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声、読書、暴風雨

 頭のなかには声があった。あまりにも近くに、そして初めからあったので、それを声だと気づくのにずいぶんと年月が必要だった。自分の声であったり、誰かが放った言葉であったり、この世界にはいない誰でもない言葉であったりするそれは、頭蓋骨のなかで果てしなく反響し、ぐるぐると巡りつづけた。こうしてわたし自身の状態を描写することで、診断ごっこはしないでほしい。そのうえで、続ける。
 本を読む、テレビを見る、ラジオを聴く、スマホを触る、などのことをすると、頭のなかの声が淘汰されるのか、とても楽になる(それらでも淘汰されないときもあるが、そうなったら寝るしかない)。最近はショート動画やSNSが発達しているので、そうした発露の消費に夢中になるのは時間の問題だった。では、スマホが出てくる前はなにをしていたのだろうと思っていたけれど、電子辞書を「あ」からひたすら読んだり、本棚の背表紙を上から下まで読んだあとにまた上から読んだり、何百回と読んだ学研歴史漫画を台詞をそらんじながら再読していたので、体質としてはあまり変わっていない気がする。
 読書は好きでも得意ではないが、確実に本の虫だ。先述のような状態から楽になりたいから読んでいる節があり、真っ当な読書家の目にとまればいとも簡単に燻蒸されるタイプの虫である。無力で小さい虫けらだ。文字を書くことについても同じで、こうして頭の中の声を文字にする、という作業をしているときには必然的に頭の声に振り回されなくて良いので、楽だからしていたいのだった。では、こうして頭の中の声を工場のライン上に乗せられない時にはどうなっているかというと、暴風雨のなかにいるような心地といえる。
 横殴りの雨が顔を打つと痛いように、ぐっしょりと頭の先からつま先まで濡れると芯から冷えるように、暴風雨のさなかに立ち続けるということはひじょうに疲れる。雨に苛まれて熱を出すこともあるし、ぬかるみに足を取られて転ぶこともある。SNS(とくに、Twitter)をしていると、そういったタイプの人が結構いることが知れてよかったが、この、自身の眼前にある苦悩と付き合うのは結局自分しかいないので、遠く離れた島にどうやら自分と同じ言語の人がいるらしいな、という程度の安堵だけを胸に、ひとりまた暴風雨のなか立ち続けることには変わりない。
 気づかなければよかったのだろうか、と思うこともある。そこに声があるということも、自分は暴風雨のなかにいるということも。気づかなければ、直視しなくて済んだのではないか。そうであれば、苦しんだとしても、直視したうえで諦めなければならないような、相反する苦しみに七転八倒しなくて済んだのではないか。しかしながら、目の前にある文字であればどんなに慣れ親しんだ文字列であっても勝手に目が読んでしまうのだから、目の前の苦悩ですら読まずにはいられなかったのかもしれない。
 わたしはいまも暴風雨のなかにいる。傘をさしたり、長靴を履いたり、合羽を着ることを少しずつ覚えながら、それでもきっと、暴風雨のただなかにいます。

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