世にも奇妙な光景
(2009/11/06記)
神戸国際会議場で開かれた日本国際政治学会。
大会初日の一一月六日、会場へ赴く私の鞄の中には一冊の本が収められていた。中央公論社から一九七八年に刊行された「叢書 国際環境」の内の一冊『日米戦争』だった。
私がこの「叢書 国際環境」に憧れて「叢書 21世紀の国際環境と日本」を立ち上げたことはあちこちでお話ししているが、なかでも本書は五百旗頭真先生の『米国の日本占領政策』、細谷千博先生の『サンフランシスコ講和への道』、矢野暢先生の『冷戦と東南アジア』などと並ぶ名作中の名作である。
著者は、この日、最初のセッションとなる部会1「国際関係史の新潮流」で司会を務める、ハーバード大学名誉教授の入江昭先生。
もとよりそのお仕事には敬意を払っていたが、あるとき入江先生が、美智子皇后とともに私と誕生日を同じくすることに気づき、以来、勝手に親近感を抱いてきた。
アメリカ国籍を持ち、最近では日本にお帰りになることも少ないと聞く碩学に、あわよくばこの歴史的な作品へのサインをお願いしたい。そんな大それたことを考えながら私は神戸を訪れていたのである。
ただ、ひとつ私は大きな思い違いをしていた。
一九六一年にハーバードで博士号を取り、以来一貫してアメリカの大学で教鞭を執ってきた入江先生は、当然、英語で日常生活を送っているであろう。
つまり彼とのコミュニケーションには英語が必要だと思いこんでいたのである。
恥ずかしながら私は英語が大の苦手である。論文ならばまだいい。一行で三回辞書を引くことはあっても時間をかければ何とかなる。
しかし会話はいけない。すこし流暢だと、たとえ日本人のジャパニーズイングリッシュでもさっぱり聞き取れない。当然、話す方もいけない。
それでも、それでも、それでも入江先生のサインは欲しい。苦し紛れの私は、神戸入り前日、友人(ほぼネイティブ)に泣きつき、入江先生対策の英会話を伝授してもらった。
それだけに、注目のセッションが始まって、いきなり「入江です。日本国際政治学会にお邪魔するのは四〇年ぶりになります。名古屋大学の井口治夫さんから司会を仰せつかりましたが、今日はタイムキーパーに徹します」と挨拶されたときは全身から力が抜けた。
いやぁ、入江先生の日本語完璧(大爆笑)。
あたりまえだ。そもそもお前が小脇に手挟んでいる『日米戦争』だって日本語で書かれたモノではないか。何でそんなことに思い至らないのだ(それだけ舞い上がっていたということであろう)。
発表では潘亮先生、楠綾子先生という手練れと並んで井口先生の院生、友次晋介さんが「フォード・カーター両政権期における米国核拡散防止政策の展開」を論じ、フロアからも活発な質疑があって盛り上がった。
さて、入江先生の巧みなハンドリングによってセッションがほぼ時間通り終了すると、私は会場の外で機会を窺った。もっと大勢の研究者に囲まれてしまうかと思ったが、大物すぎるせいだろうか、話しかける人はまばらだった。これなら私のような門外漢が声を掛けても、さほど失礼はなさそうだった。
私は意を決して、端整な老人のもとに歩み寄った。
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Nice to meet you professor Irie.
「はい?」
Could you give me a little time for me?
「なんでしょう」
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すっかり意地になった私は無謀にも英語で挨拶したのである。でも普通に日本語で応える先生(笑)。
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I'm an editor and working for Chikura Shobo, publishing company. I've respected your work for so long time.
「ありがとう。それは嬉しいですねぇ」
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普段ならさして難しいとは思われない単語の羅列である。おまけに私の英語力の惨状を知る友人が厳選(笑)してくれた平易な会話文である。
にもかかわらず、おそらく私は必死の形相だったに違いない。真っ白になりそうな頭から暗記した英文を一語一語絞り出すのと、手にした『日米戦争』が震えていることを悟られないようにするのでアップアップだった。
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I've brought my plans to fruition as a series of books this autumn, because I long for you and Yonosuke Nagai's work.
「そうなんですか、それはぜひ拝見したい」
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私は恐怖と闘っていた。入江先生が流暢な英語で新しい話題を振ってくる前にサインにたどり着かねば……。
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Could you give me your signature? As a memorial day today for me.
「もちろん構いませんよ」
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私は息を整えるため、わざとゆっくり箱から本を取り出すと見返しを開いて手渡した。入江先生もゆっくりとボーペンを取り出してサインをして下さった。
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2009年11月6日
神戸にて
入江 昭
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あれー、サインも漢字なんですかぁ(爆)。
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It's my pleasure, to meet you today. Thank you.
「はい」
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一方的に話しかける神谷に入江先生が返事をしてくれただけで、ちっとも会話になっていないじゃないか、という非難は甘んじてお受けする。
私自身にも、別に日本語で良かったじゃない、という思いはある。だが、なんとなくそうするのが礼儀みたいな気持ちになってしまい、引っ込みがつかなかったのだから仕方ない。
それにしても、あの入江昭先生と私が、日本語と英語で対話するというのは、なんと珍妙な光景であろうか。いま思い返しても悶絶する。
あぁ、恥ずかしかった。もう二度とやりません。
でも、入江先生のサインは素直に嬉しい。こういうことが次の仕事への励みになるのだから、何とも単純な編集者である。
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