『国際経済と冷戦の変容』の読みかた
(2024/05/28記)
いまどき「カーター・ドクトリン」と言われて「あぁ、アレね!」と膝を打つ人はいないでしょう(苦笑)。
カーター・ドクトリンとは、1980年1月23日、当時の米国大統領ジミー・カーターが一般教書演説のなかで宣言した外交政策のことで、「ペルシャ湾における米国の死活的利益(national interests)を守るため、同地域を掌握しようとする外部勢力の試みは、必要とあらば軍事力の行使を含むあらゆる手段で撃退する」という、なかなか激しい内容となっています。
一般的には、1979年12月のソ連によるアフガニスタン侵攻に対する措置であり、「ソ連がペルシャ湾地域で覇権を握ろうとすることを抑止する」意図から発出されたものと理解されています。
また、これ以降の中東・湾岸地域に対する軍事面を含めた米国の恒常的なコミットメントを決定づけたとも評価されるようです。
このたび私がお手伝いした尾身悠一郞さんの『国際経済と冷戦の変容』(千倉書房)は、「カーター・ドクトリン」の起源を、東西冷戦や安全保障の観点だけでなく、1970年代末までにカーター政権が直面していた、内政や外交、ドルや通貨、石油や資源などが複雑に入り組んだ危機的状況に見いだします。
そして、カーター・ドクトリンがソ連のアフガン侵攻への対抗を目指したモノではなく、1960年代から続くドル防衛の側面から国際的なドル危機を回避し、さらにそのために中東産油国の懸念に応答するという複合的な目的をもっていたことを解き明かします。
従来、
1979年1月 イラン革命により国王が国外退去
1979年11月 イラン米国大使館人質事件
1979年12月 ソ連のアフガ二スタン侵攻
1980年1月 カーター・ドクトリン発出
1980年9月 イラン・イラク戦争
というイベントの時系列ゆえ、どうしても安全保障の観点から論じられがちだったカーター・ドクトリンの複雑な性格を分析するなかで、安全保障と通貨、さらに資源(エネルギー)の問題が相互に深く連関し、米国政府もそれを十分に理解したうえで政策決定にあたっていたことが明らかになっていきます。
本書の大きな主張のひとつは、カーター・ドクトリンが、「安全保障と金融の2つの領域における米国の信頼性を守るために宜言された」というものです。これは「ペルシャ湾防衛」という従来の解釈に一定の修正を迫る可能性があります。
グローバリゼーション、とくに金融市場の持つ影響力に対する米国とソ連の理解の差違や、カーター政権の対決的なアプローチ(本書が名付けるところの「競争派」の主張)の評価など、いわゆる新冷戦とグローバリゼーションとの関連をめぐる解釈によって、より俯瞰的な時代の理解が可能になるのではないでしょうか。
本書の議論には、カーター政権の対アフガニスタン・対中東政策の分析に止まらず、冷戦史やグローバリゼーションの歴史的理解にまでおよぶ意義を感じます。
つまるところ、ドルの価値の維持を含む米国の国際的信頼性の維持こそがカーター・ドクトリンの最大の狙いでした。複雑に作用しあう、政治・軍事(安全保障)・経済上の諸要因を分解し、それらの相互関係を再検討することは容易なことではありません。
このことを、解釈上の着目点の変更ではなく、丹念な一次資料の調査に基づいてカーター政権の政策形成の文脈をたどり、導き出したところが、本書の最大の読みどころだと思います。
革命後、米国への対抗を強めるイランは、ドル建てで行われていた石油輸出の決裁通貨の変更を迫って基軸通貨ドルに揺さぶりをかけます。
OPECと米国のはざまでストレスを高めるサウジアラビアは湾岸地域に対するソ連の進出を極度に警戒し、米国に強い態度で対処を求めます。
そして度重なる米国の警告を無視する形で強行されたソ連のアフガン侵攻……。
ソ連に対する国際的な包囲網を築くべく金融封鎖や資産凍結といった経済制裁措置に同盟国の巻き込みを図る米国の思惑を他所に、デタント期に急拡大した東西の石油輸出入がもたらしたエネルギー需要ゆえソ連からの石油輸入を止められない欧州各国との齟齬は広がるばかり……。
経済制裁の不調にいらだつ米国や、米国と歩調を合わせるように振る舞いつつも自国のエネルギー消費や湾岸諸国との関係から言を左右にする欧州各国の姿は、ウクライナ侵攻後のロシア制裁をめぐって足並みの揃わない、米国、欧州各国の関係を彷彿とさせます。
米国の一次資料を駆使して精緻に描かれる1970年代後半から80年代初頭にかけての国際政治のダイナミズムを味わい、そこから現代にまで通じる国際経済のリアリズムを感じ取っていただければ幸いです。
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