「ミュートス」
(約六万字)
田中美知太郎先生の「すべてのすぐれた哲学は、理想についてかくのごときミュートスを含む」という言葉について考えてみました。
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0、過去のことを現在考え将来につなげる
いつものように迷子になりながらなんとか進みましたが、結論までたどり着くことはできませんでしたし、「なあんだ、そんなことなら知ってるよ」って思われるような内容です。けれども、他の人がとっくに卒業してしまっていることを、私はまだ学んでいる途中なのです。本当のところはどうなんだろう?って気になることを、なるべく偏りのないように調べ、限られた能力で解釈し、そして判断する作業に、ものすごく時間がかかってしまうのです。
目の前にあらわれる手がかりをもとに進んでいったら思わぬかたちで、私が昨年の4月に書いた「「現実」ってなんだ!→「現にあるもの」はただ「現にあるもの」として見る、しかし頼むべきは「現在を超えたもの」ってことは言えないだろうか?」の内容にぶつかりました(手洗いの意義を発見し消毒によって産婦の死亡率を下げたセンメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ医師のお話から始まります)。読み返してみて、自分自身が考えてきたことをまた別の角度から確認できたことは大きいです。生活する上で必要に迫られて考えてきたこと、つまり実践や行動の結果、自分の中に積み重なり、そして自分をかたちづくってきたものを、他の人とも共有できそうな言葉であらわすためのヒントが得られたという感じです。キーワードは「人の心理」です。
oligarchy(寡頭制)についての調べものの途中で寄り道したかっこうですが、今回の考察(妄想?)はその助けともなりそうです。もっとも、民主制ではあるけれども実質は一人が支配していたペリクレスの治世と、少数派支配という意味の寡頭制の違いについて、「現代の」自分の意見を表明しようと思ったら、まだまだ時間がかかりそうなのですが。
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CODE | アフガニスタン ぶどうプロジェクト
https://code-jp.org/afghanistan/index.html
無添加 れーずん「アフガニスタンからの贈り物」購入フォーム
https://code-jp.org/afghanistan/budou_tyumon_form.html
いつのまにかログイン情報が求められるようになっているのでFBページを貼っておきます…
https://www.facebook.com/NGO.CODE/
【09.09.追記:↑いつのまにか、と書きましたが、政情不安のために安全を考えて、とセミナーで説明がありました。SNSの中で紹介されている方々に関しても、顔がはっきりとわからないように処理されているようです。そのような事をするのは本当につらいとおっしゃっていました(…そんなような言葉ではとうてい言い表せない雰囲気を表現できないのがもどかしいです…)。やっぱり私は日本でぬくぬくとしていて平和ボケしてるんだなと改めて思いました】
「現在、在庫切れの状態ですが、注文は受け付けております。レーズンの入荷しましたら、ご連絡いたします。」
「日本とアフガニスタンは昔から歴史的なつながりが多いのです。最も象徴的なのは、シルクロードの東端は日本の正倉院なのです。また、「奈良・高松塚古墳」の国宝の壁画「西壁女子群像」(奈良・飛鳥時代)に使われている藍色の顔料は、アフガニスタンでしか採れないラピスラズリーという鉱石なのです。他にもたくさんありますが、この二つだけでも日本とアフガニスタンのつながりが如何に深いかということが推測できます。だからこそ、今回のことで、他国にはできない、日本だからこそできることがあるのではないでしょうか。」
(CODE事務局:アフガニスタン担当 村井雅清)(8月26日の投稿より)
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めっちゃ美味しいですよ、お勧めです(^^)
アフガニスタンを取り囲む情勢や歴史的経緯、また国家再建の難しさ(そもそもの国家観の違いなど)など、9月1日のFB(カレンダーの投稿)に少しだけ書いています。参考にした情報元も、一部ではありますがリンクを貼っています。
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The Steep Cost of Mishandling Our Withdrawal From Afghanistan/August 20, 2021
