃないかというハードのまちづくりは、私達がちゃんとしていないとできません。つまりしっかりしたコミュニティがないとあかんのです。コミュニティの中で、どんなものが私達のいい街かという話が決まらなかったら、自分たちで自分たちの場を創ることなんかできません。役所から「これがいい街でしょ」と言われたら、「そうですよね」と言うしかなくなる。そういう意味で、ハードのまちづくりをちゃんとしようと思ったら、コミュニティが必要です。あるいは逆に、今ちょうど養正さんが取り組んでいるように、ハードのまちづくりを進めながら、その中でコミュニティを育んでいく必要があります。あんたどう思う?あんたも一緒に考えようじゃないか、という具合に、これまでの暮らしのことをいろいろ話し合いながら、それで隣近所の関係とか支えあいの関係を作っていくことが非常に大事になる。
一方で、コミュニティがあれば良い街かというと、実はそうでもないんです。暮らしにくかったり、ボロボロだったり、不衛生だったり、そういう街だってあるわけで、自分たちの暮らしをちゃんとするためには、住まいや環境はちゃんとしておかないといけない。だから、ちゃんとしたものがベースにあって、その中でコミュニティがしっかりしていく。これが大事になっていくという意味で、実は場所とコミュニティというのはお互いに響き合う。どっちかだけじゃない。どっちも。しかもそれは絡み合っている。
ですから住民主体のまちづくりの両輪は、場所をうまく創りながら、コミュニティを育てていく。そのコミュニティをベースにして、また場所を良い場所にしていく、という循環。とすると、場所つまり私たちのまちというのは、単に役所が用意してくれたから良い場所になるというのではなく、自分たちのコミュニティの中でどんどん使い込んでいくことで自分たちにとっていい場所になる。公園だって、ポンと提供されたから良い公園になるわけじゃない。そこを子供たちが生き生きと使う。あるいは、普通は公園では禁止されているけど、お年寄りが耕しちゃってしまってもいいわけです。私たちの場所とコミュニティの関係をセットで考えないといけない、ということが「自分たちのまちを自分たちで創る」ということの一番大事な部分だということです。
この二つをセットで取り組むときに大切なことは、場と人と、そこで繰り広げられる物語です。お祭りしたりとか、子供の見守りをしたりとか、お年寄りが公園でのんびり座っている向こうで子供たちと若いお母さんが遊んでいるとか、そういう場面、そういう物語の中で、そこがお年寄りに優しいまちになったり、あるいは子育てしやすいまちになったりしていく。後で事例として語る真野地区のまちづくりには、「弱い者を支えながら共に生きるまち」という合言葉がありますけども、そういうまちになっていくことなのだろうなと思っています。この辺が一番大事な話です。ただ、「自分たちのまちを自分たちで創る」なんていうことができるのか、と思われる方もいるはずなので、そのことを考えるために、まず二つの事例を紹介します。
最初にお詫びしとかないとあかんことがあります。ごめんなさい。今回は、(養正のように)元々団地になっていて、その団地が再整備されるときの事例ではありません。そういう意味ではぴったりのやつがなくて申し訳ないんですけれども、それはちょっと頭に置きながら、自分たちの話と読み替えながら聞いてくださいね。
(以下、パワーポイントのスライドを見ながらの話です)
ということで最初の事例。住民の想い、その地域らしさを活かしたまちづくりが行われた。これは北九州の小倉です。1991年だから、ずいぶん昔の話ですが、北方のまちづくりとみずき団地の物語をまずはさせていただこうと思います。(地図を示しつつ)小倉駅からモノレールで行って、小倉競馬場の近所に北方地区があります。元々農村が無計画に市街地化していく、元々農業をやっていたんだけども、そこがどんどん街になっていった場所です。
不良住宅率という言葉があります。とんでもない言葉ですけども、これは養正に昔から住んでいた人だったら、養正が建て直される前の話として、こういう言葉をどこかで聞いたことがあるかもしれません。自分の住宅を「不良」と呼ばれるのは不快かもしれませんが一応都市計画用語で、住宅として非常にふさわしくないものという意味です。北方地区はその不良住宅が6割もあった。接道率。道に接していない家のことです。道に面していない家は建て替えができないという法律がありますからから、そこはボロボロになっても建替えられない。そういう、法律的に建て替えられないところが5割もあったということです。そんな北方地区に小集落地区改良事業という事業が適用されることになりました、というお話です。ここでも(養正の地域では)改良事業という言葉になじみのある方も相当多いと思いますけれども、その事業の仲間です。
ただ、北方で行われた話は養正とは少し違っていました。スクラップアンドビルド型と言われても何のことか分からないかもしれませんけども、(養正に)昔から住んでいた人だったら言われりゃ分かる話です。問題のあるまちをばっと壊してしまって、そこに新しい建物を作るやり方です。多分この辺は元々そういう場所の筈です。長屋があったりして住環境はあまりよくなかったかもしれないけど、近所仲良く機嫌良く住んでたまちをバンと崩して、そこに何階建てかの集合住宅を作るという形で整備する。これ自体は決して悪いわけじゃないんだけれども、前のまちと全然違うまちが出来上がってしまう。北方でやったのは、壊して作る、スクラップしてビルドする、スクラップアンドビルドのまちづくりではなく、改善型。もとのまちに手を加えて、良くしていこうじゃないかというやり方をしました。
もう一つの特徴が、「まちづくり推進協議会」という、まちの人たちの組織をつくったことです。自治会が入ったりして、まちの代表者で構成する組織である「まちづくり推進協議会」が設置された。市は現地事務所を地域内に設けて、行政と地区住民と周辺住民が手を組んで、話し合いながらいい街をつくっていく、というパートナーシップ型のまちづくりを重視して進めた。これは、当時の北九州市の姿勢がしっかりしていたということです。そういう中で、まちづくりにあたってワークショップが多用されました。ワークショップという言葉が出始めの頃だったんですけど、住民参加型の計画で多用された方法です。延藤安弘教授という、住民参加の計画の大家だった人の指導のもとで、住み手参加の住まいづくりが実践されました。延藤先生は私の恩師で、いまは故人です。
(ここから先、北方の街の様子を映したスライドを見ながらの説明)
北方の街には道はほとんどありません。家がぐっとくっついて建っていて、大きな道はちょっとあるけども細い道があったり、細い道もないようなところがたくさんあるような、ぎゅうぎゅう詰めの街です。猫道という細い(路地のような)道を通って家に帰っていくというような場所でした。ただ一方で、結構生き生きとしている。アジアに行ったらいまもこんな景色がありますが、住む人たちのエネルギーがそのまま街に反映されているから、例えば細い道の上に物干し台が渡っている。これは都市計画法違反です。道路交通法違反です。一般の街では、こんなことをしたら怒られますけれども、ここではできてしまっている。この下が雨宿りの場所になるとか、人が集まる場所になる。あるいは路地の奥に行くと、洗濯物が干されていたり緑が生き生きとしていて、とっても住み心地が良さそうな雰囲気がある。細い路地に面して引き違い戸があって、街の人たちみんな知り合いですから、玄関なんか使わず、こういうとこから「居るか?」と言って入っていくわけです。そういう付き合いがあるような街でもありました。
道を見ると、家と家の隙間が道になっている。だから広がったり狭まったりしている。(その隙間の道の)広いところは、この北方ではカドって呼ばれています。家と家があって、本当は境界線がどこかにあるんだろうけれども、そんなもので区切ったり塀を作るのではなく、出し合いの場所になっているんです。両側のお家の出し合いの場所になって、みんなが付き合ったり盆栽が置かれたりするような場所があちこちにあるような街。北方も、今はもう水道通ってますけど、カドには共用の井戸があって、今でも祭りのときなんかはそこで共同作業をするような場所でした。その中で少し広いところでは、盆踊りが行われたりもします。広々とした公共空間があるわけでもないけれども、自分たちのまち、自分たちの場所、そこで生き生きとした暮らしが営まれていた。車もほとんど入りません。お年寄りは、のんびり座ってくつろいでいる。あるいは、元々農村だったということで、農作物を干したりするときに使うようなバンコがある。北方ではオキダというんですけど、それを家の前に出して、近所の奥さんどうしで夕涼みしていたりする。
そういうまちに、北九州市から小集落改良事業の提案がなされました。地区全体を防災にも強いように、それから1軒1軒の住宅も暮らしやすいように作り直しきませんか、という声掛けがありました。それ自体については正面から反対ではないけれども、近くで行われた高層の公営住宅の建て替えを見て、「ばってん、こげな建て替えは好かんね」という声があったんです。市としても、市が一方的に進めるのではなく、行政が音頭を取って、住民側に受け皿組織、さっき言った「まちづくり推進協議会」ですが、住民側がまとまる組織を作り、そこと行政、そしてそこにコンサルタント、つまり専門家が入って、話し合い、情報を共有し、住民の思いをちゃんと受け止めながら計画を進めるパートナーシップ型のまちづくりをしましょう、ということで話が進み始めました。
街の人に聞いてみたら、ちゃんとしっかりしたお家を建て替えたりして住んでいるから「今のままでいい」という人が3割ぐらい、うちの家は確かに古くなっているけれども、この場所を動きたくないからここで建替えたいという人が5割ぐらいいました。そのような地域要望を受け止め、既存環境を一気にばっとクリアランスしてしまってボンと新しいものを作る改善方法ではなく、使えるものは使いながら進める。道とか公園なんかは圧倒的にないわけで、道が通ってないから救急車とか消防の不安があるわけですから、道や公園などの不足不備を補い、老朽して危険な住宅などは更新する、という方針でいこうじゃないかということになりました。だから、極力昔の道筋を残し、昔ながらの街の様子を残しながら、どうしても必要な道は広げ、公園などを作り、既存住宅や現地での個別建て替え住宅が建っているような、元々のまちの雰囲気というか暮らしやすさをなるべく残すような計画づくりが行われました。老朽住宅は公営住宅に建替えるのですが、ヒューマンスケールというんですかね、大規模団地を作るのではなく、小規模の団地を街の中にはめ込んでいくようにしました。
