夏に至る日 SS0029
夏至 2020/6/21
「さつき、さつきっ」
必死に叫びながら、私はやぶをかき分ける。夏草の濃厚な匂いが鼻を襲い、鋭い葉で手を切り、噴き出る汗が目に染みる。
喉の渇きを癒やすために、一人で川に降りて戻ったら、さつきはいなくなっていた。
人影まばらな山中だ。どこかに勝手に行ってしまえば、探し出すのは難しい。いやもし、見知らぬ誰かにさらわれていたら──。
さらに大声を張り上げ続けるが、のんびりとしたかっこうの鳴き声に交ざり、むなしくこだまが返ってくるだけだ。
今日は久しぶりの梅雨の晴れ間だった。おまけに夏至で陽(ひ)が長い。調子に乗り、遠くまで駆けてきたのがいけなかった。
もう足が棒になった。どれだけ山中をさまよっているのか、分からなくなってくる。
さつきとは、生まれたときから共に歩んできた。自らの過ちに胸がえぐられ、両膝が地面に落ち、肩が震え、こうべが垂れる。
「さつき……」声がかすれ、目の前がかすむ。
──どこかで懐かしい声がした。顔を上げ、辺りを見渡すと、また、いななきが聞こえた。
急いで立ち上がり、声の元へ駆け付けると、さつき―愛馬が、懐かしげにいなないた。
さつきの手綱を見知らぬ老人が握っている。
息を吐いて、真白の服の老爺に頭を下げると、年に合わない澄んだ声が返ってきた。
「この子は、お主に縁を運んでくるであろう。それは出逢いでもあるが別れでもある。お主は、どの路を歩むか選ばねばならぬ」
突然の言葉に首をかしげると、老爺は白いあごひげを触り、唇の端を上げた。
「この子は、皐月の生まれであろう。夏の気をたっぷりと受け、その身に秘めておる」
息を呑み目を見開く。確かにそのとおりだ。皐月に生まれたので「さつき」と名付けた。
こちらを見る老爺の両の眼が細まる。
「おやこれは、お主も皐月の生まれか。皐月は夏至を含む月。何とも陽に愛されておる」
この老爺は、いったい何者なのであろうか。自分の生まれ月まで言い当てられ、声を失う。
「だがもっと強く日輪に愛されている者が、既に尾張(おわり)から出ておる。お主はいずれその者と、対峙せねばならぬであろう」
唾を吞み込む。尾張の日輪といえば三年前に右大臣にまで昇った織田信長であろうか。
老爺はさらに眼を細め、こちらを見つめる。
「ふむふむ……。陽の対(つい)である月の動きにより、お主の行く末は決まるであろう……」
「ご……ご老体は」ようやく声を絞り出した。
「ただの山に住むきつねじゃよ、老きつねよ」
老爺の笑い声が山中に響く。
「じゃが、夏に至る日は極でもある。極は極に通ずる。お主の陽の下には、月の相が隠れておる。どちらを選ぶかにより、お主の生きる路は変わるであろう。ゆめゆめそれを忘れることなかれ」
「それで、拙者はどちらの路を──」と問うた刹那、一陣の風が吹き、老爺の姿は忽然と消えていた。目をしばたたかせながらさつきに近づく。さつきはぬれた目で一鳴きした。
「殿っ」弥右衛門(やえもん)の叫び声と馬蹄の音が聞こえてきた。「殿っ、探しましたぞ。ご無事ですかっ」
馬から降りてきた弥右衛門が、両肩を握り体を揺すってくる。その眼は潤んでいる。
「ああ……。造作を掛けたな」
「まったく、いくら早駆けといったって、それがしを置いていくことはないでしょう」
「そ、それより、白い翁を見なかったか」
弥右衛門はこちらを見つめてきたあと、周りを見渡す。
「殿、お気は確かですよね……」
私は息を大きく吐き、夏に至る日の青い空を見上げた。昼の月が見えたような気がした。
第13回『このミステリーがすごい!』大賞優秀賞を受賞して自衛隊ミステリー『深山の桜』で作家デビューしました。 プロフィールはウェブサイトにてご確認ください。 https://kamiya-masanari.com/Profile.html 皆様のご声援が何よりも励みになります!