日本の近代を可視化する旅
(2023/06/10記)
ユーラシア大陸の西と東、という違いはありますが、ロシアによるウクライナ侵略が始まったとき、ふと脳裏をよぎったのは日本の大陸・南方進出の歴史でした。
独善的な大国主義を振りかざすロシアのみならず、一党独裁の下で地域覇権への意欲を隠さない中国や国連決議を無視してミサイル発射を繰り返す北朝鮮を、現代の価値基準に基づいて批判することは容易でしょう。
しかし既存の世界秩序への挑戦という位相で眺めたとき、それは一九世紀の最後半に遅れて登場した帝国主義国家・日本の心理とどこかで通底するのではないか、との疑念を想起させたのです。
政治学者の三谷太一郎さんは『日本の近代とは何であったか』(岩波新書・一〇三四円)のなかで、「政党政治」「資本主義」「天皇制」と並べて「植民地」に一章を割いています。アジア・太平洋戦争の敗戦によってすべての植民地を失った日本では、その経営が近代化過程における重要な論点だったことも忘却されているだけに印象的です。
日本の近代化と海外進出には長い前史があり、とりわけ南洋進出の歴史を望見するには矢野暢さんの『「南進」の系譜』(千倉書房・五五〇〇円)を挙げないわけにはいきません。
海外雄飛という言葉が、世界に開かれ始めた日本においてどれほど魅力に満ちた輝きを放っていたか想像することは、今や困難ですが、無辜の民から始まった南方関与すなわち「南進」は、経済的次いで政治的理由から急速に拡大します。驚くほど無邪気な進出は時を経て、やがて虚妄に満ちた「大東亜共栄圏」へと変質していくのです。
中国大陸に眼を向ければ、平山周吉さんの『満洲国グランドホテル』(芸術新聞社・三八五〇円)があらわにする混沌こそ、その様子を端的に示したものと言えるでしょう。
関係者たちが残した膨大な記録・証言を編み上げた同書は、松岡洋右、石橋湛山などの有名人から小坂正則、難波経一といった無名人まで三十人以上の人物を切り口に、近代日本の「フロンティア」の姿を浮かび上がらせようとしますが、それぞれ独自の視座を持つ軍人、作家、政治家、経済人、学者、俳優、官僚らによる物語りは、容易に明瞭な全体像を結ぼうとせず、むしろそれこそが満洲の実態であったことを再認識させます。
日本の近代化は、植民地の獲得と経営をまったく念頭に置かない大日本帝国憲法の下で進展しました。故に近代化の完成にともなって日本人の間に蔓延した大国意識は、様々な矛盾や葛藤を肥大させてしまいます。
なぜ多くの日本人が大陸に雄飛することを望んだのか、そこはなぜ日本の「生命線」となったのか。錯綜する現実を整理し、それらの謎に解を導くには、フィクションの力を借りることも有効そうです。
『満州国グランドホテル』の装画を描いたイラストレーター・漫画家の安彦良和さんは、『虹色のトロツキー』全八巻(中公文庫・六九二~七九二円)において、日本人と満州人のハーフである主人公ウムボルトが、日本・朝鮮・満洲・蒙古・漢という五族の協和を謳った満洲の建国大学に編入し、両親の死の謎と自身のアイデンティティを求めて謀略の渦巻く彼の地で時代に翻弄される姿を活写しました。
フィクションらしい純粋さで大陸の有るべき未来を探求し懊悩するウムボルトと、安彦さんのデフォルメによって滑稽なまでの権勢欲をむき出しにする辻政信、甘粕正彦、東條英機、石原莞爾といった面々の対置は、フロンティアとしての満洲、ひいては日本の近代化がはらんでいた理想と現実のギャップそのものなのかも知れません。
「満洲写真全史」というサブタイトルが付された竹葉丈さんの『異郷のモダニズム』(国書刊行会・三八五〇円)を手にすると、そこに収められた大陸の自然や街並みのプリント、国策プロパガンダのためのグラフ雑誌など、多彩な満洲のビジュアルによって、往時の日本人を駆り立てた光景を追体験できるでしょう。
西澤泰彦さんの『植民地建築紀行』(吉川弘文館・二七五〇円)で満洲、朝鮮、台湾に残された植民地建築の現在の様子(使われ方)を見ることも、日本の支配のありかたと歴史的意味を考えるきっかけとなるはずです。
満洲は外交、軍事、法制といった日本近代の抱える中心的課題が常に表出し続けた地であり、日本や旧日本植民地の戦後を方向付ける「鬼胎」でした。
姜尚中さんと玄武岩さんの『大日本・満州帝国の遺産』(講談社学術文庫・一二四三円)やジャニス・ミムラさんの『帝国の計画とファシズム』(人文書院・四九五〇円)を読むと、そのことがよくわかります。
姜書の主人公は、革新官僚として日本の満洲経営に辣腕を振るい、戦後は総理大臣として日米安保の改定を成し遂げた「昭和の妖怪」岸信介と、日本に併合された朝鮮半島に生まれ、満州国の軍人を経て戦後のクーデターで韓国大統領となり、漢江の奇跡と呼ばれる高度経済成長を主導した「独裁者」朴正熙です。
半世紀以上の時を隔た後、安倍晋三と朴槿恵という両者の孫と娘たちが政権に就く現代史を知る私たちは、満韓という大日本帝国の周縁に岸と朴の足跡の交わりを追ったドラマをどのように受け止めたら良いのでしょうか。
一九三〇年代から四〇年代初頭の満洲で行われた革新官僚たちによる国家建設に焦点を当て、そこに現出する資本主義でも共産主義でもない「第三の道」としてのファシズムに着目するミムラ書も、日本近代の横顔を照らし出す佳作であり、合わせて読んでいただきたい一書です。
