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殉職 じゅんしょく

 特定の職業に従事する者が、公務でなくなった場合、その死のことを殉職と呼びます。自衛隊員以外にも、警察官、消防吏員、海上保安官、刑務官、入国警備官など多くの職業で使われる言葉です。

 自衛隊では毎年秋に、防衛省の殉職者慰霊碑の前で殉職隊員追悼式が行われます。戦後の警察予備隊の時代も含めて1,934柱(2017年10月時点)の御霊が納められています。

 任務実施中や訓練中の事故などで亡くなられた場合に殉職と認定されます。自殺の場合は基本的に殉職とは認められません。実は自衛隊の自殺者の率は一般社会よりも高いと言われています。ともかく一般的な職業よりは死に近い職場といえます。
 
 防衛省の殉職者慰霊碑は午前中の市ヶ谷台ツアーに参加すると訪れることが可能です。三島由紀夫が割腹自殺を遂げた場所も見学することができます。柱には当時の刀傷が残っています。

 ちなみに警察官の殉職者は6,216柱(2017年10月時点)です。消防吏員は5,751柱(2017年9月時点)です。一部民間の方も含まれています。これらの数字は明治時代に警察、消防制度ができてからの合計数です。常に危険と隣り合わせのこれらの職業の方は、やはり殉職者の数も多いのです。自衛隊の殉職者数は戦後のみの合計です。

 自衛隊員が殉職した場合、靖国神社に合祀されるわけではありません。戦前の軍人はそうでした。現在は隊員の出身地にある護国神社に合祀されています。

 私の母校(少年工科学校。現:高等工科学校)でも12期生の時に、渡河訓練中に13名が殉職するという事故が起きています。恐らく自衛官での最年少(17歳~18歳)の殉職者と思われます。その地には少年自衛官顕彰之碑が建っており、献花が途切れることはありません。

 もちろん、事故などを起こさずに殉職者を出さないことが一番重要なことなのですが、任務の特性上避けられない事態も多いのだと思います。
 自衛隊の訓練では諸外国の軍隊に比べ、異常なほど安全管理に気を遣います。例えば戦車の実弾発射訓練などの場合、安全担当の監視員を複数配置し、復唱復命はもちろんのこと、戦車の上部に旗を立てます。赤旗は危険の意味で、砲弾や弾薬を装填中の場合の表示です。緑旗は安全の意味で、薬室から砲弾、弾薬が抜かれている状態です。その他に橙旗は、故障などの不具合が発生した場合の表示です。

  そこまで徹底しても事故が起きるときは起きてしまう、そのような危険と隣り合わせの職場ということなのだと思います。

 最後に殉職の事例を一つあげます。

 1999年11月22日。航空自衛隊入間基地所属のT-33ジェット練習機が入間川の河川敷に墜落し、中川尋史(なかがわ ひろふみ)二等空佐と門屋義廣(かどや よしひろ)三等空佐が殉職しました。ジェット機が墜落時に高圧線を切断したため、東京と埼玉で大規模な停電が起き、交通機関などに大きな影響が出たので覚えておられる方も多い思います。

 お二方は飛行時間5,000時間を越えるベテランパイロットでした。年間飛行と呼ばれる、パイロット技量維持のための飛行訓練を実施中で、帰路にトラブルが発生しました。

 入間基地との無線交信記録が残っています。13時38分「マイナートラブル発生」操縦桿を握っていた中川二佐は当初は軽いトラブルと認識していたようです。続いて13時39分「コクピットスモーク」基地への帰還を目指します。

 ところが13時40分「エマージェンシー!」緊急事態が告げられました。後日の検証によると、この時点で深刻なトラブルでエンジンは既に止まっていたようです。機体は急降下を始めます。あらゆる手立てを彼らは尽くしますが、基地への帰還は困難と判断し緊急着陸しようとします。

 13時42分14秒。「ベールアウト!」ついに緊急脱出するという報告が入ります。戦闘機にはパイロットの安全確保のため緊急脱出装置が付いています。パラシュートが開くためには300メートルの高度が必要でした。ベテランパイロットの彼らは当然認識しています。この時点の高度は360メートルだったと推定されています。ここで脱出していれば恐らく彼らは助かったでしょう。

 しかし、続いて13時42分27秒。13秒後、再び「ベールアウト!」との言葉を管制塔は受信します。そしてこれが最後の交信でした。彼らはパラシュートが十分に開かないまま地面に叩きつけられ亡くなったのです。

 なぜ最初の「ベールアウト」で緊急脱出しなかったのか、また二回目の「ベールアウト」後も数秒間、何とか機体を制御しようとしていたようです。
 
 緊急脱出装置が壊れていたのか?
 いいえ、その後、装置は作動しています。

 気が動転して操作が遅れたのではないのか?
 いいえ、彼らはベテランのパイロットで、交信記録の声も落ち着いた口調でした。

 ──その理由とは、事故現場を検証することにより明らかになりました。彼らが墜落した現場は河川敷でした。そのため高圧線を切断し、停電という事態を引き起こしてしましましたが、幸いにも死者はお二方だけでした。
 河川敷のすぐ側には密集した住宅街があったのです。迫りくる死の恐怖の中、彼らの視線に住宅街や学校が目に入ったのでしょう。緊急脱出後、機体は制御できません。万が一……。そして彼らは決断しました。

 T-33は大変古いジェット機でした。アメリカから譲り受けた機体で、当時のアメリカでは既に全機廃棄処分になっていた機体です。予算の都合も合ったのでしょう。日本ではまだ使われていました。
 この事故を受けて、飛行停止となり翌年の2000年に全機除籍になりました。状況によっては防ぐことができた事故かもしれません。
 後日行われた事故原因の調査では、漏れた燃料に電気系統からの火花によって着火し、火災が発生したと判明しました。最終的に、乗員及び整備員に過失はなかったと明らかになりました。

 この話には後日談があります。彼らが緊急脱出装置を作動させたのは高圧線と接触した直前と直後です。既に高度は70メートル。緊急脱出装置を作動させても助からないことを彼らは認識していたはずです。なぜ、動作させたのか?

 それは整備員に要らぬ心配をかけないためだった、と言われています。緊急脱出装置が整備不良で作動しなかったのではなかったことを示すためだったのです。

 決してこの話は美談ではありません。起こしてはいけない事故だったのです。しかし、事故は起きてしまいました。そして、このような状況に遭遇した場合、ほとんどの自衛官は同じ行動を取るでしょう。

『事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め』──それが自衛隊員なのです。

 多くの方々の目に見えぬ犠牲の上に、今の平和は成り立っているのだと深く思うのです。

第13回『このミステリーがすごい!』大賞優秀賞を受賞して自衛隊ミステリー『深山の桜』で作家デビューしました。 プロフィールはウェブサイトにてご確認ください。 https://kamiya-masanari.com/Profile.html 皆様のご声援が何よりも励みになります!