https://www.dailysignal.com/2021/08/20/the-steep-cost-of-mishandling-our-withdrawal-from-afghanistan/
アフガニスタンからの完全撤退を命じるという決定は、ベトナムでの終わりに「まったく匹敵するものではない」と大統領は述べた。ある意味、彼は正しい。それはもっと悪い(もっと高額な費用がかかるし、かつてない屈辱を味わっている)。
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【特別編】コロナ禍の妊婦に関わる公的機関やメディアの科学コミュニケーション、逼迫する現場からの声(8月18日こびナビTwitter spacesまとめ)|こびナビ(CoV-Navi)|note/2021年8月20日
https://note.com/cov_navi/n/n416bd3e2c8c5
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この記事中の、峰先生のフロリダとテキサスに関してのご発言にはかなりもやもやします。しかし、そのことをもって私が今後、こびナビの情報を参考にしない理由とはなりません。
立ち位置が違えば、見える景色は違います。それは専門家であっても、政治家であっても、一市民であっても、同じです。日本の多くの(静かな)人々は、その人が重要視していることや、優先順位や、そのような意見が出る背景を考えたうえで、「人」というより「情報」を参考にし、わりと冷静に状況を判断し行動されているのではないでしょうか。
そしてこのことは、今回の私の投稿、つまりむかしの人はどう考えていたのかなっていうことにも関係してきます。紀元前五世紀頃にトゥキュディデスは、「しかしこの事実の発見ということは、なかなかに骨の折れる仕事であった。なぜなら、それぞれの事実の目撃者といっても、その言うところは同じではなく、同じ事柄についても、どちら側に好意を寄せているかということや記憶の条件によって異なるものがあったからである。」(『歴史』(『ペロポネソス戦争記』)一巻22/田中美知太郎 訳)と書いています。
Fact-Checking 4 Claims About COVID-19 in Florida Spike | The Heritage Foundation /Aug 9th, 2021
フロリダスパイクでのCOVID-19に関する4つの主張の事実確認| ヘリテージ財団
https://www.heritage.org/public-health/commentary/fact-checking-4-claims-about-covid-19-florida-spike
1.フロリダはスパイクを経験している:本当。
フロリダの増加は、最近沈静化し始めたばかりの英国の増加に似ている。国のマスクマンデートやその他の制限は、事件の急増を防ぐことはできなかった。フロリダ州の事件の急増は、より広範な世界的なパターンと一致しており、マスクの義務化の実施やワクチンパスポートの採用を州が拒否したことに簡単に起因するものではない。
2.フロリダの新しい症例の増加は、ワクチン接種率が低いため:誤り。
ホワイトハウスのCOVID-19対応コーディネーターであるジェフ・ザイエンツ氏の見解には誤った箇所がある。フロリダは、ワクチン接種率が最も低い7つの州の1つではない。ワクチン接種した人は、アメリカ人全体では49.8%、そしてフロリディアンは49.2%(元記事に、米国疾病予防管理センターとフロリダ州保健局のデータのリンクあり)。
3.フロリダの病院は圧倒されている:ほとんどが誤り。
サキ報道官の「フロリダの病院が圧倒されている」という主張は誤りだが、状況は確かに注目に値する(元記事に、米国保健社会福祉省のデータのリンクあり)。
4.フロリダの事件の急増は、デサンティスのせい:誤り。
デサンティス知事はマスクの義務を避けてきたが、彼の州の保健部門はマスクの着用と社会的距離を促進している。フロリダの免疫化率は全国平均にかなり近い。症例数の増加は、ワクチン接種率の低さによるものではない。またフロリダは、自由を維持しつつ、公衆衛生も推進するという並外れた仕事をしてきた。人口10万人あたりのフロリダのCOVID-19関連の死亡数は依然として全国平均を下回っている。居住者の5人に1人以上が65歳以上(全国で2番目に高い高齢者の割合)であることを考えると、これはさらに注目に値する。
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1、「ミュートス」は「物語」と訳される
「ミュートス」と検索しても、古代ギリシア哲学につながる情報はすぐに出てきません。出てきたとしても、「ロゴス」と区別されて、「虚構の物語」などという説明にあたるだけです。