改良前後の図面をみてもあまり劇的に変わったように見えないけれども、道が拡がって、中に老朽住宅を建て替えた団地がいくつも作られたり、公園が作られたりしています。この道はちょっと拡がってます、昔ながらの道も残ってます。まちづくりをした後、つまり更新した後も、昔の街の雰囲気が残るまちになっています。
その際の計画の進め方ですが、先ほど話した延藤教授が当時熊本大学にいたので、熊本大学の遠藤研究室が現地に来て、北方らしさ、その街らしさを調査しました。そのときに、一方的に研究して、「これがあなた方の街の住み良さですよ」と結果を押し付けるのではなく、「まちづくり協議会」と協力しながら、まちの人と一緒に、ワークショップの一つの方法である「まち歩き」をして、「わが町のいいとこ探し」をしました。昔の景色を思い出してみたり、今でもこんないい場所があるとか、あすこにはお地蔵さんがあるとか、そんな話をしながら、自分たちにとって大事にしたいことを見つけ出す作業です。そこから見えてきた北方らしさを活かしたまちづくり計画をしました。
この図は、そうやって発見された「北方らしさ」をあらわしたものです。理屈の話ですから伝わりにくいかもしれませんが、例えば「北方らしさ」から考えれば、路地はマイナスだけじゃない。オキダ、つまり床几が置かれ、夕涼みしたり交流したりする場でもある。カドという共有の場所ではお祭りがある。内と外が柔らかく繋がっているような場所でもある。迷路みたいだから車が入らない。そういう中で、人の関係としては「お互い様」「おかげさま」という関係ができている。九州方言でこれを「もやい」と言います。相互扶助、共同・共有の考え方ですけれども、そういうものが見かけられる、というのが北方の良さでしょ、ということです。じゃあこれを活かして、計画を進めましょうという話になりました。
今回の(養正の)場合は住宅づくりの話ではないということは聞いているんですけれども、北方で、こうやって全体のまちの形をまちの人たちの想いを受けとめながら構想した上で、建て替え住宅である公営住宅の計画も住民参加でやろうじゃないかという話になりました。その建替公営団地の一つ、「みずき団地」の物語を紹介します。
地図を見てください。元々建っていた家をそのまま残す存地住宅や、現地で戸建て住宅を建て替える建替住宅の一角に、老朽化が著しく接道も果たしていないために壊して公営住宅に建替るための敷地があります。ここで行われた団地計画が、北方らしさを活かした計画を目に見える形で実現した「みずき団地」です。なおこの団地の特徴として、「北方らしさを活かす」ということのほかにもう一つ、「作り込みすぎない」というのがあえいます。それは後で説明します。
団地の配置図です。普通の団地と違って、戸建てが並んだように見える形になっていて、それが3階建てになっています。これを専門用語では群島型と言いますが、なるべく今までの家と同じように戸建てっぽくしながら、上に積み重なることで、ゆっくり暮らせる住宅をつくろう、という考え方です。
街並みを見てもらうとわかりますが、普通の建て替え住宅、存置住宅、そしてその中に建てられたみずき団地。高さも姿も、あんまり他と変わらないように作られました。(公営住宅が)際立たない。それが大事なところです。
みずき団地の中に入ると、路地になっています。北方の路地を再現しました。だから広々としたスペースなんかないけれども、路地を通って行くと、(元々の)北方の形をまねして、ところどころにカドという場所があります。その路地を通っていくと、いつの間にかまた北方の街の中に出ていきます。昔の街の路地を通っているのと同じような形で作られているわけです。そこに、元々住んでいたおばあちゃんが住みます。昔から作っていた干し柿や盆栽をそのまま持ち込んでくる、という暮らしができています。
面白い話があります。ここで一番聞いてほしいのはこれなんです。公営住宅ですから、建物周辺に緑地帯を作ります。普通の公営住宅でも、植え込みがあったりとか、芝が植えられたりとか、ありますよね。管理が悪いからという理由で、モルタルコンクリートで舗装される場合もありますけど、とにかく団地の周りにスペースを空けます。ここのみずき団地も、周りに芝生が作られました。でも元々農村地帯で暮らしていた入居者は「空き地がある」と思ったんです。「空いてるから耕そう」って、みんな耕し始めたんです。みんなで話し合って、「あなたの場所ここね、あなたの場所ここね」という話で耕し始めまして、花を育てたり野菜を育てたりするということを入居して1年目でやり始めてしまいました。これが面白い。
それを許した管理者もすごいけれども、そういう「住民が手を出せる」隙間がたくさんあったということなんです。自分たちが関われる隙間がたくさんあった。私も(みずき団地が)できて二、三年後に行ったんですけど、実に緑が生き生きとしている。普通の公営住宅だと、サツキの植え込みに雑草が生えたりとか、そんなところが多いけれども、ここは緑がすごく美しい。この緑は里芋さんです。自分たちで野菜を育てていて、だから手入れが行き届いている。野菜ってこんなに美しいだ、と思いました。しかも、みんな勝手にやっているわけではない。話し合って、みずき団地の入口のところは花が好きな人に任せています。だから、入り口のところは花で飾られているんです。要するに、ある意味で自治ですね。住んでいる人たちが、自分たちで話し合ってこういう景色を作り出しています。
実は、みずき団地の廊下は南側に面していまして、路地なんです。ですから、そこに洗濯物が干してあったり盆栽が並んでいたりします。普通の集合住宅は(通路が)北側にあって、薄暗くて、鉄の扉で閉ざされていて、そこで立ち止まろうという気にならないんだけれども、ここの場合は、引き違いの掃き出し戸を開けて「居るか」って訪ねたり、子供がウロウロ散歩したりするような、昔の暮らしが再現されるような作り方になっています。広くなったところにはオキダ、つまり縁台が置いてあります。本当は集合住宅の廊下は水撒いちゃいけないんですけど、でも水を撒くんですよ。やっぱり自分たちの場所ですからね。
家の中もある程度自由にできるようになっていたので、仏壇置場を作ったりとかしています。これもまた面白い事例なのですが、団地の廊下を通っていくと、突き当りに住宅のバルコニーがありまして、そのバルコニーに箱庭を作ってるんです。入居したおばさんが「自分の庭を作るんや」と言って、日曜大工の店に行って防水シートを買ってきて敷いて作ったそうで。これは、庭の前でほっこりしているおばさんです。要するに「自分の家」にしたんです。公営住宅だけれども、「自分の家」にしはったんです。そういうのを見て、「あぁ、いいな」と思いました。要するに「自分で自分の場所をつくる」というのはこういうことなんだ、公営住宅だってもやっていいんだ、と思いました。自分の場所なんだったら、自分でいろんなことをできるわけですよね。ただ当然、人に迷惑をかけないように、防水シートを敷いたりしていますけどね。
さて、ここから先がもっと一番大事なことなんですけど、みずき団地はこれだけのことができた。でも、それは単にポンっとできたわけじゃないんです。実は、そのときに非常に大事な役割を果たしたキーパーソンが、まちづくりコンサルタントの、髭の洋行さん。畠中洋行という人で、北九州市から頼まれて入ったコンサルタントで、さきほど説明した街全体の計画を担当した人です。なるべく昔の形を残そうじゃないかという方向性を示した人です。この洋行さん、計画を策定するときに、何をしたかと言ったら、計画を作るより前にまず北方に住んだんです。オフィスを借りて住んで、そこで生活しました。最初はやっぱり怪しい奴と思われました。市の手先が入ってきたわけだから、とっても怪しい奴ですよね。でも、北方に住んで地域を回っていろんな人と話し込む。そうすると、最初に若い人が面白いから訪ねていって、洋行さんと話し込む。そうやって、まず地域となじんでいった。洋行さん自身も、まちの様子が非常によく分かってくるし、まちの人の気持ちがよく分かってくる。それをもとにしながら市役所とやりとりして、いろんな話を決めていく。それをやったんです。この計画をやっている間、ずっと住んでいました。北方に住みながら、そこで結婚もしました。そこで子供も産みました。私達は、こういう専門家を「共にいる専門家」と呼んでいます。偉そうに上から、「あなたたちにふさわしい計画はこれだ」って言ってくるのではなく、一緒に考える。まちの人の気持ちをちゃんと分かった上で、一方で専門知識も持っているから、その二つを合わせながら、いい方向をまちの人と一緒に考えるような専門家。そういう存在を、共にいる専門家と呼んでいますけども、そういう専門家がいたというのは非常に大きい。
そういう中で、みずき団地の住宅設計も、熊本大学延藤研究室の横山先生を中心に、住民参加で行われていきました。写真で見るように、いろいろと文句を言ったり、喧々囂々といろんな議論が行われました。ここでは、団地のどの区画に住むかも、話し合いで決めているんです。公営住宅でそんなことできると誰も思っていなかったけれども、建て替え住宅なので住む人はほぼ3分の2以上決まっているわけだから、じゃあお互いに事情も分かっています。あの人は年寄りやから下の階やねとか、そんな話し合いをしながら決めた。なかなか決まらないところも、「うちはいつも夫婦喧嘩するから、2階の隅っこでいい」というような形で決まっていく。その住宅の内部設計も、ある程度自分たちの思いが反映されました。さっき言ったみたいに、仏壇置場を作ったりとかもできたわけです。
その後一、二年して、また(みずき団地を)訪れたのですが、住民が自分で植木の手入れをしてたりしていました。おばあちゃんがいたので、「みずき団地は住み良いですか」って尋ねたら、「そらぁ住み良かくさ、自分たちで作ったっちゃけん。」と答えてくれました。この言葉に全てが集約されている、と思いました。ここは自分たちで作ったんですよ。だから住みやすいんです。というのが、みずき団地の物語、北方の物語です。
事例の2番目、「真野まちづくり」。これがまたすごい街なんです。神戸の長田区にあるんですけど、実は1965年からまちづくりしていますから、もう55年以上まちづくりをやっている。しかも「住民主体のまちづくり」をやっているところなんです。この、50年余にわたる住民主体のまちづくりの物語を紹介します。さっき言った話で言うと、ここはコミュニティがベースです。コミュニティをベースにしながらハード整備をしたまちの物語です。
