6月15日のお話
旅が彼をいざなったのか、彼が旅に魅せられたのか。どちらかはわかりません。ただ彼は、結果として長い旅に出ることになりました。
当てがあるわけではありませんでした。ただ、自分ではない何者かになりたくて、自分の跡をいつまでもついてくる自分の影を脱ぎ捨てたくて、自分のことを知らないどこかにいきたくて、異国から異国へとさまよいます。
彼は自分に与えられた「性」がとても嫌でした。
本当はみんなと仲良くしたかったのに、彼はいつも、みんなを脅かしたり不安にさせる存在として扱われました。どうしてそんな風にみられてしまうのだろう。ずっとずっと悩んでいた彼は、自分の親がこの世を旅だったのをきっかけに、誰も自分のことを知らない場所に行き、みんなに好かれる存在としてやり直したいと思ったのです。
しかし残念なことに、彼はどこに行っても彼のこれまでを知る人によって素性を暴かれてしまい、居心地がわるくなってしまうのです。
そうして何年の年が流れたことでしょうか。
彼自身が疲れ果てて、もうどこにも行く元気がないほど弱った時のことでした。彼は彼と彼の親のことをよく知っているという人物に出会いました。大変弱っている彼を見て驚いたその人物は、彼に事の経緯を聞き、神妙な顔つきになって、うんうんと大きくうなづきました。
そういうことだったら、旅の目的を逃げることにおいてしまってはいけないよ。
そういうと、彼のことをよく知るその人物は、魔法の筆で彼の後ろに素敵なビルディングを建てました。壁は全面ガラスで出来ており、色は慈悲深い大海のような青で染められていました。涼しげで知的なそのビルディングを密得たのか、次第に周囲に人が集まるようになりました。会社員風の男、バイクを乗り付けてきた大人、ビルから出て一仕事しに行こうと肩で風を切る女性役員と見送る受付嬢。屋上の人と、ガラスの壁の向こう側にも何人か。
どの人々も生き生きとしていて、彼は思わず、すごい!と感激しました。そして、ふっと顔を曇らせて、こんな素敵な建物だったら、人々も自然と集まってくるんですねと、つぶやきます。自分はこんなに嫌われているのにと寂しくなりながら、建てられたビルディングを見上げました。
すると、ビルディングを建てた魔法の筆が再びすっと動いて、彼の体に小さな四角い窓を書き込みました。するとどうでしょう。不思議な力で彼はビルディングに吸い寄せられて、いつの間にか彼自身がそのビルディングの一部になっていました。そして、その筆の最後の一振りで、彼が一部となったビルディングにバルコニーが出来て、ガラスの向こうにいた女性が歩み出てきました。
女性はバルコニーから下を望むと、会社員風の男に話しかけます。会社員風の男が急に上を見上げたので、バイクから降りた男は会社員風の男の方を見て驚いた仕草をしました。
いつのまにか、彼の周りで人々が笑ったり話したりしているだけでなく、彼を見る人たちの瞳も、これまでの悪の象徴として捉えていた瞳から、素敵な芸術を見る瞳に変化していました。
ほら、こうしたらみんな君のおかげでとても楽しそうにしているだろう?
彼のことをよく知る人物は、魔法の筆を仕舞いながら、そういいました。
君は君がいることでオシャレになった青いビルと、そこに集う人々によって、生まれ変わったんだ。
彼は、そういわれて初めて、自分が自分であることに誇りを持つことが出来たような気がしました。そして、ふと先ほど指摘されたことの真意に気づきました。
旅の目的を逃げることにおいてしまってはいけないと言っていたあの人物の言葉の真意です。旅の目的は、あの人物や、自分を素敵なビルとして存在させてくれる数々の人々との出会いを求めるべきだったのだと。
キース・へリングによって生み出された犬は、フェデリコ・バビーナによって素敵な建物のデザインに生まれ変わりました。そうです。生まれ変わるということは、自分が全く別のものになるということではなく、自分の魅力を違えることなく、周囲の人や物を変化させることによって叶うのです。
自分を否定して逃げてばかりでは、こんな生まれ変わりはできません。
さて、あなたの旅の目的は逃げることになっていませんか?キースの犬がフェデリコの筆に出会ったように、素敵な人々と出会い自分を肯定できる旅でありますように。
そして、彼らのような芸術によって、人生を肯定できる人が多く育まれますようにと願いを込めて。
1968年6月15日 日本に文化庁が設置されました。
着想 フェデリコ・バビーナ「ARCHIST」よりKEITH HARING