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政治家になる 私の兄 第8話「兄の選挙活動」


私の兄「神沢かずたか」が、4月16日告示の豊島区長選挙に挑戦します。3人兄弟の末っ子の私と、長男の兄の思い出を語っていこうと思います。

4ヶ月前

去年の年末、兄から電話がかかってきました。内容は豊島区長選挙に挑戦するから手伝って欲しい。軽い気持ちで安請け合いしたことは既に述べた通りです。

選挙戦開始

本格的に選挙戦が始まったのは2月頃から。それよりももう少し早くに、兄は街頭演説を始めたようでしたが、私はその頃から一旦実家を出て、兄が用意した巣鴨の家で暮らし始めました。当然選挙活動についてのノウハウなど知らない私は、最初「選挙のプロ」のような方がたくさんいて、私はその下っ端として歩き回ったり事務所で留守番をしたり、というような単純なお仕事をするのだと思っていました。それは半分は正解で、そして半分でしかないということに、私はすぐに気付かされます。

過酷な選挙活動

私が最初に行った大きな仕事は、豊島区内84丁各地へと出掛けて行き、兄のポスターを貼らせて下さいとお願いをしに行く仕事でした。歩き回り、頭を下げ、断られ、また歩き回り、頭を下げてお願いをする。用意したポスターは約1000枚。両面テープで裏張りをし、丸めて事務所まで持ってゆく仕事も、私や有志のボランティアで行いました。

最初に音を上げた私

ポスターを貼ってもらうために各地を歩き回る。私の想像力は乏しく、これには何が必要であるのか、理解し切れていませんでした。圧倒的に不足していたのは、人でした。ボランティアを主体として動かなければならない私たちは、そのボランティアの方を集めなければなりません。各所に声をかけ、空いている日にちを確認し、手伝いに来てくださった方に対しこの地区へと行って下さいとお願いする。確認用の地図、筆記用具、ポスターを入れる袋、貼らせていただく壁を拭く雑巾などなどは当然予めこちらで用意し、戻ってこられた方々から寄せられたリマインドを集約し、また次の日に備える。計画し、管理し、提案をまとめ、実行する。これらすべての段階において動いていた私は、あっという間にパンクしてしまいました。やればやるほど、やるべきことが増えてゆく状況に耐えられなかったのです。まだ2月のことでした。

兄の友人

その時点で三週間余り、無休で朝から晩まで動き回っていた私がパンクしたことは、周囲の皆さんからも「そらそうだ」と、当たり前のように受け入れられ、以後、兄が豊島区でシェアハウスに住んでいた頃に出来た友人たち、中学時代からの兄の親友、私を中心に、仕事の分担が図られるようになりました。それは、当たり前の組織形成が成されていっただけのことなのかもしれませんが、ボランティアで集まってきた有志の人々が、少しずつ、けれど確実に「チーム神沢」になってゆく時間であったのだと思います。

体力勝負

私の仕事は「朝の街頭演説手伝い」「在庫管理」「ポスター貼り」に限られるようになりました。朝7:30から9:00まで街頭で選挙用のチラシを手配りし、その後チラシや名刺、ポスターなどの在庫を数え、時間があれば豊島区中に出向いてポスターを貼らせて下さいとお願いしに行く。土日や祝日には多くの人が集まるので、その時はどうしても私が人の配置などをしなければならないこともありましたが、とはいえ慢性的に手が足りないことは最後まで続き、何かことが起これば便利屋的に動くということは日常茶飯事でした。

兄の体力

ここまでの話を読んでいただいた方の中には、「これ、兄と私、じゃなくて君の苦労話でしかなくない?」と気がついてくださった方もいるかもしれません。そうです、ここまでは苦労話です。私の。平均的に、私は朝6:30ごろに起き、帰宅は夜9:00ごろだったと思います。一般的に見てもそれなり以上に過酷な業務だったはずです。しかし、私の隣にいた兄、神沢かずたかの忙しさはそんなものではありませんでした。全て見てきたわけではないにせよ、どう考えても毎日18時間くらいは動き回り、3時間程度しか眠らない日もザラで、それをここ3ヶ月間続けてきました。先に述べた「やればやるほど、やるべきことが増えてゆく状況」も「何かことが起これば便利屋的に動く」ということも、兄ほどではなかったと思います。それでも、兄は全く疲れた様子を見せませんでした。2月に私がパンクした時も「ごめんな、気がついてやれなかった」と、謝られました。自分より遥かに過酷な状況の人間に謝られることに、よくわからない気持ちになりました。

ラストスパート。流石に疲れて……きてない兄

3月が後半になり、4月に入る頃になると、私のすべきことはポスター貼りからチラシのポスティングに少しずつシフトチェンジしてゆきました。3000枚のチラシを背負い、朝8時から夜7時まで歩き回ったりもしました。その日兄は始発から終電まで駅頭でチラシ配りをしており、出かける私に「いってらっしゃい」と笑顔で言い、戻ってきた私に「お疲れ様!」と同じ笑顔で言いました。その日は少し休んでから終電までチラシ配りを手伝いましたが、何なら最後まで楽しそうでした。

選挙戦本番

いよいよ告示が成され、そして始まった選挙戦本番。私は「団体チラシ」というチラシを使って、期日前投票をする方々に対し投票を呼びかける仕事を一任され、毎日8:30から20:00までのチラシ配りを指揮することになりました。人が足りなければ私も当然直接チラシを手渡しましたが、長丁場のチラシ配りは本当に大変です。また、この頃になると他のボランティアの方々も目に見えて疲労が増してきていました。他の選挙事務所の方々も、日に日に疲れが増している様子で、私は心の中で全ての陣営の方々にエールを送りましたし、街宣車には必ず頭を下げました。

体力の落ちないただ一人の兄

「あと◯日です。頑張りましょう」「今日も長丁場ですがよろしくお願いします」このような言葉を、私は私の差配で動いてくださる方々にかけました。中には8時間や10時間を超えて、チラシ配りをして下さる方もいらっしゃいました。みなさん快く、むしろ私に対して「ちゃんと休んで」と言って下さいましたが、やっぱりどう考えても、私より遥かに動き回っている兄が全く疲れていないことに、傾げる小首の角度は日々増してゆきました。最終日の朝ですら「始発から駅に立ちたい」「最後なので12時までチラシを配ろう」と自ら提案し、「疲れた」ではなく「お腹すいた」と朗らかに言っている兄。先ほど、移動の合間に休憩する様子を見た時も、普段家で見る兄と同じ笑顔でした。過酷な選挙を、兄は普段の兄のまま、普通に通過していったのです。

事務所は候補者を移す鏡

今私たちが常駐している選挙事務所は、元々飲食店だった場所をお借りして使っている場所で、壁紙から机、明かりなどもほぼ自分たちで揃えました。その事務所の中には、いつもどこかのほほんとした空気が流れています。選挙事務所としてこれでいいのかなあ? と、思っていましたが、「事務所の雰囲気は本人から醸し出されるものだから」と、とある政治秘書の方に言われ、これでいいんだと思えるようになりました。懸命で、でも楽観的で、人に対して親身でありながら自分に対して誠実な、そんな神沢かずたか事務所の空気感が、豊島区全体に広がってくれたら良いと、私は願います。

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