(以下、パワーポイントの画像を見ながら話を進めています)
神戸市長田区の真野地区、真野小学校区は50年以上にわたり、住民主体のまちづくりに取り組んできたまちづくりの先進地です。地域社会学や都市計画学の分野では非常に有名ですし、地域福祉の分野でもよく知られています。長期にわたるこの地域のまちづくりを、今日は簡単に、かいつまんで語っていきます。地域というのはここまでの力があるんだ、ここまでできるんだ、ということをぜひ知ってもらいたいという思いを込めて、培われたコミュニティの力が、1995年の阪神・淡路大震災をはじめ、様々な場面で発揮される様子を紹介します。
(地図を見ながら)真野地区の場所です。JR三ノ宮からずっと西に行くと鉄人28号で有名な新長田があります。三宮と新長田の真ん中付近を浜海の方に行ったあたりが真野地区です。大体39ヘクタール(の面積)です。国道2号線と、兵庫運河という運河と、新湊川という川に囲まれた地域、1小学校区です。
元々は、大都市近郊ののどかな農村地帯だったんです。この辺(養正)もそういう意味では、近しいところがあるかもしれませんね。出町の近くですから。航空写真で見ると、(真野は)道が碁盤の目に通って整然した街のように見えるのですが、この碁盤目は昔の条里制の農地の跡で、住宅地割と違いますから、実は道が非常に狭いし、一区画が非常に広いです。4メーター弱の農道がそのまま道になり、広い街区の中に路地と長屋が建て込んでいます。昔はのどかな農村地帯だったんですけども、真野地区の東隣接地に、大正から昭和にかけて、川崎重工や三菱重工などの大工場が入ってきます。それいけどんどんの高度経済成長期までぐんぐん伸びていきました。そうすると、大工場の隣にあるところ(真野地区)は、労働者住宅になっていくんです。どっちかというと貧しい労働者が住む長屋がぎゅうぎゅう詰めにできていく。あわせて、下請け工場、小さな小さな零細の下請け工場がたくさんできてくる、というような形で発展していきました。こうして、大正から昭和初期に、労働者住宅長屋と町工場の街になりました。
実は、第二次大戦のときに長田区は焼けてないんです。幸か不幸かというか、幸せなことなんだけども、戦災に遭っていないんです。でもだから、昔のぎゅうぎゅう詰めの古い長屋がそのまま残ってしまったんです。ということで、高度経済成長期に突入して、道は狭くて4メーター弱。密集老朽木造長屋がぎゅうぎゅう詰め。路地奥ですと、無接道なので建て替えられません。住工混合、しかも小さな町工場ですから環境に対する配慮なんかもないというので、1960年代に都市問題が集積するような場所になっちゃったんです。一部大きな町工場もありますが、ほとんどは小さな町工場ばっかりです。路地の幅は2メーターありません。ここの長屋はほんとうに小さいんです。大体1軒当たり8坪。部屋は4畳半と3畳ぐらいで、トイレとかも共同。そういう暮らし方で、庭もないから洗濯物は路地に干す、というのが真野の普通の景色だったんです。
1965年頃と言ったら、昔を知ってる人だったらご存知だと思いますが、公害の時代ですよね。四日市喘息とか、イタイイタイ病とか、水俣病とか、そういう時代です。小さな町工場の多い真野もご多分に漏れず、町工場からの排煙とか廃液でとんでもない状況だったそうです。排煙で子供たちが喘息症状を出す。洗濯物が真っ黒になってしまう。そういう状況でしたから、実はさっき言った55年にわたる真野のまちづくりの最初は公害反対運動でした。公害反対運動というのは四日市でもどこでもありましたけれども、真野はよそと違っていました。よその公害反対運動は市民運動として取り組まれているので、被害者とその被害者を支える市民が工場とか市に補償を求めていくという運動だったんですけれども、真野の場合は、地域住民が地域を住みやすくするために、つまり住民の健康を守るために立ち上がったんです。だからベースは町内会・自治会という地域組織だったんです。そこから始まっていきました。当然それって簡単な話じゃないですよ。自治会活動をしている人も多いと思いますけども、自治会なんてそう簡単に動くもんじゃない。それをずっと、リーダーを育て、組織の変革をしながら、住民運動・住民大会を繰り返し、行政とか業者と交渉していくというような形を作っていきました。
地域を良くする活動ですから、自分たちを守る、自分たちの仲間を守るまちづくりですから、単に、行政あるいは企業に要求するだけではない。「自分たちも、自分たちのまちを住みやすくしないとあかんやろ。」という話になりますよね。これは大事な部分です。だから住民総出で掃除を行うなどの活動にも取り組む。あるいは、これは非常に象徴的な活動なんですけれども、一軒一鉢運動というのもやった。当時真野は、ぎゅうぎゅう詰めで緑も何にもないような街だった。これはあかんやろ、緑を増やそうということで、地域のみんなに声をかけて、植木を育てよう、盆栽を育てようと呼びかけた。あわせて町工場に要求した。町工場はガンガン文句言われている立場だけども、一方でまちの仲間ですから、お願いして、例えばブロック塀を生垣にしてもらうとか、そういうことをしていって、環境整備にも努めていく。あるいは、これも昔懐かしい話ですけども、昔はだいたい道路はみんな地道、土の道です。若い人だったら土の道は素敵だと思うかもしれませんけど、一昔前の人だったら、土の道といったら水が溜まってボウフラが湧いて、ということを思うと思いだすはずです。だから、蠅蚊撲滅運動などの環境整備活動も、ちゃんと街の人でやっていった。
実はその当時、神戸市はなかなか大したものでした。さっき、北九州市は大したものだったと言いましたけど、神戸市もこの当時はなかなか大したもんだったんです。神戸市は、いわゆる地方自治の最先端行くような街だったんです。地域で住民がそうやって頑張っているんだったら神戸市もサポートしよう、ということで、工場の移転先を探してくれた。町工場も同じ町の仲間ですから、追い出すだけじゃ駄目で、その人たちの暮らしも成り立つようにしないといけない。地域から市に、工業団地の斡旋を要求するわけです。そうすると市は工業団地の移転先を斡旋する。そうして空いた土地を、神戸市がまちづくり用地として買収します。その土地を使って、それまで真野になかった、公園とか、老人憩いの家とか、そういう公共施設を整備していきました。こうやって真野の中に少しずつ、公園とかができていく。そうすると、真野の人たちは、自分たちの活動の中で、運動の中でできた公園だから、公園のメンテナンスとか、そういうことも全部自分たちで行い、自分たちの公園として愛して活用していく。そんな関係が出来上がっていきました。
あわせてもう一つ。さっき言ったみたいに、自分たちのまちを住みやすくする活動ですから、課題は公害問題だけじゃない。だから環境の問題にも取り組んだ。でもそれだけでもない。実は真野は、日本の中でもかなり早い時期に高齢化社会を迎えていた。真野は狭い長屋にぎゅうぎゅう詰めで住んでいた。1970年代ぐらいになると…これも昔の人は知っていると思いますが…金のある若いサラリーマンはみんな郊外に住宅を買って出て行きます。真野のような6坪、8坪の住宅に住めないから外へ外へと脱出していく。あわせてもう一つ、70年代から80年代というと日本が重厚長大の経済からサービス産業中心に移る転換点なんです。そうすると、それまで真野に流入してきていた青年労働者、地方から出てくる青年労働者が入ってこなくなる。青年労働者は入ってこない、元々街にいた若い人は出ていく。それで何が残るかといったら、残るのは脱出できない、あるいはその街から離れたくない高齢者。ということで、70年代に既に高齢化社会が始まっていました。
これはあかんやろう、みんなで機嫌良く暮らすためには、このお年寄りたちを支えなあかんやろう、と街の人たちは話し合いました。それで、お年寄りに、何に困っているかを聞いてみたら、「お風呂に入りたい」という。労働者の街ですから風呂屋はいっぱいあるけども、動きにくくなったら風呂はなかなか入れないのでね。これが真野の面白いところで、「じゃぁ、入れてあげよう」という話になる。まちのリーダーたちが語り合って、ポータブル浴槽を購入してライトバンの後ろへ乗せて、その老人の家へ行って、お湯を沸かしてそこにお湯を張って入れてあげる。これが真野の特徴です。やれることは自分たちでやる。ただ、それで終わりじゃない。「こういうことをしているけど、これって本当は行政の責任じゃないか」って神戸市に言うんです。この運動スタイルはなかなか効果的で、住民がやっているのに行政が放っておくわけにいかない。だから、神戸市は入浴サービス化がかなり早いうちに導入された。真野のおかげだとは言いませんが、そういう影響もあると思います。
あわせて、今はもうあちこちでやっている給食サービス。養正でもたぶんやっていると思いますけれども、真野では、もう70年代に始めてます。配食じゃない。配食するほどの力量がなかったのもあるけれども、やっぱり歩いてきて、仲間と出会って楽しく過ごしてもらうおう、という趣旨です。民生委員さんを中心にして友愛ボランティアというのを作って始めました。
でも、それでも、なかなかまちの人口減は止まらない。どうしようと話しあった。ここから先が今日のテーマに繋がる話なんです。当時真野に調査で入っていた京都大学の西山研究室という建築の研究室があるんですけど、そこの先生から「あんたら、すごいことをしてる。お年寄りの面倒を見たりとか、郊外へ工場を追い出したりとか、そういうすごいことしてるけども、それは全部対症療法や。傷を負ったとこに絆創膏貼ってるみたいなもの。体質改善せなあかん。元々のまちの形を変えていかないと、住み良いまちにならへんで」というアドバイスがあった。同じ時期、神戸市も、従来型のトップダウン型の都市計画でなく、住民自身が、自分たちの地域の将来像を自分たちで構想して、それをもとに神戸市がバックアップするというやり方に変えたいなと思っていた。実際は、今もそうはなってませんけどね。結局、真野だけしかできなかったんですけれども、でもまぁ、そういう時期、時代でしたから、真野では、街の環境整備、ハードのまちづくりをしないといけないということになり、神戸市も協力して住民主体で、行政の支援とコンサルタントの力を借りて、自分たちのまちの方向性を考え始めた。「まちづくり検討会」を作って検討をし始めた。住民中心です。住民主体で議論しながら、それを行政が支援するという形で始めていきました。これが70年代から80年代。
