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時代の風 SS0025
平成最後の夜は、雨だった。
俺は改元で浮かれる街の喧騒の中、救急車に乗って病院に来た。廊下の待合椅子に座り、両手を組み、せわしなく貧乏揺すりをしながら、手術中の赤いランプをにらんでいる。
一瞬の出来事だった。足取りの遅くなっている妻から、わずかに目を離した隙に、歩道に車が突っ込んできた。
──激しい後悔が身体中を駆け巡る。俺が盾になってでも、妻を護らねばならぬのに。
外の風に当たりたいと妻が言った時に反対すべきだった。いや自分が道路側をしっかり歩いていれば、油断をしなければ──。
妻が手術室に運ばれてから、既に四時間以上が経過している。もし妻を失うことになれば、俺はこの先を生きてゆく自信がない。
妻は自分の全てだ。付き合い始めてから悩んだ末に、自分の出自を打ち明けた。妻は何も言わず、ありのままの自分を括らずに抱き締めてくれた。二人は一つになった。
家族という存在が、こんなにも尊く素晴らしいものであることを教えてくれた。その家族を失うのであれば、俺も死のう。
少し前には、妻の通っている医院の担当医も来た。
「必ずどちらも救うわ」と岩崎は、力強く言い、手術室に向かった。
雨音に交ざり、騒ぐ声が聞こえてくる。腕時計を見る。2355(ふたさんごうごう)。あと五分で平成が終わり、令和が始まる。俺は大きく息を吐く。
思えば、一九八九年一月七日の1030(ひとまるさんまる)に生まれた俺は、時代の風に振り回される運命なのだろう。0633(まるろくさんさん)に昭和天皇が崩御され、1436(ひとよんさんろく)に平成の元号が発表される間の、昭和でも平成でもない狭間に、俺は生まれた。
敬愛する先輩は、お前の元号は「和平」だなと笑ったが、平成になじめないまま今日までを生きてきた。新しい時代の変わり目の風に、また俺は翻弄されるのか──。
薄暗い廊下に、外からの大歓声が聞こえた。
奥歯をかみ締め、眼を閉じる。やがて喧騒も一段落して静かになり、冷たい風が頬をなでた。自分の心臓の音だけが聞こえてくる。
──手術中の赤ランプが、消えた。
息が止まる。全ての時間が止まってしまった。扉から飛び出てきた岩崎が、何か叫んでいるが何も聞こえない。体に力が入らない。
待合椅子から崩れ落ちた俺を、岩崎が抱きかかえてくれた。天から声が降ってきた。
「二人とも無事よ。杉村君、おめでとう」
消毒してマスクを着けて向かった手術室の隣室には、まだ全身麻酔で眠っている妻と、小さな保育器が見えた。保育器の中には幾つものコードがつながれた、痛々しい姿の小さな赤ん坊が、横たわっている。
難しい手術だったと医者は言った。妻は妊娠八か月で、二人を救うため妻の胸部の手術と帝王切開を並行して行ったそうだ。
弱々しく微かな泣き声が聞こえた。保育器の中で我が子は、小さな両手を天に向け、何かをつかもうと懸命に動かしている。
雨で清められた令和の世に生まれた我が子は、どんな人生を歩むのだろうか。
「あなた……」
妻の声がした。麻酔から覚めた妻の顔は、泣いているようにも笑っているようにも見える。その頬にそっと触れる。
「な、名前を早く決めてあげないとね……」
妻は保育器の息子を見て、ぎこちなくほほ笑んだ。男の子だったら忠か勇の漢字を使おうと相談していたが、予定日はまだ先だった。
「ああ……」
俺はうなずきながら、妻と息子を交互に見る。もう俺は時代の風に振り回されない。この二人を護るために強く生きる。
和(やわ)らいだ風が吹く、令(よ)き時代が始まった。
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![神家正成 (ミステリー作家、小説家)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/166000222/profile_5c3270797870ae266d71d080c37105ed.jpg?width=600&crop=1:1,smart)