文明史家・野田宣雄が見通した未来
(20220210記)
優れた歴史家の文章を読んでいると、ときおり不思議な既視感にとらわれることがあります。
ごく最近起こった出来事の核心を突くような評言に驚いて、執筆された時期を確認すると、それが二〇年も三〇年も前、あるいはもっと遙か昔のことだったりするのです。
そうした深い洞察と出会うたび、歴史に学ぶことの大切さを再認識するとともに、歴史家たちの鋭いまなざしと筆の冴えを求め新たな書物を渉猟せずにはいられません。
二〇二二年最初の「愛書家の楽園」では、透徹した史眼の凄みを味わい、そこからどのような叡智を汲み上げるか、その手がかりを探る旅にお誘いしたいと思います。
はじめにご紹介するのは二〇二〇年の末に亡くなった京都大学名誉教授・野田宣雄さんの『教養市民層からナチズムへ』(名古屋大学出版会・五五〇〇円)です。
野田さんは本書で、専門であるドイツの宗教社会学的構造という観点からナチスの伸張過程を分析します。
そしてイギリス社会との比較によって宗教と政治思想・政治運動の関係、知的エリートの社会的位置づけなどを確認した上で、ヒトラーの教養市民批判や宗教戦略などを論じるのです。
あのときなぜ、何が起こったか説明されると同時にそれぞれの出来事の背後にあった政治的含意が明らかになるなかで、私たちは議会制民主主義を標榜したヴァイマル体制がポピュリズムや政治と大衆の相互不信によって瓦解してゆく様を追体験することになるでしょう。
本書はどちらかというとテーマごとに論述がまとめられているので、たとえば林健太郎さんの『ワイマール共和国』(中公新書・七六〇円)やエーリッヒ・フロムの『ワイマールからヒトラーへ(新装版)』(紀伊國屋書店・四八〇〇円)、そして野田さんご自身の『ヒトラーの時代』(文春学藝ライブラリー・一四五〇円)といった、時系列で時代を追った書籍を傍らに置いて読み進めると、より歴史の流れを理解しやすいでしょう。
また、通俗的な理解を覆し、ナチスや共産党にプロパガンダの場を提供することで世論を誘導した「街頭」や暴力のサブカルチャーの拠点となった「酒場」といった装置に目を向けることでヴァイマル体制の実像を剔出した原田昌博さんの『政治的暴力の共和国』(名古屋大学出版会・六三〇〇円)のような書物への目配りも忘れたくありません。
ある政治体制の崩壊を、自分を取り巻く社会に引きつけて観察すると、次に国際環境や外交の問題が気にかかってきます。
野田さんと同じ京都大学教授であった高坂正堯さんの『外交感覚』(千倉書房・四五〇〇円)を手に取ってみましょう。
著者の没後二〇年を機に刊行された同書に収められているのは、高坂さんが一九七七年から、病に倒れる一九九五年まで綿々と書き継いだ外交時評です。
なにしろ大半は新聞・雑誌に掲載された時評ですから、折々、日本が経験した外交的なトピックや国際情勢の動きについて、どんなに遅くとも一ヶ月、早ければ数日以内に書いた文章ということになります。
ところが現代から高坂さんの定点観測を読むと、かつての時代性を失ったテーマをめぐる論述が、それ故に、時代を超越した、日本社会や国際政治に対する分析としての普遍性を浮かび上がらせるのです。
今日、本書を読む私たちは高坂さんの知らない一九九五年以降の、冷戦後の国際秩序形成をめぐる世界の葛藤や民族主義や地域主義の勃興、なにより強国を志向する中国の軍事的経済的台頭を知っています。
高坂さんの思考過程を追うことは、今日の世界を読み解こうとする私たちに重要な示唆を与えてくれるはずです。
高坂さんには他にも、『文明が衰亡するとき』(新潮選書・一四〇〇円)、『世界史の中から考える』(新潮選書・一二〇〇円)といった不朽の名作があります。
一九八一年に初版が刊行された前者は、古代ローマ帝国と中世の商業国家ヴェネツィアの盛衰から、冷戦渦中のアメリカと経済的繁栄の頂点へ向かおうとしていた日本の未来を展望し、著者の急逝後に刊行された後者は吉田茂やシュトレーゼマン、マハンや田沼意次まで動員し、近現代のイギリスや日本の政治を引き合いに出しつつ、バブル後の難局にあえぐ日本社会へのヒントを探ります。
いずれも「なるほど」と膝を打ちたくなる発見にあふれていますが、それでいて軽々しく目の前の事象を歴史になぞらえることを戒める筆致が信頼を高めます。
歴史家の仕事ぶりを見るにつけ思い致さずにおられない困難の最たるものは、現在の価値判断に拠って、過去をただ神の高みから断罪するだけに終わらぬための評価の軸を持つことに尽きます。
ナチスの親衛隊としてホロコーストに関わったアドルフ・アイヒマンの裁判記録『新版 エルサレムのアイヒマン』(みすず書房・四四〇〇円)で、アイヒマンを悪の権化でも何でもない、ごく凡庸な小役人として描き「悪の陳腐さ」と表現したことで著者のハンナ・アーレントが痛烈な批判にさらされたことはご存じの方もいるでしょう。