このときに学ぶべき点があります。先ほどから、真野はいろんな活動をしていると紹介してきましたが、実はこれは、真野地区(一小学校区)の南側半分だけだったんです。南側半分と北側は別の自治連合会の傘下にあって、この二つは、方向性の違いとかいろんな話で対立して、喧嘩してたんです。でも、自分たちのまちの構想を考えようという話になったときに、「真野全体で一つになって動かなあかん」と、お互いに申し合わせしました。神戸市とやりとりしていくんだったら、真野地区全体で一体として取り組む、と話を決めた。それで真野地区全域の代表者が集まって「まちづくり検討会」というのを始めました。
そのまちづくり検討会、これは大体どこの地域でやるのも一緒ですけれども、地域のお歴々が頭を揃えます。そうじゃないとまちの話はまとまらないから、お歴々がたくさん入ります。当然学識経験者も入るし、神戸市の職員も入ります。それと、商工業者の代表者。真野の場合は工場が非常に大事ですし、それに伴うお店とかもありますから、商工業者の代表者も入ります。こんな具合に、お歴々中心の話し合いです。でも、それだけで物を決めたらあかんと、彼らは考えた。だから、「まちづくり検討会」で話した内容を、いろんな場面で何度も何度も、街の人に説明するんです。呼びかけても、そう簡単には来ません。だから、町内会単位とか、PTA単位とか、婦人会単位とか、いろんな形で手を変え品を変えて、いろんな人が出てくる場面を作りながら、「今、こんなふうに考えてます」と説明する。何度もやりました。地域が地域の人たちにここまで丁寧に説明した事例を、僕は他には知りません。あわせて、ニュースもかなり頻繁に発表します。「今、こんなふうです」「計画はこんなふうです」「こんな問題があります」という話を全戸に配布していく。そうやってようやく、1980年に、20年後を目指す将来像の提案というのを作りました。
道を全部6メーターに拡げるとか、ここの道は8メーターにするとか、ここは住宅専用で工場を建てたらあかん、こっちは工場街にする、などなど。これは実は都市計画と呼ばれるものなんです。皆さん方が建物を作ろうとするときに京都市に申請を出すと、ここは何とか地区だから駄目ですよ、ここは道は何メーターに拡幅します、と言われるはずで、これが都市計画です。これは公共だけができることなんです。民間が勝手にこんなことを決めたらまずいわけです。でもそれを真野は自分たちで決めたんです。「自分たちのまちはこうするんだ」と決めました。でもこんなことは、急にはできないんです。今からその話をします。
要するに、この将来構想は真野の住民たちの夢なんです。「このまちを住みやすくするためには、こういうふうにならないとあかんやろ。」という夢を作ったんです。「将来構想」という、小さな地域単位での都市計画、つまりハード整備のルールを作ったんです。「こんなルールでいこう」って決めたんです。これは当然、地域住民による地域住民に対する提案です。「私達のまちはこういう夢を見よう、こういうふうになろう」と。あわせて行政への提案でもあります。
ここが神戸のすごいところなんですけど、神戸市はその当時、真野のまちづくりの動きを受けて「まちづくり条例」というのを作りました。その条例によって、真野という小さな小さな小学校区が作ったルールを法律的に保障する方法を作ったんです。「まちづくり協定」を締結すると、地域の人たちが夢として作ったこのルールを神戸市が認めて、制度として認証する。つまり神戸市は「まちづくり条例」に基づいて、(地域の人たちが作ったルールが)法的拘束力を持つようにしたんです。
これは、画期的なことなんです。本当は、都市計画というのは、京都市だったら京都市全域に一面で作るしかないんです。でも、そんな都市計画を真野という小さな小学校区単位で、住民が作った。それを神戸市が、条例に基づいて、真野だけ特別にこのルールでいく、ということを認めた。それをベースにしながら、神戸市がハード整備をバックアップする。つまり、道を拡げていくとか、あるいは共同建て替えをするとか。「住民主体行政参加」というのが、真野の合言葉なんですけど、住民主体行政参加のパートナーシップ型のまちづくりを進め始めたわけです。
行政が都市計画に基づいて道を拡げると言うたら、これは待ったなしなんです。「どけ」と言うんです。法律でこう決まりました。ここの道は30メーターにすることにしました。だから、ここの人たちには立ち退いてもらわなきゃいけませんって言って、用地買収にかかります。これは一応、建前的には最大多数の最大幸福。公共のためには多少の犠牲はやむを得ない、という考え方に基づくんですけれども、でも、真野地区で、その当時で人口がたかだか1万ぐらいのまちでそんなことをすると、おかしなことになる。自分たちのまちを良くするために、自分たちのまちの仲間が不幸になる。そんなことを、簡単にするわけにいかないじゃないですか。それでどうしたか、どう考えたか。一気に整備するなんてことは無理なので、できるところから少しずつしようと決めました。「どけ」とは言わん。建て直すときには、ちょっと退いてな。工場をやめますというときには、そこを次も工場として売るのはやめようね。他の用途で転売してね、という考え方です。そういうことで、ちょっとずつ、ちょっとずつ、ちょっとずつ良くなろう、と決めたんです。「修復型まちづくり」というんですけどね。だから「20年後」を目指すなんです。この20年というのは、未来永劫という意味だったんですね。1980年からだから、20年はとっくに過ぎていますが、いまだに続いています。
ということで、ここが大事なポイントです。20年後に向かってこの夢を実現しよう、まち全体として実現しよう、というからには、真野として、それをちゃんとコントロールできないといけない。行政がしてくれるわけじゃない。だから、将来にわたってまちづくりを担って地域を運営するための包括的地域住民組織、つまり真野地区の全ての地域組織が参加する組織を作ったんです。その当時、真野の全自治会15自治会が参加しました。それから各種団体やPTA、老人会も。それに商工業者の代表も参加し、学識経験者、神戸市も入るという形で「真野地区まちづくり推進会」というのを作りました。
だから実は、真野で初めて地域一体でできた組織はこれなんです。でも、組織が一体になったからと言って、すぐに仲良くなりませんよ。会議の席上でも、方針が違って喧嘩ばっかりしていたらしいんだけれども、でも大事なのはそんなことじゃないんです。行政とちゃんと向かい合って、あるいは住民とちゃんと向かい合って、自分たちのまちをコントロールするんだったら、まずはきちんとまとまっておかないといけない。少なくともそういう形を作ってやらなきゃいけないということで、対立を内包しながら始まっていきます。設立から40年経った今でもこの「真野地区まちづくり推進会」が中心になって、まちづくりをやっています。今でも、推進会の総会には、神戸市の長田区長が来たりとか、神戸市の都市計画局長が挨拶に来るというのは、こういう流れの中にある。だから住民だけの場じゃないんです。行政を巻き込んでの場。これも非常に大事な部分です。
もう一つ面白いのは、この推進会という公式の機関ができたとき、それまでのまちづくりで公害反対とか環境運動とかで頑張っていたその当時30代から40代ぐらいの壮年グループのメンバーが集まって、「これからのまちづくりは年寄りに任せておけない」ということで「真野同志会」という若手の会を設立しました。さっき言ったように、推進会を構成するのはどちらかというとお歴々です。偉いさんです。これは悪い話じゃないですよ。そうでなければ、地域は動きませんから。それは皆さんもご存知ですよね。そういう人たちがうんと言わない限り地域は動かない。でも、そういう人たちだけに任せておくわけにいかないだろうというので、頑張っていた壮年達が「真野同志会」江尾つくったわけです。実際は、ただの遊びの会なんです。普段はゴルフしたり、ボーリングしたり、酒を飲んだり、家族ぐるみでハイキングしたりしています。でも真野のイベントの時、例えばお祭りするときの下支えは、全部このメンバーがします。それ以上にすごいのは、それ以降、自治会とかそういうところの役員に同志会のメンバーが入っていくんです。だから、真野の自治組織がどんどん変わっていきます。加えて横のネットワークを持っている、地域のために頑張るメンバーたちが、いろんな自治会の中で頑張るようになっていく、あるいは推進会の事務局に入っていく、という形で人材が育っていったのも、真野まちづくりを語る上では非常に重要なポイントです。そうやってちょっとずつちょっとずつ、真野は良くなっていきました。
ところが、1995年の1月17日、これはご承知のように、阪神淡路間を未曾有の大災害が襲いました。写真でわかるように、神戸市役所の建物が途中でバッキリ折れてしまったり、菅原市場とかの新長田界隈はまるで戦災直後のように焼け跡になっているという状況の中で、真野もやっぱり被害を受けました。コンクリートの建物が倒れたり、木造住宅がくしゃっと潰れている。1階が潰れるというのは阪神・淡路大震災の壊れ方の特徴だったんですけども、それ以上に印象的だったのは、普通に建っている住宅に見えても、壊れてしまうと、戦前のボロボロの長屋を補修しただけの骨組みが現れる。場所によっては、ボヤで焼けた柱をそのまま塗り込めてしまったようなとこもありました。これは余談の話ですけど、阪神・淡路大震災のときに「震災はいろいろな階層を平等に襲う。しかし、被害には階層差がある」ということが指摘されていましたけども、それを実感しました。
まあそれは置いておいて、そういう中でじゃあ真野はどうしていったかですけど、まず一つは、火事。阪神・淡路大震災で二次被害が一番きつかったのは火災による死亡者です。特に長田界隈は、さっきも言いましたが戦災で焼けてませんから、どんどん焼け広がったんです。消防車も来ないし水も出ないから、ずっと燃えていって、ようやく広場とか山にぶつかって火が止まりました。焼け止まりという現象です。そういう中ですから、真野も火事が起こって不思議はなかったし、実際、起こったんです。真野地区の南東部、後に立江地区と呼ばれるところで、震災直後に火事が起こりました。でも真野は、この火事を自分たちで消し止めたんです。風向きとか、いろいろな僥倖もあったかもしれませんが、この写真をみてもらうとわかるように、焼け止まりではなく、アパートの壁のところで火事を止めてます。どういうことかと言ったら、当然、消防団とかの組織は役に立ちません。みんな被災者ですから、そういう組織的動きは震災直後はできません。ただ、ずっとまちづくりをしている中で、消防分団長の顔はみんな知ってるわけです。近所に住んでいた消防分団長がやってきて、「あそこで消そう」と水をかける。あそこに水をかけろと指示すると、みんなあの人の言うことならということで守る。いうことを聞くんです。そのうちに消火栓から水が出なくなる。そりゃそうですね、水圧なくなるからね。そうすると「あそこの会社に加圧ポンプがあるから借りてこい」。ずっとまちづくりをしてますから、街のいろんなことを知ってるんです。それも非常に大事な話。そしてまた水をかける。また出なくなる。そうすると「○○(近くに大工場)は自衛消防団を持っているから、あそこに出動要請してくれ。」。工場の方も現場判断で出てきました。放水しようとしても、ホースが届きません。そこから先は、街の人みんな総出でバケツリレー。お風呂屋さんからも水を持ってくるというように、住民が必死で頑張って火を消し止めた。後に「真野の奇跡」と呼ばれました。