神々の「ミュートス」であるギリシア神話といえば、母である「地」から命令されたクロノスが、父である「天」を去勢したりとか、ゼウスが黄金の雨に変身してダナエのところへ忍び込んだり、白鳥に変身してレダの胸に抱かれたりとか、といった感じなので、仕方のないことなのかもしれません。けれども、もう少し進んでいくと、アリストテレス(紀元前384-322)の『詩学』における「劇の筋」の説明のページが出てきたり、最もミュートス的とも見られる『神統記』(前700頃)と自然哲学との関連性の説明も出てきたりして、少しようすが違ってきます。それに実は、ソクラテス(前470頃-399)が登場することの多いプラトン(前427-347)の対話篇には、ギリシア神話がこれでもかと出てくるのです。
「えっ?一問一答の細かい吟味を重ねていくソクラテスの哲学だったら「物語」なんて一番遠いところにあるのでは?」と思っていた私は困ってしまいました。ところで当時の古代ギリシア、特にアテナイの社会情勢といえば、「ソフィスト」と呼ばれるいわゆる弁論家が言葉巧みな演説で民衆をかどわかしていたイメージです。なお、ここらへんの事情はそう単純ではないので(※1)、丁寧に見ていく必要があることを先に申し添えておきます。
(※1)
「むかしソフィストの悪名を負わされた人たちが、事実どんな人たちであって、どんな時代に、どんな仕事をしたのかということを、根本資料にもとづいて、直接に著者が見たままを明らかにしたのが、この書物である。べつに新解釈とか、哲学的な見方とかいうようなものを心がけることはしなかったが、材料の分析が導くままに、普通の見解とは異なるような結論に到着したところもないではない。」
(田中美知太郎「まえがき」『ソフィスト』1941年初版(弘文堂書房), 1957年改訂版(筑摩書房), 1969年第二改訂版(筑摩書房『田中美知太郎全集第三巻』), 1976年(講談社学術文庫). p. 3. )
さて直接民主政といえば聞こえはいいですが、その民衆の無知と無節操さによって衆愚政治と呼ぶ人もあります。ペリクレスの命も奪った悪疫が蔓延した紀元前429年頃にはクレオンなどのデマゴーゴスが登場していますし、ソクラテスが(自殺ではなく)刑死(前399年)したのは陪審員の判断の結果です。法律上の平等を導入したソロンの改革(前594~593年)(※2)の次は経済上の平等を目指したペイシストラトスの僭主政(前561~527年)で、その次は民主政を復活させたクレイステネスの改革(前509~507年)がありましたが、その後も四百人支配(前411年)やら三十人僭主(前404年)やら、寡頭政はいずれも短期間で崩壊したとはいえ、とにかくごたごたしている時代です。そんな情勢の中で、怪しげなものではなく、【真実を明らかにし、善を求めること】(※3)が、ソクラテス、そしてプラトンの目指していたところなのでは…。
(※2)
「だが、たといソロン自身、明確に民主政を志向することがなかったとしても、彼の行った各種の改革は、以後のアテネの社会と政治の基本的方向を定め、前五世紀の民主政完成に結実する動きの第一歩となった。中小農民の救済とアテネ市民団の再建、市民身分の確立と財産級制度の導入という彼の改革の骨組みをなす部分について、そのことは明らかである。」
(伊藤貞夫「第三章 民主政への歩み」『古代ギリシアの歴史』(底本1976年『ギリシアとヘレニズム』「世界の歴史第二巻」講談社)2004年1刷, 2011年6刷. 講談社学術文庫. p. 178. )
(※3)
【 】内:田中美知太郎『ロゴスとイデア』のあとがき(岩波書店)1947年(『全集』は筑摩書房1968年)
ところで紀元前431年から404年まで27年間も続いたペロポネソス戦争を描いたトゥキュディデスは、歴史家の先輩でありペルシア戦争を描いたヘロドトスとよく比較されています。批判的精神が強く、材料をよく吟味し、なるべく事実に忠実であろうとしたトゥキュディデスが書いた記録は、おしゃべり好きのヘロドトスが書いた、物語やら神様のことが混じっている文章に比べて史実性が高いのではないか、というような趣旨で語られていることが多いようです(もっともヘロドトス自身は記述に正確と公正を期したことを表明しているのですが)。しかしその一方で、有名な古典学者のコーンフォードはトゥキュディデスのことを「ミュートス的歴史家」と名付けるべきだと言っているのです(加来、1963)。これはどういうことなのでしょうか。もしかしたら、トゥキュディデスの「伝え方」(※4)に、何かヒントが隠されているのかもしれません。
(※4)