その可否は別にして、見たまま感じたままにアイヒマンという人間を捉え、必要と信じれば、罪の定義や裁判の正当性に疑義を呈する。
悪夢のようなユダヤの悲劇を知りつつなおそのような態度を貫くことは容易ではありません。
フランス革命からナチズムにいたる政治発展の歴史を活写したジョージ・モッセの『大衆の国民化』(ちくま学芸文庫・一六〇〇円)が当初、「国民の大衆化」とミスリードされていたという話を訳者の佐藤卓己さんのエッセイで知ったときも驚きました。
ここを間違えると、個別の大衆を「国民」化するためのプロセスやプロパガンダに注目し、その究極的な形をナチズムだと見るモッセの論理が、もともと存在した「国民」が消費社会によって大衆化するという話に矮小化されてしまうからです。
ですからモッセのそばには、藤原辰史さんの『[決定版]ナチスのキッチン』(共和国・二七〇〇円)を並べましょう。
優秀な兵士を調達するための家庭における科学的な食事の在り方という方便から、キッチンの合理化、レシピの統一、調理の効率化を通しておこなわれたナチスによる均質化の道筋を精緻に描き出し、ドイツの台所を舞台に、ナチスが如何にして大衆を国民化していったのか、というモッセのモチーフの変奏曲を奏でます。
民主主義・自由主義の現在地についてはすでに多くの史家による様々な分析や評価があり、そこには真摯な省察や未来を指向する提言も含まれます。
二〇一三年に亡くなった政治学者フアン・リンスがデモクラシーが危機に瀕する政治過程を分析し、驚くべきことに一九七八年には公刊していた『民主体制の崩壊』(岩波文庫・一〇一〇円)や、二〇〇〇年代以降のデモクラシー不信を踏まえ、それでもその可能性を確信する宇野重規さんによる『民主主義のつくり方』(筑摩選書・一五〇〇円)などの処方箋を、私たちは今こそ丁寧に読む必要があるでしょう。
もちろん、その際には「歴史」と解釈、「事実」と忘却の関係を厳しく指摘する、武井彩佳さんの『歴史修正主義』(中公新書・八四〇円)という補助線が大きな意味を持つはずです。
キュルケゴールのいう『死に至る病』(岩波文庫・八四〇円)とは絶望のことを指し、同書の第一部はその普遍性やいくつかのパターンについて語りますが、なるほど、生涯離人感に苛まれたフェルナンド・ペソアの『不安の書[新装版]』(彩流社・五二〇〇円)や、一九三〇年代の狂気の物語に見せかけながら、じつは群衆と権力の不条理を訴え続けたエリアス・カネッティの『眩暈[改装版]』(法政大学出版局・四五〇〇円)、虚無と厭世の詩人シオランの『思想の黄昏』(紀伊國屋書店・三四〇〇円)、先に登場したフロムの『悪について』(ちくま学芸文庫・一〇〇〇円)などを読むにつけ、人々の心の内には不安ゆえの自己否定や社会との葛藤などがあふれ、世に「絶望」の種は尽きまじ、と皮肉の一言も口にしたくなります。
しかし、歴史家ならざる私たちは、そうした諸々を忘れ去ることも、常に心に留め置くことも出来ず、それを相対化し、自身の生活の中に位置づける方策をめぐらせるしかありません。
おそらくそのためには、ある意味、メタ的な方法論で世界を照射しようとするE・H・カーの『歴史とは何か』(岩波新書・八六〇円)や、野田さんや高坂さんも思索の拠り所とした一九世紀スイスの歴史家ヤーコブ・ブルクハルトの『世界史的考察』(ちくま学芸文庫は絶版、kindle版あり)、古代史研究者として、歴史的に不平等を是正する契機たり得るのは戦争・革命・崩壊・疫病だけだと看破したスタンフォード大学教授ウォルター・シャイデルの『暴力と不平等の人類史』(東洋経済新報社・五四〇〇円)といった、人類と世界をより長い射程で見据えた書物が有用でしょう。
最後に今一度、冒頭でご紹介した野田宣雄さんに立ち返ります。
昨年の末、その教えを受けた四人の研究者が野田さんを偲び、その学識と想いを世に顕すため、『「歴史の黄昏」の彼方へ』(千倉書房・五六〇〇円)という一巻選集を刊行しました。
歴史学、教養論、政治史学、宗教論という四つの柱の下に、野田さんの代表的論稿から雑誌に発表されたままになっていたコラムまで、全三一編が収録されています。
不思議なことに、この優れた歴史家の筆は、常に澄んだ諦念を宿しています。
それは野田さんが大学教授であると同時に、真宗大谷派の古刹を継いだ宗教者であったことと無関係ではないようです。
『死に至る病』(キュルケゴール)の第二部は、絶望を罪だと断じ、神に救いの道を求めるため、宗教観に乏しくキリスト教の「原罪」という概念を理解しにくい日本人にはあまり評判が芳しくありません。
しかし晩年、自身の生き方を親鸞の思想に関連づけて話すことも多かったという野田さんは、「神の前に自己を捨てる」キリスト教と「浄土門の慈悲」『歎異抄』(岩波文庫・四六〇円)の間に架橋し、絶望を諦念と読み替えることで、文明史家の透徹した眼を終生保ったのではないか、そんな風に思うのです。