震災当時、もう一つ「真野の奇跡」があります。あの頃、救援物資は神戸市に届くんだけども、隅々に行き渡らないんです。ところが真野では、震災後3日目には、神戸市に「全ての救援物資を真野小学校のグラウンドに集めてくれ。そこから先は、地域で配布する」と要請しました。写真のように、小学校グランドに運動会で使うテントが並んで、そこにいろんな物資が届きます。学区だと、それぞれの町にどれぐらいの人が住んでいるか分かるわけだから、人数に応じて配分していくんです。それを、各町自治会で住民に配分する仕組みをつくり上げたわけです。
何でこんなことをしたのかって聞いたら、住民の代表が、震災直後に長田区役所に毛布とかの備蓄品を取りに行ったとのこと。今ほどじゃないけど、当時でも当然そういう備蓄品はあります。ところが行って目にしたのは、我先に物を奪い合う人たち。そういう中で、年寄りとか障害のある人は、隅っこに寄って呆然としている。弱い者を支えながら頑張ってきた真野でこんな景色は出したらあかんと思った住民は、真野にとってかえしました。当然、役員が揃わないため推進会のような組織的な動きはできないけれど、まちづくりで頑張ってきた仲間で声を掛け合い、動けるものだけで災害対策本部を立ち上げたそうです。
これは、小学校の職員室に設置された災害対策本部の様子です。よく防災訓練とかしてますけど、訓練しても実際のところはうまくいきません。このときもすごかった。みんな喧嘩腰です。「知るか、そんなもん」みたいに。そんななかでも、「明日、毛布が何千枚来るけど、どうする」というような対応をしていきました。このときの経験で、とても大事な話をします。この当時、真野にいろんな救援物資が届くものだから、よそから「真野はえこひいきされている」という話が噂が出ていた。でもこれは、このとき僕はこの場にいたからよく分かるんですが…例えば、丹波から、「ぼたん鍋の材料を3,000食届けたい」と神戸市に電話が入る。まぁ贅沢な話ですよね。ところが神戸市は当然、ぼたん鍋3,000食をさばけないんです。よそに持っていってもさばけないんです。でも真野に電話をすると、「3,000はいらない。1,500ならどこどこ公園に持ってきてくれ。みんなに周知して連絡するから」という話になる。つまり、きちんとした組織を震災になって急に作ろうといったって無理だけども、地域の中にきちんとした組織を持っていたら、そういうときにも自律的に動くことができるから大きな力になるんです。それを目の当たりにしました。
これも私が建築ボランティアとして真野に泊まり込んでいた時の話です。「今日は天気がいいから炊き出しをしようか」という話をまちの人がするんです。「ええなぁ」ということになって、見ていると、倉庫からステンレスの巨大な竈と、石川五右衛門を釜ゆでにするときみたいに大きな釜が出てくるんです。それで、「これって防災用品ですか」と聞いたんです。災害のときのために用意してたんですかと聞いたら、「あほか、そんなことする」と返されました。「真野で、お祭りのときとか、少年野球があったりすると、豚汁作ったりとか、炊き出ししるから、いつも使ってるやつや」と。なるほどと思いました。何か防災用品を蓄えていたから何とかなるんじゃないし、日常的にちゃんとコミュニティの中でいろんなことをしていることが、こういうときにも活きるんだ、というのを実感した瞬間です。
もう一つ真野ですごいなと思ったこと。阪神・淡路大震災は災害ボランティア元年と呼ばれていて、全国からいろんなボランティアが来たんです。真野にも来ました。ただ真野の場合、もう一つ特徴的だったのは、被災の度合いが少なかった人がボランティアで頑張ったんです。だから住民ボランティアがたくさんいました。その中心はさっき言った同志会のメンバーですけどね。それも、真野の特徴です。
そういう真野ですから、高齢者に優しいということも分かっているから、神戸市は震災公営住宅、ライフサポートアドバイザー付きのシルバーハウジングを真野に建設しました。その隣に児童館を作り、その1階部に「地域福祉センター」を建設して、その管理を真野に委ねました。ですから、先ほど紹介した給食サービスとかもこの場所に拠点を移して、自分たちの場所として今もこの地区センターを活用しています。そういう形で、物とコミュニティが非常にうまくセットで組み合わせながら使われています。
震災復興対策本部が置かれていた「まちづくり拠点」も、自分たちで建て替えました。地域住民に寄付を呼びかけ、1,200万円を地元で集めて、神戸市さんの補助金を1,200万円もらって建て替えました。
その後もいろいろあるんですけど、時間の関係で飛ばします。最近の活動では、要援護者支援。お年寄りで動けない人、身体の弱い人を地域でどう支えるかというのは、今、日本中で大きな問題になっていますけれども、真野は神戸で最初に要援護者支援の仕組みを作りました。まちの人が集まって、町内ごとに、この人をどう支えようと話し合ってマッチング、つまり誰が誰をどう支えるかを決め、それに基づいて、防災訓練を行いました。今でも毎年やっています。
2019年には、真野で、震災25年にちなんで安心安全を考えるワークショップというのをやりました。そのイベントにちなんで出来事を紹介します。実は真野には、震災後ベトナムの人がたくさん住んでいます。ベトナム人が多い街になっています。真野の人たちはベトナム人だからっていうことで差別しません。元々自分たちも差別されてきたからだろうと思うけれども、差別しない。ワンルームに住んでいる若い人よりもベトナムの家族の方がよっぽどいいよね、と話をしています。でも一方で、なかなかゴミ出しなどの地域のルールを分かってくれないから困っていました。今もそれで四苦八苦しているんですけども、幸いベトナム語が分かる青年が長田区の社協に来たので、その人の力を借りて、ベトナムの人たちとの交流を図ろうとしています。この25周年のワークショップのときに、ベトナムの家族に集まってもらって、真野での暮らしの話や、こういうことをしたいという希望、防災の話やこんな不安があるということを話し合いました。また、真野にあるベトナム寺のお坊さんも参加して想いを語ってくれました。ベトナム人家族は、懇親会にも参加してくれました。最近の真野の話です。
これは、推進会総会後の懇親会の様子です。真野の住民と神戸市職員が仲良く話をしています。要するに何が言いたいかと言ったら、パートナーシップってこんなもんだってことなんです。お互いに信頼し合いながら、住民主体行政参加という形で進めてきました。
真野まちづくりを支えているのは、実はコミュニティ活動なんです。理屈で進んでいるんじゃない。まちの人たちは、いろんな出かけるイベント・場所があります。中心になっているメンバーたちは、実行委員会をつくり連携しながら、いろいろな活動を動かしている。いろいろな活動・イベントがあることで、真野の人たちはつながり、うまくやっている、という様子をざっと紹介します。今は、コロナで3年間活動ができてないからやばいんですけれども、朝の6時から300キロからの餅をつく「寒餅つき」「花まつり」「七夕」「盆踊り」など。そういう中で、子供たちの笑顔があって、おっちゃんたちも結構元気で、おばちゃんたちも元気で、お年寄りも仲が良く暮らしていて、猫も機嫌良く昼寝するまち真野、というあたりで真野まちづくり物語の画像は終了です。
真野のまちづくりの合言葉は、「地域のものは地域で守る、地域のことは地域で決める」。これは今日の一番最初に語ったことですが、「自分たちのまちは自分たちで創る」というのは、僕はこういうことだと思っています。そうやって、地域で地域を運営する小さな自治区が出来上がっていると思っています。最近流行りの言葉で言うと「コミュニティ・ガバナンス」。コミュニティの自治というか、コミュニティの政府ということですけれども、真野は55年やってきた。「まちづくり」というのは日本発の言葉ですから、「真野まちづくり」はたぶん、世界最長のまちづくりだろうと思っています。
ということで、まとめに入っていきます。「自分たちのまちを自分たちで創る」ことはできる。そのためには、まず何よりも住民が主体的に関わることが大事です。つまり参加意識、自治意識を持つことがとても大事です。これは教科書通りのお話です。ただ、ここから先がリアルな話です。当たり前の話ですが、住民みんなが主体的なわけではない。みんなが同じなはずはない。自分のまちに関心がある人も、関心がない人もいる。頑張る人もいるし、動きたくないと思っている人もいる。関心のあることも人によって違う。例えばお年寄りの関心事と、子育て中の若いお母さんたちの関心事は、全然違う。それは、調査でも明らかになっています。あるいは、好き嫌いもあれば、あいつと一緒にしたくないという話もあるし、意見が対立することだってある。実はこれは当たり前の話です。これが当たり前のまちなんです。それがおかしいわけではない。これが伝えたいことのもう一つです。逆にみんながみんな同じ想いを持って同じ方向に走っているまちって変ですよね。気持ち悪い。ファシズムという言葉もあるけど、まず何よりも気持ち悪いです。だから違いがあって当たり前。頑張る人もいれば頑張らない人もいて当たり前。
そこからスタートしたときに、地域として大事なことは、住民のつぶやき、一人一人の思いを大事にしないといけないということ。(想いが)違う人もいます。頑張らない人だってつぶやきます。そうした住民のつぶやき、いろんな想いを拾い集めて、地域の想いとしてまとめ上げていく。それも一つに絞って、もうこれで決まり、というようなやり方ではなく、違いを認めながら。こういう違いもあるし、こういう違いもあるし、それをまとめてみると、こういう意見がありましたよね、という形で話をまとめながら、地域をきちんと運営していく仕組みが求められています。