「こうした目的をもった彼には事象の中から自己が見出した歴史の動きの規範性をできるだけ明確に人々に伝えて、世人を啓蒙する使命感があった。しかしその反面、自己の言わんとする結論を直言せず、それを可能な限り隠したまま、主題の並べ方やその選択によって自然に人々に伝えようとする役目をも自己に課していたのである。」(p. 377. )
「かえって全体から見れば平明に事件の推移を述べている部分の方が多いのであるが、重要な箇所、とくに演説の部分になると文章は難解になる。演説はトゥキュディデスが歴史の規範性を表現する必要に迫られて書いたものであるだけに、その規範性を露わにしないための特別な配慮が払われたのであろう。」(p. 378. )
(小西晴雄「訳者解説」トゥキュディデス 著 『歴史 下』(底本1971年『世界古典文学全集』筑摩書房)2013年. ちくま学芸文庫. )
このあたりは、加来彰俊先生の「歴史記述の客観性 − トゥキュディデスの中の「演説」をめぐって − 」に詳しいです。次の節で、一部を引用させていただくことにします。
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2、トゥキュディデスの話、加来彰俊先生
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一般に、古代ギリシア・ローマの歴史家たちは一様に循環史観を抱いていたというのが、何か常識になっているけれども、しかし循環史観そのものの定義はすこぶる漠然としていて、その典拠も必ずしも明白であるとは言いがたいようである。もしそれが、ヘラクレイトスやストア派の自然哲学的思想や、あるいは例のポリュビオスの政体の変遷は円環をなすという政治理論のことを指しているのなら、そのことと、歴史の過程の中に同一または類似の現象が反復して現われるという意味の循環史観とは、注意深く区別して取扱わねばならないであろう。歴史の過程が、同一の現象をくり返す自然の過程と同一視されている証拠が、果して古代の歴史家たちの中に見出されるかどうか怪しいと思うけれども、少なくともトゥキュディデスの中にはそのような証拠はないと言ってよいだろう。とはいっても、歴史の過程の中に巨視的には、類似の現象の反覆を認めることも、逆にまた、微視的には何一つ同一現象の反覆を認めないことも、至極当然な話なのである。だから、おそらく近代の「発展」の概念に対立させるために、人々がぼんやりと使用している「循環」の語にも、ちょうど「実用的」という語が、同じくポリュビオスの用語から借用されながら、しかも本来の語義を離れて多義的に使用されているのと似たような、何か曖昧なものが含まれているのではないかと疑われるのである。さらにまた、トゥキュディデスが自分の書物を「永遠の財」と語っている点については、この言葉を、その書物が後世永遠に教訓の書として役立つであろうという彼の自負を示すものとして解釈するのは、前後の文脈を無視し、当時の作品公表のあり方を知らないものとして批判されるかも知れない。というのは、彼が一時の聴衆の喝采をめあてにではなく、「いつまでも所有され保存されるべきもの」 κτῆμα ἐς αἰεί として、つまり公衆の前で朗読される作品としてではなく、今日の書物の形式で書かなければならなかったのは、何よりもまず、亡命生活という彼のおかれた環境では、止むを得ないことであったと考えられるからである。
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(加来彰俊「歴史記述の客観性 − トゥキュディデスの中の「演説」をめぐって − 」田中美知太郎 編集『講座 哲学大系 第四巻 歴史理論と歴史哲学』昭和38(1963)年. 人文書院. pp. 371-372. )
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さて、歴史の本質が大略以上述べたようなものだとするなら、当面の問題であるトゥキュディデスの中の演説の史実性に関する論争についても、われわれは一つの結論を下すことができるのではないかと思う。すなわち、その演説の内容が実際に語られた通りのものではないという理由で、トゥキュディデスを反歴史家的人物であるとか、あるいは歴史家であるよりもむしろ政治思想家であるとか、あるいはまたミュートス的歴史家にすぎないとか断ずるのは、彼に対する正しい評価ではないであろう。しかしまた逆に、彼の『歴史」の科学性を強調するあまり、演説の史実性を過度に弁護して、彼をヘラニコス流の年代記作家の列におとそうとしたり、あるいはせいぜいヒポクラテス医学理論を社会病理に応用した一社会科学者とみなしたりすることも(コシュレーヌ)、決して充分な理解とは言えないだろう。トゥキュディデスは、言葉の真の意味において歴史家であったのだ。彼は演説を記述するにあたって、たんに語られたかも知れないようなことを自分勝手に創作したのでもなく、また実際に語られたことをそのまま写しとったのでもない。彼自身の供述がはっきり示しているように、彼は「実際に語られたことの全体的な意味にできるだけ近づける」ことに細心の注意を払いながらも、しかもその内容は、「それぞれの人物に、……こう語るならば一番よく語ることになったであろうと彼自身に思われたような仕方で、語らせた」のである。従って、自由創作論者や、史実性の擁護論者のように、この彼の言葉のどちらか一方だけに重点をおいて強調することは誤りであり、まことに当り前の話ではあるが、上述の二つの言葉は不可分なものとしてこれをそのままに信ずることがやはり正しい理解であると結論せざるをえない。