次に南洋や満洲、朝鮮半島以外の帝国日本の版図にも眼を向けてみましょう。そこには、どのような近代が広がっていたのでしょうか。
満洲に劣らず多様な人種が雑居していた樺太では、すでに日本時代の痕跡の多くが失われてしまいました。しかし、稚内市役所に勤務していた斉藤マサヨシさんが一〇年にわたり樺太全島を旅して撮りためた写真集『サハリンに残された日本』(北海道大学出版会・四六二〇円)を手がかりに、その面影に思いを馳せることは可能です。
豊原と呼ばれ四万人近い「日本人」が暮らした現在のサハリン州都ユジノサハリンスクや、王子製紙の工場が置かれ稚内と連絡船で結ばれていた港町大泊(コルサコフ)をはじめ、戦時中、北海道猿払からの通信海底ケーブルを陸揚げしていた女麗、終戦の五日後にソ連軍の上陸を受け全滅した真岡など、現在は訪れることが困難な街角に、今まさに忘却されつつある日本近代の骸が顔を覗かせます。
じつは戦争や帝国のパワーバランスによって幾度も国境線が引き直された樺太には、陸上の国境線を見たいという理由から、当時、多くの旅人が訪れていました。
二〇一七年晩秋、宮沢賢治、北原白秋、林芙美子らの足取りをたどる旅に出たノンフィクション作家の梯久美子さんは、その旅行記『サガレン』(KADOKAWA・一八七〇円)の始まりに当たり、自らの行為を「歴史の地層の上を走る」と表現しています。
先にも述べたとおり、自分たちが植民地を持つようになることなど考えていない時期に制定された明治憲法には、植民地や日本国民の定義にかんする詳細な取り決めがありません。
内地(日本国内)と同じ法制を適応するのか、それとも植民地法制を敷くのか、それによって「国民」としての立場や権利も変わってきます。
加藤絢子さんの労作『帝国法制秩序と樺太先住民』(九州大学出版会・四一八〇円)は、日本領となった樺太に住まう、アイヌやロシア系など先住民の「日本国民」としての取り扱い(いわゆる帝国臣民化)がどのように変化・進展していったかを丹念に追っていきます。
樺太以外の地域についても、日本国内と台湾や朝鮮半島の地方制度に着目した山中永之佑さんの『帝国日本の統治法』(大阪大学出版会・一六五〇〇円)や、浅野豊美さんたちの研究グループがまとめた『植民地帝国日本の法的構造』(信山社・五一七〇円)といった優れた分析があるのでそちらもご参照ください。
台湾については、帝国日本がほとんど唯一経営に成功した植民地、という麗しい物語があります。片倉佳史さんが台北市内に残された歴史的建造物を紹介したガイドブック『台北歴史建築探訪』(ウェッジ・一九八〇円)をめくると、現在も少なからぬ日本統治時代の建築が保存・活用されていることに驚かされます。
ただ、国民党の一党独裁時代には日本の事績を消し去る政策が採られていたことを思い返せば、保存も活用も単純な日本への好意に基づく結果でないことは想像できます。
昨年大きな話題を呼んだ游珮芸さんと周見信さんの『台湾の少年』全四巻(岩波書店・二六四〇円)でも、一九三〇年に生まれ、皇民化政策の下で育った主人公・蔡焜霖さんの波乱に満ちた人生をたどる大河絵巻のうち、日本統治時代について語られるのは第一巻の半ばまでに過ぎません。
蔡さんはその後、内戦に敗れ台湾に渡ってきた国民党の白色テロにより、一〇年もの収容所暮らしを余儀なくされます。出所してからも官憲の嫌がらせを受け続け、政治的名誉を回復されるのは九一歳を迎えた二〇二一年のことでした。
とはいえ、これも外来の支配者から受けた戦後の厳しい弾圧の記憶が鮮明すぎる故に、それ以前の日本統治下の記憶から美しい思い出だけが残ったのではないか、といった指摘に反証することは容易ではありません。
最後に日本の足許を振り返ってみましょう。天皇や皇太子が全国的な行幸啓や国家的イベントに現れることは、多くの日本人にとって「国家的シンボルを同時的に認識する」機会でした。
共に万歳を叫び、君が代を斉唱するという生々しい体験は、内地はもちろん植民地においても帝国の「臣民」たる自覚を促す行為として積極的に取り入れられました。それらの作業を文化的、社会的、政治的に分析し、近代的国民像の形成や臣民化のプロセスを追うT・フジタニさんの『天皇のページェント』(NHKブックス・一一〇〇円)や原武史さんの『可視化された帝国[増補版]』(みすず書房・三九六〇円)は、ロシアやウクライナで高まる愛国主義や、政治指導者たちのパフォーマンスの合わせ鏡とも読めるでしょう。
国家間の全面戦争という、個人には抗い難い歴史の奔流を、今一度、近代日本を考えるよすがとしたいと念じつつ、長期化の様相深まる戦況を憂う春を迎えています。
近代と、その帰結としての戦争の風景を切り取った古写真を着色した『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』(光文社新書・一六五〇円)と、猪木武徳さんが日本近代史の舞台となった土地をめぐった探訪記『地霊を訪ねる』(筑摩書房・二六四〇円)を携えて、彼の国々と日本の来し方行く末を考える旅に出ましょうか。
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