つまり、「地域を代表する組織」という言葉になるんでしょうけれども、真野のように、ちゃんと地域全体として地域を束ねて運営する仕組みが大事だということです。それは地域の人たちのよりどころであり、地域の人たちを支え、ときに地域のあり方を決定し、行政とも交渉できるような組織です。北方の「まちづくり推進協議会」、これはむしろ北九州市の思惑で作られたところですけれども、そういう役割を果たしました。真野の「真野地区まちづくり推進会」というのは、まさに真野の住民たちが「そういう場(組織)が必要だ」と考えて、大同団結して作りました。そういう場(組織)が必要なんです。ただし、他を排除するような場であってはだめです。真野の場合を見てもわかるように、意見が違うからといって、ヘゲモニー争いをして、勝った方が支配をして他を排除するようなことをしたら、全体として一つじゃなくなるんです。だから、他を排除するような堅い組織じゃなくて、いろんな人間が関わる柔らかい組織、例えば真野同志会に集まっている飲み会が好きなメンバーがまちのために頑張るような、そんなかかわり方がちゃんと生きていくような、そんな形が非常に大事なのです。そういうことを、真野の事例、それから北方の事例が教えているのではないかと思います。
というわけで、整理します。事例を通して見えてきた「自分たちのまちを自分たちで創る」ための要件は、一つは、今言ったみたいに、地域を束ねて地域を代表する組織がやっぱり必要だということ。住民のつぶやきを集め、住民の信頼のよりどころとなり、必要なときには地域の想いを代表しうるような組織。これはまず、対住民に対してそうです。「真野地区まちづくり推進会」がそうだったように、「地域として、こんな意思で動きます」と住民にちゃんと言えるだけの形と信頼が重要です。より大事なのは行政に対してです。「地域を代表している」と認知されていような組織を地域が持っている、というのはとても大事な話だと、お伝えしておきます。
二番目はやっぱり、「共にいる専門家」が欲しいです。住民だけでは、想いが堂々巡りします。でも、上位にいて、専門知識を押し付けるような専門家はいりません。住民と共にいて、住民の想いや地域の課題を実感共有し、自分の中に取り込んだ上で専門性を活かしてアドバイスする、あるいは住民とともに悩む。そういう専門家が必要です。北方の髭の洋行さんがまさにそういう人でしたし、真野には宮西悠司というまちづくりコンサルタントがいて、彼はほとんど無給で、ずっと40年間にわたって真野と付き合っている、そういう人物です。
三つ目は、今日行政が来ていないのは残念なんですけど、行政との関係も大事です。ただ、行政というのは、なんかよく分からないんです。実際に大事なのは、「誰それさん」という固有名詞の、目の前の行政職員なんです。行政、あるいは行政職員も仲間にすることです。行政側が隠れた目的を持っていたら別ですけど、事業の大きな目的が、「みんなが住み良いまちづくりをする」ということであるならば、行政と地域はパートナーシップの関係を持てるはずです。そうであってほしいと願っています。そしてそのときには、相互信頼の関係構築は不可欠です。ただ、相互信頼と言いながらも、「なあなあ、まあまあ」とか、妥協するとか、そんな話じゃない。水平の関係のなかで必要な喧嘩をできる関係です。行政の方も、制度上できないことはできないと言えばいいだけの話です。そういう喧嘩ができるような関係を作る必要があるだろうと思っています。当然そのときに地域側で大事なのは、代表する組織のスタンスです。ちゃんと行政を仲間に引きずり込むようなスタンスを持っているということが大事です。真野はそうやりましたけどね。それと、間を繋ぐ「共にいる専門家」の役割も非常に大事です。翻訳機ですからね。「共にいる専門家」というのは通訳みたいなもんなんです。行政の用語も使えます。住民の用語も使えます。そういう人が非常に大事。
行政側については、これはまずやっぱり、本当にみんなで住み良いまちづくりをする気があるのかという、行政方針を持っているかどうかという問題です。北九州市はありました。神戸市もありました。ただ、そういう行政の方針だけでなく、もう一つは担当職員の姿勢です。行政の思惑は行政の思惑としてあっても、行政の中も実は一枚岩じゃないんです。職員一人一人の想いがあります。で、京都市全部を信用しなくても、「この人なら信用できる」という相手がいればいいんです。その人は少なくとも嘘は言わない。騙さない。そういう関係の人がいることが、非常に大事だろうと思っています。というあたりで話を終わります。ご清聴ありがとうございます。
質問その他あれば、ここから先は養正の話をしたいと思います。
参加者との質疑応答
杉山
どうもありがとうございました。(ここから)質問コーナーです。
(参加者からのメモでの質問に対して)
乾先生
PFI、民間資本を入れるというシナリオが潜在しているときにどう備えたらいいかとおいう話ですけど、今の京都市だったら、当然そういう話になるんでしょうね。ただ二つの話があって、まず原則論としてPFIそのものが悪いわけではないですよね。そういう形で、より面白いことができる可能性もゼロではないというので、即反対という話じゃないだろうと思います。その上で、なんだかんだ言っても、相手が行政であろうが企業であろうが、やっぱり、地域のまとまりが重要です。
それとあわせて、その計画をどう読み解くかとかいう意味では、さっき言った専門家のアドバイスが必要だし、それから京都市の職員で心情的に味方になってるくれるような人が必要です。そして、それを力にするのは、地域側の力です。つまり、やっぱり、「嫌なものは嫌」と言えるだけの力を備えるかどうかです。それがどれぐらいまで効果があるかは別として、市は、地元の声は無視できないという建前があるじゃないですか。形式論的建前はとても大事なんです。それをテコにして、喧嘩するときは喧嘩する。そういう意味では、真野の宮西悠司が言った面白いセリフがあります。真野でも、自治会とか自治組織は親睦団体だから、基本的には保守的なんです。現状維持が大好きなんです。だから、それをそのまま使うのではなくて、その地域組織をベースにしてそこから選抜的にメンバーを集めて、その地域組織に乗っける形で、喧嘩できる組織を作った。つまり地域の意思をはっきりさせて、相手と交渉できるだけの組織を作った、というのが宮西悠司の弁です。だからやっぱり、計画の中身についての話はこれから先いろいろあるかもしれないけども、それを受け止める側の力量だという気がします。
参加者A
去年の10月に高野の方に引っ越してきました。以前、20年ぐらい前にも興味があって乾先生の話をその頃も時々お聞きしていまして、久しぶりにお聞きして面白かったです。北方のまちづくりの方で、おそらく世代交代がもう出てきている時期じゃないかと思うんですけど、世代交代についてどうなっているのかを少しお話いただけたらいいかなと思います。
乾先生
ごめんなさい、最近の北方は知りません。真野は知っているので、真野の話で勘弁してください。
真野も、最近は世代交代で悩んでます。あのね、真野は世代交代ができてないと批判されていて、確かに今、真野で調査すると、一番頑張っているのは70代80代なんです。つまり、昔から頑張っていた層がだんだん高齢化しているわけです。ただ真野は、実は初期から数えるとリーダー層が4代変わっているんです。だから、世代交代がうまくいった一つの事例なんだけども、今ちょっと伸び悩んでます。ただそれでも今いくつか動きがあって、真野ウィンという若い子供たちを巻き込むような動きをしてみるとか、そういう取り組みなど、結構面白い動きをしてます。時間がないので、その程度しか紹介できませんが、実際(世代交代は)結構難しいです。なお、正直に言えば、北方は、住民の力よりも行政とコンサルタントの力が大きい事例です。
参加者A
公営住宅が世代交代するときにどうなるのかなというのがちょっと気になります。
乾先生
公営住宅の世代交代の話ですね。うまく受け継がれるかどうかという。それちょっと調査してみてください。すみません。
参加者B
公営住宅の世代交代の話と一緒になるかもしれないですけど、応能応益制度の家賃の市営住宅で、安定層が流出して困窮世帯とかが入ってきたり、そこに残るという状態の中で、まちの担い手が少なくなっていて、若い世代が入ってきても、時間的な余裕も金銭的な余裕もなくてまちづくりの担い手が少ない。そういう人をどうやって巻き込んでいくのかというのは、これはどこでも同じ課題だと思うんですけど。それをどう考えたらいいですか。
乾先生
それはすごく難しい質問ですね。要するに応能応益になればますます、サラリーマン世帯とか、それなりに収入を得ている人は、こんなところに住めるかというので出ていってしまう場面が多くなり、ますます高齢化が進んでいくという話ですから、それはおっしゃる通りだと思います。ですからそういう意味でいくと、制度そのものの問題もあるのかもしれません。ここだけじゃなくて、公営住宅自身が抱えている話。ただし、日本という国は公営住宅のことについて真剣に考えない国です。もうそのうち消そうと思っている国です。これは日本だけじゃなくて、世界中がこういうソーシャルハウジング、社会住宅と呼ばれるものから手を引きつつある時代だから、そういう制度上の問題は根本的なところであると思います。だからまずは、ちゃんと批判すべきことは批判しながらやっていくという話が大前提としてある。その上で、それでもその制度を論じていてもなかなかうまくいかないとすると、やっぱりあとはジタバタする話しかないのではないかと考えています。
例えば行政レベルのジタバタで、最近それなりに面白いかもしれないのは、空いた公営住宅に留学生とか学生とか、海外からの人に住んでもらうような話があります。それがそのまま担い手になるとは限らないけども、少なくとも新しい世代が入ってくるような形での可能性が生まれてくる。それに対して、今度は受け入れ側がどううまく巻き込んでいくかという話になります。
もう一つは、応能応益でも転出していかない人を作らないといけない。大変は大変かもしれないけども、「俺のまちはここやねん」「家賃が上がっても離れたくない」と思う人が少しでも生まれるような筋立てというか動き方を考える。これは難しいし、それで劇的にメンバー増えませんよ。でもそういう人が何人かでもいると、新しい可能性が出るかもしれません。そういう期待みたいなことしか語れないですね。とても一般論ですから、正直申し訳ないです。本当言うと養正の中で人を見渡したり、養正の状況を見たりしながらどんな可能性があるかというのを議論しないと、今の話についてはそれ以上の話はなかなか僕には言えないです。
