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夜、痛み、夢の手前

 考えがまとまらなくて眠れなかった夜、動悸にのまれて眠れなかった夜、喘息で息ができずに眠れなかった、胃痙攣の痛みが引かなくて眠れなかった夜。
 うまく眠れた日のことはよく覚えている。目覚ましのスヌーズに至らず、一回目で体を起こせた日のことも。
 それぐらい、夜に眠ることはわたしにとってチャレンジングなできごとで、毎日祈るように布団に潜るのだが、うまくいかないことの方が多いから、宝物のように「うまく眠れた日」のことを抱きしめている。「うまく」「失敗」という感覚で睡眠を捉えるから、余計に眠れなくなるのだということはわかっていても、朝に起き、昼に活動することが多数(もちろん、多種多様な形態の勤務があるってことはわかってる)のこの社会では、その一歩目である朝——すなわち夜の延長線——を睡眠で埋めることができないやつは、それだけで社会不適合の烙印を押されるような心地がする。睡眠というスポーツにおけるビリだ。眠れない、そして、起きることができない、ということは、想像以上に“みじめ”だ。
 “良い睡眠”に効くとされることはほとんど試したと思う。枕を換え、寝具を変え、アロマを炊き、ストレッチをし、ツボやらなんやらを押し、15時以降にカフェインを摂らず、湯船に浸かって入浴をし、日頃の適度な運動も、ストレスを回避する(むりだ!)。しかしながら、ことごとく失敗している。できる日もある。でも、好調な時に限って——狙っているのか?——体調を崩し、こうした夜に帰ってくることになる。この文章を書いているのも、三日続く謎の腹痛に苛まれる夜に書いている。
 眠れない夜は孤独だ。穏やかに眠っている人の傍らを、その人を起こさないようにすり抜け、抜き足差し足キッチンに向かい、最小限に蛇口を開け、コップに満たした水道水で飲み下す錠剤の苦さは舌だけじゃなく記憶に残る。自分はどうしてこうなんだろうと恨みたくなる。狭まってひゅうひゅうと風鳴りのような音を立てる気道を胸に喘がせながら、横になると苦しくなるからとベッドボードにもたれた斜めの姿勢のまま、薬剤による眠気が訪れるのを待つ時間の苦しさ。ねじあげられるような胃の痛みに、身に置き所がなくてただ呻くしかない夜のシーツのざらつき。止まらない思考に、仮定に、動悸に、どうしようもないまま、気絶するような眠りを待ちながら画面をスクロールする親指のだるさと、枕に押しつけた頬の熱さ。
 つらい、ねむい、いたい、くるしい。そんな夜は孤独だが、一人だと気楽なのは事実だったりする。なんとも言えないが。盛大に咳をしても、痛みに声を出して呻いても、もうダメだと咄嗟に暴れても、誰も背中をさすってくれない代わりに気楽である。夜中に煌々と明かりをつけてキーボードを叩いても、玄関を飛び出して車を走らせにいってもいい。孤独とは、集団の中で感じた方が毒性は強い。自ら選ぶ孤独は心地よい(ある意味、心地よく感じるのも毒の一側面かもしれない、毒も適量だと恍惚感を得られるというし)。もちろんそれに伴うリスクや責任も比例して大きくなるが、それと毒とを天秤にかけて、自分に適しているほうを選んだらいい。
 いいのだけれど。眠れないのであれば仕方がない。仕方がないので、どうしようもない。どうしようもなく、夜を、そして朝を、しのぐようにそれでもなんとかやっていく。

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