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(加来彰俊「歴史記述の客観性 − トゥキュディデスの中の「演説」をめぐって − 」田中美知太郎 編集『講座 哲学大系 第四巻 歴史理論と歴史哲学』昭和38(1963)年. 人文書院. p. 397. )
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この文章に関係する、田中美知太郎先生の文章も引用させていただきます。長いので、次の3節の私の、あっちこっち脱線する散らかった文章を先に読んでいただき、精神の保養のためにまたこちらに戻っていただく方法もお勧めできます。もしくは、もうこの2節の引用文と4節の書き写しの文章だけをじっくり読んでいただくだけ、というのでも本当はいいのです。
田中美知太郎先生の文章は、人気のあるものは単行本や文庫になって何度も刊行されているのですが、「ミュートス」に関しては、いま私の手元にある昭和22年発行『ギリシア人の智慧』と全集以外で私はお目にかかったことがないのです。でも、ソクラテスのロゴスとレートリケーのロゴスの関係性や、プラトンの太陽の比喩と歴史や科学によって否定されたミュートスとの違いなどを考えることのできるこの文章が、『ロゴスとイデア』(2014年に文庫化)や『古代哲学史』(2020年に文庫化)のような扱いを受けていないのは、すごくもったいないなあと思っているのです。どうか、どこかでまた復刊されて、必要な人のもとに届きますように…。
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五七
ツキュディデスが自分の抱負をのべたものとしては、
「わたしのこの著書には物語めいたものがないとすると、これの朗読を聞いても多分たのしめるところが少いと感じられるだらう。しかしながら、今ここに起つたことの確実なところは何であつたかを見ようとする人が将来出て来るとして、そのやうな場合にも、またこのやうなことやこれに近いことは、それが人間の自然の性質にもとづくものならば、将来もまたいつか再度起るだらうから、そのやうな場合にも確実のことを見てみたいと思ふ人たちが、この著書を有益だと判定してくれるなら、それで充分だらう。これはその場かぎりの聴衆の喝采を求めるためではなく、むしろ永代の財産となるものとして書きつづられたのである」(一巻二二章四節)
といふ言葉が一般によく知られてゐる。しかしながら、この言葉の意味は必ずしも単純ではない。これが未来の読者にとつても「有益」であることを、ツキュディデスは自負してゐるのだといふ一点が、あるひは最も強く印象づけられるかも知れない。そしてそこからツキュディデスの「歴史」を、簡単に「実用的」と規定することにもなる。ヘロドトス、ツキュディデス以後のギリシア史家のうちで、恐らくは最大とも見られるポリュビオスは、ロマの世界制覇を取扱つた「歴史」のなかで、歴史的知識の実際的効用といふものを力説しなければならなかつた。
「どんな状況に対しても自分だけで間に合ふと信じてゐる人があるとしたら、さういふ人には以前に起つたことの知識は、結構おもしろいかも知れないが、是非必要だとは言はれないだらう。しかし誰にしても人間であるからには、自分自身だけのことにもせよ、また天下国家のことにもせよ、敢へてそのやうな高言を吐く者はないだらう。なぜなら、現在のところは好運にめぐまれてゐるとしても、将来についての希望や期待を、現に今あるだけのものから確信していい理由は何もないことを、心ある人なら知つてゐるはずだからである。従つて、この場合は過去の知識といふものが、結構おもしろいといふだけでなく、むしろ是非必要だといふことになる」(三巻三一章二節−四節)
「現にあるものに対しては、いつもすべての人が何らかの仕方で順応し、協同で芝居をしてゐるやうなところがあつて、それらしいことしか言つたり、行つたりしないのである。従つて、めいめいどういふつもりなのかといふことも見きはめ難く、実に多くの場合、真実のところは暗く蔽はれてゐるのである。これに反して過去に行はれたことは、実際の事柄そのものによつて検証され、それぞれの取る立場と決断の何であつたかをあらはにし、われわれにとつてよろこびとなるもの、恩恵となるもの、助けとなるものと、その正反対のものとが、どこにあるかを明らかにしてくれる」(同七節−八節)
