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老大家の教養

(2008/03/27記)

 著者の書き癖、というのは編集者にとってどこまで手を入れてよいか常に悩みの種となる。どちらかと言えば「味わい」と理解している私は、なるべくそれを残しておきたい気持ちでいる。

 もちろん「である」や「こととなった」といった同じ文末処理が繰り返しあらわれたり、ほんの数行の間に同じ単語が何回も使われたり(意図を込めて使っており、なおかつそれが効果を上げている場合は除く)すれば、それは指摘せざるを得ないし、著者もすんなり納得してくれることが多い。

 難しいのは名詞である。慣習上の表記、人口に膾炙した表現から明らかにずれている場合には、それがどれほど正当性を主張しようと、やはり「お恐れながら」とお伺いを立てることになる。

 自分なりの読みにこだわりを持っている方を説得するのは簡単なことではない。私が担当した升味準之輔さんの『なぜ歴史が書けるか』(千倉書房)では、日本政治史学の老大家とヘタレ編集者の間で様々なつばぜり合いがおこなわれた(笑)。

「メルボーン内閣」は「メルバーン内閣」とすべきか、それとも「メルボルン内閣」が正解か、「ジスカル・デスタン」は「ジスカール・デスタン」の方が通りが良い、「ミテラン」は「ミッテラン」ではないか、「ソヴェト」は「ソビエト」にして欲しい、等々。

 ここだけ抜き出すと一見、馬鹿みたいなことに思われるかも知れない。「そんなもの統一さえ取れていれば、著者の書いたとおりでいいではないか」。そう思ったあなたは研究者か、専門書ばかりを手がけている編集者であろう。

 そもそも私はきわめて読者に優しくない編集者である。

 まず版面を汚くするからルビを入れたがらない。「これくらいの漢字が読めない奴はこの本を読まんでよい」と放言し、組みが緩く余白が多い本を、担当編集者の前で「版面を見ているだけで馬鹿になりそうだ」と断じて、あちこちで嫌われている(苦笑)。

 ひらがな、カタカナ、漢字をはじめ最低三種類以上のフォントを組み合わせた本文。眼球の移動距離を抑えるための文字数と行数のバランス。著者の文体によって微妙に変えてある行間や字間、天地の余白。テーマごとに本が読まれるシチュエーションを検討し、その場の照明の明るさや色まで推定して決めている紙の色や厚さ…。

 読者が本を読みやすいと感じるために考えられる本の作り込みには十全の努力を惜しまないが、逆に設定する(私が求める)一般的本読みのレベルは、今日的には相当高い(もはや一般読者とは呼べないとの意見あり)。

 そんな私が否応なく折れざるをえないくらい、今日、読者のレベルは低い。著者である研究者は若いときから普通に頭のいい人たちのサークルの中にいるので、そのレベルがまず想像できないのである。

 じつは私が、この手の心配をするようになったのはサーチエンジンのせいである。編集者だってウィキペディアで調べ物をする世の中である(私はいまだに時代遅れのペーパー資料派だが)。わからない言葉が出てきたとき、いまどきパソコンで検索できなければ、大抵の読者はそこで思考停止してしまう。

 特徴ある言い回しが現れたとき、面倒でもネットで引いてみる。するとわずかな表記の差で、びっくりするほど検索にヒットしないことがままある。書き癖を残したい気持ちとの間で私が揺れるのはそんなときである。

 わかりやすすぎる故に例として適当かどうか知れないが、メルバーンかメルボーンか、はたまたメルボルンかは、じつは読者がそこから先へ進んでくれるかどうかを決定する重大な問題だと私は認識している。

 升味さんの場合も、納得してくれた部分もあれば、渋々折れてくれた部分もあれば、頑として譲れないとおっしゃった部分もある。八二歳というご高齢にあってなおその区別は峻厳で、氏の半分も人生を歩んでいない若造は頭を垂れることが多かった。

 しかも升味さんは英語、ドイツ語、フランス語に通じ、原書を自在に読みこなす。出典を尋ねる電話でのやり取りを思い返すと、どうやらラテン語もかなりいける気配だ。日本語も漢字検定2級止まりの私など眼ではないのである。

 曰く……

「たしかに、ミッテランと書く日本人は多いかも知れないねぇ。でもねぇ、現地でフランス人の発音を聞いていると、そうは、言って、いないんだなぁ。ミテラン、なんだ。ジスカル・デスタンもそう。むこうの人はジスカールなんて伸ばす人は一人もおらんよぉ、キミぃ」

「ド・トクヴィルは、アレクシスではないよ。アレクシ、だ」

「ソヴェトだなぁ、これはソヴェトだ。これはこのままにしてくれないかなぁ。アルゼリアもアルゼリア。当時はそう呼んでたんだからぁ。いいだろう? 括弧でくくってアルジェリアと入れる? おかしいなぁ(苦笑)」

「月明? これはゲツメイと読むんだ。月明かりのことだ。月明海浜は月明かりの浜辺だよ、地名じゃ、ないよ。何を馬鹿なことを言っとるんだぁ(笑)。わからんか、月明海浜、漢文調でいいと、思うんだがなぁ(笑)」

「戎服? じゅうふく、軍服のことだ。ルビなんかいるかな? 均霑(きんてん)もわからんか、そうか。なに磅磚(ぼうばく)? この前教えただろう(苦笑)。このあたりの言葉は(旧制)高校を受験するときの参考書に載っとって、それを丸暗記したんだよ。まぁ、これが読めない人は読まんでいい!と出版社は言えんわなぁ(笑)。仕方ない、ルビを振ってもよろしい」

 思わず、それ普段は私の台詞なのに、と喉元まで出かかった(笑)。……といった具合である。こうしたこだわりを、時に情に訴え、時に読者代表のような顔をし、時に譲ったりしながら、なるべく通りのよい言葉にしていただく、もしくは注釈を入れさせていただく。

 果たして升味さん(ひいては著者全般)の語りの味わいを殺してしまっていないか、それまでの文章の流れやリズムを壊してはいないか。迷うのは、常にその兼ね合いである。

 基本的にはすべて双方の納得の下で進めた校正作業だが、修正を容れていただけなかった言葉のうち「フラシ天」だけは、升味さんに断りなく括弧で後ろに(ビロードの一種)と注釈を入れさせてもらった。

「均霑」さえスラスラ読んだ千葉大の石田憲さんが真顔で、「これは僕にもわからないよ…」と絶句したのを見て、さすがに「これはイカン」と思ったのである。もちろん後日正直にお詫びするつもりだが、なんとかお許しいただきたいところだ。

 さてさて、オリジナルよりわずかばかりでも読みやすくなっていればと念じているが、そればかりは自分では判断しかねる。

 見本は四月の半ばに作るが、連休が近づくと取次も書店も事実上止まってしまうだろう。おそらく書店に並び出すのはゴールデンウィーク明けと推測している。来週月曜日に下版。諸賢の叱正を待つばかりである。

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