参加者C
今日の話は結構参考になりまして、ありがとうございます。ただ、養正市営住宅の(団地再生計画の)沿面というか、図が出ているんですけれども、それは住民が決めた問題ではなくて、京都市から下りてきた図なんです。その中でもまず、この未来のまちづくりミーティングをする前にもう一つの会議があったんですけども、その会議の中ではお互いの議論を合わせてやってたんですけども、一向に京都市からそれには答えが出てこなくて、この未来のまちづくりミーティングで、今日初めて先生からこういうやり方もありますよとか、ああいうやり方もありますということを教えていただいたんですけども、京都市のやり方はもう皆さんご存知のようにやっぱり、一方的に下ろして来てるというのが今現在(の状況)なんです。みんなで協力してそれに立ち向かわなあかん、一つにならなあかんということだと思うんですけども、難しいところだと思うんですけどね。どういう戦い方があるのか。戦い方と言ったら言葉が悪いですけど。
乾先生
最初から「戦い方」という言葉は使わない方がいいかもしれませんけども、気分はよく分かります。基本的には柔らかく行かなきゃいけないでしょうけれども、なんとなく想像はつくんです。最近の京都市のことはよく分からないけども、京都市の方針はなんとなく分かりますから、どういうことが起こったかというのは、なんとなく想像はつきますが、あまり予見で物事を言うのはやめておきます。
ただ、計画がある程度進んでしまっている。しかも、それに対して住民の想いは活かせたという実感はない、ということですよね。まず言えるのは、どんな時でも「手遅れ」ということはないと考えたほうがいいということ。これは別の全然関係ない文脈の中で読んだことがあって面白いなと思っているのですが、「うっちゃりの思想」というのがあるんです。つまり、がっぷり四つに組んで相手を負かすことが一つの方法かもしれないけども、向こうが攻めてきてなかなか思い通りにならないときでも、向こうの手を受け入れながら、その中に自分たちの想いとか、自分たちが必要なものとか、仕組みとか、そういうものを差し込んでいく。つまり向こうの力を利用しながら、土俵際でうっちゃりをかけるんです。これはなかなか面白い発想だなと思います。つまり、諦めずに「できること」をちょとずつ(ときには、こっそりと)積み上げていく。全面勝利なんていう話は難しいかもしれないけれども、ちょっとずつマシにする。少しでもマシな方がいいじゃないですか。だからマシな話を増やしていく。そういう意味ですと、今ここまで来ている話を戻せればそれに越したことはない。そういう原則論は大事にする。やっぱり原則論は大事ですからね。そもそも論、原則論は大事にしながら、でもそれだけではなく、一方でいろんな手管みたいなものとか、そういうものを使って、少しでも良い方向を差し込んでいく。そのときに専門家の知恵だとか、あるいは京都市の中に味方がいるとか、そんな話が非常に大事になります。例えば先ほどのPFIの話でも、とんでもない企業が来るんじゃなくて、もう少し地元にとってプラスになる企業が来るという話を考えるべきかもしれないし、場合によっては、その企業の方にもうまく働きかけるような方法もあるかもしれないし、地元がこうだという話をしたら、企業の方だって無下にはできないというか、商売のことを考えたときも、多少妥協するかもしれないとか、そういうことだと思います。非常に抽象的な話ですけどね。だから少しでもマシを目指そうじゃないかということです。「べき論」で考えると、どうしても勝ったか負けたか、白か黒かっていうことになるんだけども、グレーはいっぱいあるんです。グレーでもちょっと明るいグレーとか、色目のついたグレーとか、そういう「希望の物語」をいつも持っておくこと。亡くなった私の恩師の延藤安弘が、彼は何かそういううまいこと言うのが上手な人だったんですけれども、「トラブルをエネルギーに変える」と語っていました。問題を希望に変える、希望の物語に変えていくというのは常にとても大事なこと。何か問題に直面しているときほど、そういう発想は非常に大事になる。今取れる方法は何だ、これから持っていける方向は何だろうと考え続けるだと思います。抽象的な話ですみません。
参加者D
今日は面白いお話ありがとうございました。でもどちらも、血縁とか地縁に基づいての住民自治のお話だったように私には感じました。さっきからご質問が出ているように、それが薄れてきている、住民自治がそもそも薄れてきている、高齢化しているというところで、血縁や地縁に頼らない新しい住民自治、その上での新しいまちづくり、そういうものの先行事例がもしあれば伺いたいなと思いました。
この間ずっと(第1回から)この会に参加してきて、このミーティングはそういう役割を担おうと思ってくださっていると思うんですけれども、9月に市がやっと説明会に来てくれるので、そこからかなあと私は思っていますけれども、もし他の地域で血縁や地縁に頼らない新しい住民自治によるまちづくりがあれば教えてください。
乾先生
血縁はもうあまりないです。さっきの北方も血縁の話じゃないし、真野も血縁の話じゃないんです。血縁による話というのはもうあまりない。いわゆる血縁の話というのは村落共同体とかそんな話が多いんだけれども、真野はものすごく仲が良さそうに見えるから村落的コミュニティに見えがちなんですけど、あれは外から引っ越してきた人だらけの街ですから血縁関係はないんです。
地縁という言葉の方ですけれども、これは一度、解釈を変えたらどうかと思っているんです。つまり、がんじがらめの話として地縁を捉えがちだけど、ちょっと見方とかかかわり方を変えてみよう、ということです。同じ場所に住んでいる人が同じような船に乗り合わせているということでは、実はコミュニティと呼ばれるものは、どうしてもそういう側面を帯びる。つまり組織でがんじがらめになっているとか、そこに属さないとやばいとか。昔の町内会なんかはそういうところありますよね。それだと排除の思想になっていくから、逆に新しく来た人が入れなかったりとか、それこそさっき言ったみたいに、若い世代は、年寄りが牛耳っている、年寄りのニーズによる地域活動なんてのは添えないという話はたくさんあります。そういう側面での地縁組織なんかは、一度うまく換骨奪胎しなきゃいけないと思っています。でも、同じ地域に住んでいて同じような問題に直面しているから個人の想いをもとに、手を繋ぐというような活動は、僕はコミュニティのベースだと思ってるんです。当然コミュニティと呼ばれるものも、最近はSNSで繋がるとか、いろんな話が言われてますけれども、例えば遠隔地のコミュニティは災害のときに役に立ちません。だから、隣近所で支え合うというような話は非常にベースメンタルの話だと私は思ってるんです。
ただその「支え合う」という話と、さっき言ったみたいにガチガチで町内会で縛られているとか、何か頭を打たれるとか、そんな話は別で、例えばお母さんたちが寄り添って子供のこと考えようじゃないかとか、本を読む会をしているみたいな話はとっても大事で、でもこれもいわゆる地域活動だと僕は思ってるんです。だからそういう意味で概念をちょっと整理しないといけないのですが、いまほとんどの自治会とか地域組織はがちがちで、若いお母さんたちのそういう活動とつながっていませんが、本当は自治会とか地域組織のリーダーが発想を変えて、そういう若い人たちの活動は地域にとって大事だと気が付き、そういう人たちとうまく繋がっていく、そういう人たちを大事にする、ということの重要性に気づいたら全然違ってくるはずです。
例えば福岡の方に、小田部という地域があるのですが、そこはサラリーマンが多いところで、しかも賃貸住宅、アパートだらけなんだけれども、そこで面白い動きがある。子供が犯罪に巻き込まれたことをきっかけにして、お父さんお母さんたちが「親父の会」をベースにして、見守りの会を作る。それに徐々に仲間が集まっていって、「大根の会」というのが作られました。でも「大根の会」は地域組織には属さないと宣言するんです。属したら他の役目をさせられる。俺らは子供の見守りしたいだけだと。それを地域組織のほうも承認します。そのうえで、地域組織のリーダーも個人的には「大根の会」に属したり手伝ったりするような形で、うまい具合に付き合っている。そうすると今度は、「大根の会」の中からも、他の地域活動を手伝うとか、そういう関係も生まれてくる。そういうやり方で、若い人たちの場がうまく作られているような事例もあります。
だからおっしゃっている話で、地縁という話から離れた関係となると、趣味の会とかNPOになると思うんですね。市民活動になっていく。でも、これは私自身の考え方ですけど、やっぱり大事なのは「地域の問題を地域の人間が考える・取り組む・支えあう」ということ。これだけは非常に大事だと思っていて、そのために、地域の人たちの繋がり方をちゃんともう一度作り直していく、結び直していくということが、既存の組織もしっかり考えなきゃいけない話だと思っています。これで答えになりますかね。すみません、もしかしたら少し違うかもしれないけども。
参加者E
今日はありがとうございました。例に出していただいた北九州市や神戸市は、その当時かもしれないですけど、市が協力的だったというのが大きいのかなと聞いていて思ったんですけど、例えば今、ここでは正直、京都市がちょっと協力的なのかどうなのか、あるいは京都市の職員の方もちょっと頼れる方なのかなというところに不安はありますし、あと、そういう共にいる専門家の話がありましたけども、今ちょっとこの地域にはそういう専門家の姿も見えないので、そういう頼れる方もちょっと今、思い当たらないというような中で、それでも住民自治をやるんだったら、行政の方をやっぱり仲間にするという形にはしていかないといけないとは思うんですけど、そういう中でどうやって行政を仲間にするというふうにできるかというコツみたいなのがあったら教えていただきたいです。
乾先生
コツはないです。一つは、神戸市とか北九州市がそうだったのは、時代のおかげという面があります。でも、あの頃に比べると、今の時代は悪いです。それは自覚した方がいいです。公共と呼ばれるものがものすごく後退していって、役所って一体何のためにあるのかというのがとても怪しくなっている時代だ、というのはまず原則としてあります。では、その中でどうするという話ですけれども、ちゃんとした答えはありません。職員の質も凸凹ですから、なんとも言えないんですけれども、これについては「ちゃんとした人もいる」としか言いようがない。