といふやうなことをのべた後で、ポリュビオスは、
「歴史を書く者もこれを読む者も、行為そのものの記述はそれほど気にしなくてもよいから、そこに行はれたことに先行することやそれと同時に起つたこと、あるひはその後に生じたことに気をつけるやうにしなければならない。なぜなら、行はれたことが何の故に、いかにして、また何のために行はれたのかといふ点を、もしひとが歴史のうちから引き去つてしまふならば、そこに残されるものは、喝采を競ふだけのものとなり、学問的知識は生じないだらう。それはその場だけ人をたのしませるにしても、将来のためには何ら益するところもないことになる」(同一一節−一三節)
と結んでゐる。この最後の言葉は明らかにツキュディデスに由来するものであつて、かれは明らかな意識をもつて、ツキュディデスと共に自己の「歴史」が、将来の読者にも「有益」であることを主張しようとしてゐるのだと解されるであらう。しかしどちらかと言へば、かれは将来の読者よりも現在の読者に対して、過去の知識が現在の処世や実際政治に役立つことを言はうとしてゐるのではないかと考へられる。将来のことは、ツキュディデスとの関連で、最後になつて出て来たとも見られるだらう。しかもその将来も、いつかの将来といふよりは、現在において明日を計るやうな場合の将来だと言つた方がよいかも知れない。ツキュディデスは現在のことを見ながら、これがいつか過去としてかへり見られる将来のことを考へてゐるが、ポリュビオスは既に過去となつてしまつたものを、現在の立場で、これからの役に立てようと考へてゐるのだとも言はれるだらう。しかし問題は、「有益」とか「役に立つ」とかいふことの意味である。ポリュビオスでは、それが実際の処世や政治との直接的な関係において考へられてゐることは明らかである。しかしツキュディデスの場合はどうなのだらうか。
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(田中美知太郎「Ⅱ 本論 三 ツキュディデス自身が与へようとしてゐるもの(3)ツキュディデスの抱負 57」『ツキュディデスの場合 -歴史記述と歴史認識-』昭和45(1970)年. 筑摩書房. pp. 177-179. )
(Michitaro Tanaka : "Thucydides' resolution 57" "In the case of Thucydides")
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五八
かれは「今ここに起つたことの確実なところは何であつたかを見ようとする人が将来出て来た場合」を考へて、さういふ人が「この著書を有益だと判定してくれるなら満足だ」と言つてゐるのである。つまり「有益だ」といふ判定は、直接的には処世や実際政治のためを考へてのことではなくて、歴史的事実を見きはめる上においてなされるわけなのである。ただ将来の読者については、ツキュディデスはもう一つの場合を考へてゐる。それは将来から現在をふりかへつて、これを過去の出来事として、その真相をたしかめるといふのではなくて、将来においてまた似たやうな出来事が見られた場合、その新しい出来事の真相を考察するのに、やはりこの著書が役に立つかも知れないといふことである。つまり将来の読者といふのは、かれら自身の現在を考察するのに、この著書を役立てようとするわけであつて、ツキュディデスの時代を研究することは、かれらの直接の目的にはなつてゐないといふことである。しかしさういふ読者にとつても、自分の著書が役に立つことをツキュディデスは希望し、また自負するわけなのである。そして一九一四年、第一次世界大戦が始まつたとき、若いトインビーはオクスフォード大学で、ツキュディデスを講じてゐて、
「とつぜんわたしの理解の眼が開かれたのである。われわれが現在この世界で経験しつつあるものは、既にツキュディデスがその時代のなかで経験してしまつたことなのだ。わたしは今かれを新しい認識をもつて読み直してゐるのだ。かれの言葉のうちに含まれてゐる意味、かれの言葉づかひにひめられてゐる感情は、それがかれを動かしてあの歴史を書くに至らしめた歴史的危機といふものに、今度はわたしたちが当面しなければならなくなるまでは、それとして感じられなかつたやうな意味であり、感情であつたのだ。今やツキュディデスは、この地帯に精通した先達のごとく見られるのである。われわれがわれわれとして到達した歴史的経験のこの段階においては、かれとかれの同時代人は、わたしやわたしの同時代人よりも先の方を歩いてゐるのである。じつさいかれの現在は、わたしたちの未来となるものだつたのである」(註一)
