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思えば遠くへ来たものだ
(2017/03/02記)
白鳥潤一郎さんと初めて出会ったのは、中央大学で行われた服部龍二さんの研究会だった、らしい。なぜ推定かというと、私自身がその瞬間を覚えていないからだ。恥ずかしいことに、白鳥さんはバッチリ覚えていて、この話になるたび、私はいささか面目ない気持ちになる。
以来、様々な研究会や学会で頻繁に顔を合わせることになったが、そこで見聞きする彼の議論や質疑は、修士一年にして他を圧する明晰さで頭一つ抜けており、私はかなり早い内から「この人とはいずれ仕事をすることになるだろう」という予感めいた気持ちを持っていた。
仕事場の引き出しの奥に、一通の手紙が眠っている。それは二〇〇八年、白鳥さんから送ってもらった修士論文への礼状である。
手元に残る修士論文の添え状には「平成二十年一月二十二日」の日付がある。数日のうちに届けられた論文を、私はむさぼるように読み、そして、これを本にしないか、という慫慂の文章を一気に書き上げた。
事務連絡程度の走り書きならば別だが、私は手紙を、書いた当日に投函することは少ない。これは水上勉さんに教えられて以来、励行している習慣で、感情にまかせた文章を人に送らないための予防策である。
このときも書き上げた手紙を一晩おいて、翌日読み返した。おかしなことを書いているとは思わなかったが、一方で、果たしてそれが白鳥さんの意に沿うかどうか振り返るくらいの落ち着きは取り戻していた。
添え状には実証面での不足に対する悔しさがにじみ出ていた。キーパーソンへのインタビューが間に合わなかったこと、英米の資料の生かし方、日本側資料渉猟の不十分などが挙げられ、さらに検討を深めるべきいくつかの項目が記されていた。
私は封書を投函せず、机の引き出しにしまい込んだ。結局、このときはごく簡単な励ましの言葉をメールした気がする。彼がこの修士論文に微塵も満足しておらず、もっと先を見据えていることは明らかだった。それを待ってみたかった。
酒の席でのことだったので時期も詳細も判然としないが、博論の執筆が本格化する頃に一度だけ、出版をお願いできるだろうか、という控えめな確認があった気がする。そんなことは当たり前だと思っていた私は軽い返事をしたように記憶している。
その博論が、このたび『「経済大国」日本の外交』(千倉書房)として一書にまとまった。あとがきで白鳥さんは書く。
「編集を担当してくださった神谷竜介氏には、修士課程一年時にある研究会でご一緒して以来、ここまで十年近くにわたって伴走して頂いた。学会や研究会等での報告の多くに足を運ばれた神谷氏には、本書がここに至るまでの揺れや迷いといったものを含めて共有頂いている。駆け出しの研究者には得がたい貴重な経験であったと改めて思う。博士論文を一読された後、「これは私が本にします」と力強く言われたことにとても勇気づけられたことを覚えている」
原稿を読んで泣きそうになった。私にとっても、有難い経験であり、得がたい作品となったことは言うまでもない。編集者冥利に尽きる。