この「ちゃんとした人もいる」という話はすごく実は大事な話で、全然今回のような事業とは関係ない昔の話なのですが、京都市が、東山の方で伝建地区(伝統的建造物群保存地区)の防災をどうするかについての計画づくりを行った際、その担当職員がものすごく真剣に地域の人たちと話をしながら、ワークショップを展開していったんです。京都市自身の方針は伝建地区の防災条例をどう作るかだけで、地域を育てようとか、地域の担い手を育てるとかいう目標は一切ありませんでした。でも担当職員は真剣に話をして、地域の人たちと一緒にワークショップをしたり調査を組んだりしていく。そのときに彼が地域から言われたのは「あんたは信用する」という言葉でした。要するに、京都市の方針、京都市は信用しないけど、「あんたは信用する」。当然、彼はただの係長だから大した権限ないんだけれども、少なくとも嘘は言わないし、持っている制度とか仕組みの中で一番ベストな方法を、地域と一緒に考えようとするという意味で、信用する。だから「固有名詞を信用する」という話なんです。そういう人がいるかいないかで、全然違う。さっき言ったみたいに、制度そのものはものすごく血の通ってないような制度。制度って元々そんなもんです。でもそれを地域にどう落としこんでいくかというときに、その受け皿をどう作るかとか、どういうやりとりをするかとか、どういう調査をするかというのは、実は担当者によって左右される。だから、担当に、そういう人になってもらわないとしゃあない、ということです。
実は某改良事業地区で、団地建て替えのお手伝いをしたことあるんです。そのときの担当者は2種類いました。「役所がする仕事なのに、なんでお前らの言うことを聞かなあかんねん」という人もいたけれども、「いや、分かる」「こうやってちゃん地域の側が組織を作り、仕組みを作って正論で話すのであれば、京都市側もこういう形で受け止める必要があるだろう」という人もいました。現場レベルの動き方は、意外と、そういうことによって変わるんです。
だからそういう意味で、仲間を作る努力は絶対必要です。それに関して、もう一つ。これも全然違うレベルの話なんだけど、昔、京都市の職員とか京都府の職員とも巻き込んで、京都で初めての住民参加のワークショップをしたときに、府職員がいみじくも言ったのが「行政職員は怖いんだ。彼らは失敗を許されないんです。要するに、与えられた予定があって、しなければいけない作業があって、行政職員はこれに従って進まないといけない。失敗したら許されない。つまり減点主義ですから、例えて言えば、上から首に縄をつけられていて、見えないところで引っ張られているみたいな存在。」「でもそのときに、住民とじかにやりとりすると違ってくる、その怖さが減る。」という話。たしかに、住民って何をするか分からないし、何を言うか分からないし、とんでもない要求するし、わがまま(半分それは当たってますよね)。住民というのはそんなもんだというのは確かにその通りだから、それを今まで何度も何度も経験している市職員は、「住民の声を聴きます」というのが怖くてしょうがないんです。だから、それが怖くないよということを、住民側がちゃんと見せないといけない。つまり、この場は個人個人のわがままを言う場ではない、俺は嫌だとか、これをよこせとか、そんな話を言う人もいるかもしれないけども、そんなわがままに対しては、「それは違うやろ」と言って、住民の組織の中でコントロールして、押さえるという話で、ちゃんと話せるような形式をつくる、あるいは、そういう組織(人たち)だということをちゃんと見せると、行政職員は安心する。そこが非常に大事な部分。職員と付き合うコツというならばそこだと思います。
杉山
充実した内容どうもありがとうございます。最後に浅井会長からご挨拶させていただいて閉会にしたいと思います。
浅井
僕も地域の消防分団員を10年やってまして、自主防災会の副会長でもあるし、やっぱり地域がコミュニケーションよくまとまらないと、防災という観点から見ると非常に弱いんですよね。だから、防災という観点から考えるとやっぱり地域がみんなまとまって、みんな力合わせて協力できるような常日頃の関係性があれば防災に関しては心強いということを日頃から感じているので、今日の話はすごく僕の胸にびびっと来たわけですけども、乾先生には、今後ともこのまちづくり委員のアドバイザーというか、専門スタッフとしてずっと付き合っていただけたらありがたい、ぜひというふうに思います。
あと一つ、今日は行政が来ていないという話もありましたけども、市営団地の再生計画というのは、市の担当が更新住宅の専門とかになってしまっているわけで、今日はソフトの面のまちづくりの話が多かったんですけども、そういうソフトのまちづくりに関しては、市はちょっとアテにならない。今まで関わってきた結果、僕の結論なんですけども、それはかえって左京区の区役所の方だと僕は感じました。それで、左京区の区役所に地域力推進室というのがあって、僕は地域の会長なので、市政協力委員としてそういう職員と常日頃よく絡んでるんですけども、ソフトの面では左京区の10年計画というのもあって、いろんな計画を出したりしています。そういうことを考えると、京都市の都市計画局の住宅課は建物専門なので、この地域のまちづくりというか、全体的なプランというのはあまり立てることができないというのをすごく感じまして、11月からのワークショップでは、いつも来てくれている市の住宅室の方も来てくれるという約束はしてくれてるし、それプラス左京区の地域力推進室の方からも、僕自身が直接要請して出てきてくれというふうなことを考えないと、ソフトとハードの面の両方のまちづくりが進んでいかないというふうに、今日話聞いていてすごく感じました。だから、そういう面でも11月からのワークショップでは、そういう展開で進めたいと思っています。今日は長時間にわたりありがとうございました。
乾先生
一つだけいいですか、忘れてました。さっき質問の中で、共にいる専門家の話がありましたよね。市にコンサルタント派遣を要請してみたらどうですかね。つまりコンサルタントを雇用する金を出せということです。地域のために、ハードとソフトをうまく繋げるためのコンサルタントを派遣してくださいというのは、言ってみる価値はあるかもしれませんね。
浅井会長
(団地再生計画の)最初に地域の代表として区役所に呼ばれて、コンサルが主に僕に質問をしたわけです。どういうものが地域では必要ですかねとか、大型のスーパーなんかどうですかねとかいう話を直接僕にしたんですけども、大型のスーパーは近くにいろんな市場もあるし、スーパーもあるし、要は足りているから、他の方がいいですねいう話はしていて、やっぱり市の行政の人間は、あまりそこまでの能力がないので全部、外部のコンサルに投げてるわけです。だからそこも一緒に来てくれという要請は、実現できるかどうか分からないですけども、言ってみる価値はあるとは思います。
乾先生
そうですね。それって要するに行政の下請けのコンサルタントで、それでも来てもらった方が絶対良いに決まってるんだけども、今言ってたのは、住民側の味方としてのコンサルタント。つまり、ひところはコミュニティアーキテクトという言葉とかアドボゲイトプランナーという言葉で、アメリカとかイギリスでも流行ったんですけれども、日本でもコンサル派遣という制度がいくつかあったんです。つまり、住民組織の相談役としてのコンサルタント。一番望ましいのは、それを市が雇用して派遣するのではなく、コンサルタントを雇う金を住民団体がもらって、それで雇うというのが本当は一番コンサルタントのフリーハンドは増すんですけれども、そこまでは無理としても、住民側も専門家を持つという形、行政側の専門家に対して住民側も専門家を持つという形はとても必要かもしれませんね。
浅井会長
乾先生その役はどうでしょうか?やっぱり乾先生のような専門として研究されている方は、僕らが今までやってきた中で一番欠けているところがそこかなという気もしています。だから今後とも乾先生に、本当に力になっていただきたいと、今日本当に身に染みて感じましたので、よろしくお願いします。
そういう話は今後とも交渉していきたいと思いますけども、今日はこれで終わります。ありがとうございました。
編集・文章構成:南 知明
お話:乾亨(いぬい こう)先生
(立命館大学名誉教授・コミュニティ政策学会副会長・学術博士)
福岡市出身。'79年、京大大学院建築研究科修士修了。 設計技術者として住民参加の住まい・まちづくりを支援。'95年立命館大学助教授。'98年より同教授。 '19年、同名誉教授。専門は「住民参加のまちづくり」「コミュニティガバナンス」。 神戸の真野地区や京都の複数地域で、まちづくりを手伝いながら学んでいる。著書に「マンションを故郷にしたユーコート物語 ~これからの集合住宅育て」(共編著、昭和堂、2012 年1月)、「地域住民組織のあしたを考える」(『まちむら』 130~134号、あしたの日本を創る協会)、「真野まちづくりを通して考える地域自治の新しい仕組みの可能性」(『造景 2019』・八甫谷邦明)ほか。
かもがわデルタフェスティバル実行委員会 参加団体
(50音順)
京都学生演劇祭実行委員会
京都TeraCoya
左京西部いきいき市民活動センター(指定管理者:特定非営利活動法人劇研)
人権連
田中神輿会
特定非営利活動法人YTまちづくりの会
部落解放同盟田中支部
養正学区各種団体連絡協議会
養正学区社会福祉協議会
養正たすけあいの会
<オブザーバー>
鈴木暁子(京都地域未来創造センター)、吉田泰基(京都市まちづくりアドバイザー左京区担当)、京都市住宅室すまいまちづくり課
未来のまちづくりミーティング今後の予定
第七回 2022年11月26日(土)14時から
第八回 2022年12月24日(土)14時から
第九回 2023年1月28日(土)14時から
会場(各回)
左京西部いきいき市民活動センター高齢者ふれあいサロン(養正保育所向かい)
テーマ・内容
団地再生によって生まれる跡地の活用や、地域のまちづくりについて意見交換します。
この3回はワークショップ形式で様々な意見を出し合います。
第七回 11月開催 内容「現場を歩いて跡地を知る。未来のまちのイメージについて語る」
第八回 12月開催 内容案「跡地活用の希望やイメージを語る」
第九回 2023年1月開催 内容「「まちの玄関ゾーン」とされる跡地の活用について語る」
2023年2月〜3月 「跡地活用に向けて地域からの意見書(仮)」作成予定