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生死、生活、生きるということ

 山に行った。お目当ては春の山菜、ギョウジャニンニクである。
 推奨されるルートを経て山頂を目指す登山とは違い(藪漕ぎや沢登りなど、既存のルートではない道を選んで登る登山のジャンルがあることは存知)、山菜採りに道は無い。山頂は目指さず、山菜が生えていそうな沢と法面をひたすらに探す。
 人の道は無いが、獣の道はそこらじゅうにある。目が慣れてくると、斜面に走る轍や、沢にかかる倒木や中州を越える筋が見えてくるようになる。その獣道に鹿の足跡や、フンがあれば大正解で、そこに足を置きおき登っていけば、驚くほどすいすいと、高く、遠く、登れてしまう。鹿が登れるなら、人間も登れるだろう。鵯越の逆のようなことを試みながら、人間は斜面に群生する山菜を目指し、時に這いつくばり、春の恩恵をいただく。

 若芽が瑞々しい緑の顔を覗かせる隣で、その骸は黄ばんだ骨の表をさらけ出していた。昨秋に降り積もった落ち葉の上、散乱した体毛に包まれるようにして、食む草の色を歯に刻んだまま、そしてこの季節にはもうその若い葉を口にすることもなく、下顎を残した鹿がそこにいた。体毛と、下顎と、片方の骨盤以外に骨はなかった。この一つの体だけで、どれだけの獣、鳥、虫の命を繋いだだろうか。軍手をはめた手で、その下顎を持ち上げる。軽いのに重く、固いのに柔らかい。目をこらせば、命を長らえるために生え揃った歯の隙間から小さな虫が顔を見せた。一匹だけではない。多くの虫たちが、骨になったその体をまだ、まだ、分解し続けている。
 猟師の記した本によれば、生きている鹿の体表に付着しているマダニは鹿本体が絶命したと見るや、ワーッと、それこそ蜘蛛の子を散らすように離れて、また新たに存命の個体を目指すらしい。生きているうちにも、そして死んでからもなお、そこには命を「与え・貰う」サイクルがある。

 へとへとになった足腰を引きずり自室に帰ると、その空間は、森に慣れた目にはあまりにも簡素に映る。生活を行なっている“部屋”には、前述のような生死のサイクルは訪れない。水をこぼしたとしても、その水によって生を受けるものはなく、垂れた血も、排泄物も、ティッシュに染みこんでゴミになるか、下水道で運ばれて処理される。こぼした水は、床にうっすらと蒸発した跡が残るだけで、ため息と共に雑巾で拭き取られる。石ころひとつ転がっていない平坦な床には、目に見える虫一匹は歴然とした部外者となり、ハウスダストというカタカナ六文字に押し込められた小さな虫たちも、健康を害する厄介者として排除対象となっている。生活は、生死を可能な限り排除する形で成り立っている。自宅で出産をし、葬式をあげていた時代が遠のいたと言われて久しい。もちろん、適切な場面における発展した現代医療は必要不可欠であり、かつての生活様式に戻ろうという極端な話ではない。ただ、本来この身体は、生死の循環から産まれているはずであるのに、という根源的な追慕がふとよぎる。
 生活の澱から離れ、身を投じためまぐるしいほどの生死のサイクル。死ねば灰にされるこの時世に生きながら、あの、抜け落ちた己の体毛に埋もれるようにして骨になった鹿のことを想う。

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