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TETORAの『教室の一角より』を聴いて

定期的にエッセイを書くことにした理由の一つとして、言語化能力を向上させたい、というのがあります。

思った通りのことを書くというのは、そんなに簡単ではないようなのだ。書いたものを読んでみると、なんか自分が思ったことと違う、言いたいことはそういうことじゃない、ということがよくある。


よし、試しに、TETORAの1stアルバム『教室の一角より』を聴いた感想を言語化してみようじゃないか。

TETORAは大好きなバンドだ。

なぜTETORAが好きなのか?
なんでって、カッコいいからだよ。すべてが最高なんだ。
いやいや、これじゃまったく伝わらない。
圧倒的なものを目の前にすると語彙力が無くなるというのは本当のようだ。

言語化トレーニングのために、もっと他人に伝わるように言語化しなくてはいけない。

まず、ミユキさんの軽快なドラムのリズムに、いのりさんのご機嫌なベースラインが気持ちが良い。その上にはゆねさんのほどよいひずみ加減のギターが綺麗にはまる。
そして、なんといっても、変幻自在のメロディーラインで歌うはゆねさんの歌声だ。
時々かすれる歌声から感情がストレートに伝わってくる。

どうだろう。言語化できているのか。
少しはマシになったかもしれないが、やはりこれでは全くダメだ。
確かにこれは私がTETORAを好きな理由だし、本当のことだ。

だけど、これじゃないし、おそらく伝わらない。

TETORAについての客観的な説明ではなく、楽曲(1stアルバム『教室の一角より』)を聴いているときの「私の心の中」にフォーカスして言語化してみよう。

一曲目の『素直』の出だしでいきなり心をわしづかみにされる。
近頃の音楽はイントロが短く、できるだけ速やかに歌に入るのが流行りらしい、と聞いたことがある。一曲目の『素直』は、イントロなしで、いわゆるサビから入る。

いや、別に曲の解説をしたいわけじゃない。
私の心の中を言語化しなくては。


聴いているととにかく気持ちが良い。
語彙力...

繰り返しがたまらない。ただの繰り返しじゃなくて、表情が変わっていく繰り返しがたまらないんだ。

3曲目の『今日くらいは』の最後の方の「今日くらいはさ」が繰り返されるところで、もう、感情が高ぶっていく悲痛な叫びがすごくリアルな表現で、高ぶって、高ぶって、もっと高ぶって、そして一気に冷静になるところに鳥肌が立つのです。

11曲目の『日常』の中で「ずっと」っていう思いが5連続で出てきて、その直後に「ねえ」っていう呼びかけが3連続で出てくるんだけど、「ずっと」と「ねえ」のニュアンスがそれぞれ全部違うのです。

日常の中には幸せがたくさんあって、その1つ1つに気づいて欲しくて、それで「ねえ」っていう感じなのかな。
私はそう感じます。

日常はこんなに幸せにあふれているんだよ。
ねえ、気づいてる?
ねえ、気づいてよ。
ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、この幸せな日常が続いていきますように。
そんな風に感じるのです。

何気ない日常の幸せを感じるには、悲しみも知っているはずだよね。

私もこれまで生きてきた中で、飛び上がるほどの喜びも、消えたくなるくらいの悲しみも、やり切った達成感も、自分にガッカリするような落胆も、溢れんばかりの情熱も、何もしたくない空っぽの感情も、勇気をもって前に進むときのドキドキも、怖くて逃げだしたときの虚しさも、上手くいっているときの有頂天も、結果を出せないときの苦しみも、優越感も、劣等感も、自分を焼き尽くしてしまいそうな嫉妬も、誰かと一緒にいる安心感も、誰もいないと感じる孤独感も、色々と経験をしてきた。


感情が溢れるTETORAの楽曲を聞いていると、様々な感情を生じさせるこの世界の中で、少し背伸びして、もう少し先まで歩いて行きたくて、先に行けるような気がして、、、

だから、TETORAを聴きながら歩いて行こうかな、って思うのです。
勝手に一緒に歩いている気分になりながら。

神山ユキ
2022.7.2

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