と感じなければならなかつた時、ツキュディデスの自負は決して空なものではなかつたことが実証されたのである。そしてそれから二つの世界大戦を経験したわれわれは、いよいよツキュディデスがわれわれの同時代人であることを感じなければならなくなつてゐる。かれが将来の読者に対して期待したことは、われわれにおいて実現され、かれの言ふ「有益」が何の意味であるかも、われわれの経験において確かめられてゐると言はなければならないだらう。
いはゆる近代史学なるものを、ただ教科書的に教へられただけで、その方法論から直ちに本物の歴史が書かれ得るかのやうに考へる人たちだけが、ツキュディデスの「歴史」を簡単に「実用史」として軽蔑することができるのである。一般的に言へば、いはゆる科学的な歴史を、実益や興味から全く游離させてしまふやうな考へ方は、それ自体ひとつの問題であると言はなければならないだらう。ツキュディデスのさきの言葉においても、「たのしめるところが少い」ことを、一つの弱点として、それの弁明をしなければならなかつた気持が窺へるのである。しかしかれはそのやうなことよりも、「確実なところ何が起つたか」といふことの考察を第一とし、読者のいろいろな要求のうちから、それを知りたいとする声にまづ答へようとしたわけであらう。そして「有益」といふことも、そのやうな事実認識に役立つといふことが、まづ第一に考へられてゐたことは、いまも見られた通りなのである。しかしながら、ひとは何のために事実起つたことを知るのであらうか。ただ事実そのものを知らうとする純粋に知識的な要求だけであると言へるのは、むしろ例外的な少数のことであつて、われわれはツキュディデスを「先達」として、われわれのこの時代に生きようとするとき、間接的にもせよ、もつと実際的な関心で、かれの著作を「有益」であると判断することができるのではないだらうか。そしてさういふ「有益」さを強ひて排除しようとすることそのことに、かへつて不自然さがあるとも考へられるだらう。
(註一)A. J. Toynbee : My View of History in "Civilization in Trial." , p. 7 −− 邦訳「試煉に立つ文明」(深瀬基寛訳)二〇頁。
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(田中美知太郎「Ⅱ 本論 三 ツキュディデス自身が与へようとしてゐるもの(3)ツキュディデスの抱負 58」『ツキュディデスの場合 -歴史記述と歴史認識-』昭和45(1970)年. 筑摩書房. pp. 179-181. )
(Michitaro Tanaka : "Thucydides' resolution 58" "In the case of Thucydides")
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3、馬の前脚を、2本ではなく4本で描く
そういえば、今も複数の拠点を使い分けている娘が主に私の家で生活していた頃、NHKの朝ドラ「なつぞら」を一緒に見ていたことを思い出しました。日本のアニメーションがまだ「漫画映画」と呼ばれていた時代設定のお話です。
「嘘なんだけど、本当より本当らしく描く」という言葉の意味を、文字だけで理解しようとしていた私はこんがらがっていました。けれども、馬が走っている場面で、馬の前脚を2本ではなく4本で描くことにより、馬がいかにも本当に走っているかのように見えるのです。なるほど!
「嘘はいけない」という教訓をわりと大事にしている私は同時に「嘘も方便」という昔からの教えにも敬意を払っています。もし「嘘」が「本当でないこと」と定義できるとすれば、「物語(ミュートス)」も「嘘」に含まれてしまいますが、「嘘」と「物語」とではイメージがずいぶんと違いますね。
ところで、「かつて生じたこと」をそのまま残す、という仕事があります。しかしそのままといっても、どこからどう見ても、どんな立場の人から見ても妥当であろうという事象の説明を提示するというのは、かなり難易度の高い仕事だと思われます。たとえば戦争(※5)や外交問題に関する資料を確認する場合などを思い浮かべることができるでしょう。また、数字は嘘をつきませんが、その見せ方によって印象が変わりますよね。財務諸表をきちんと見ようと思ったら、単年度だけでなく少なくとも三期は確認しなければなりませんし、監査をする場合は会計監査だけでなく事業監査も並行して行われます。今期の収益がかなり多いけれども、それはたまたま多額の寄付があっただけでしかもそれは使途が指定されているので気をつけなければいけないとか、費用の中で突出して数字の大きな勘定科目があるけれどもこれには正当な理由がありそうだとか、その数字の裏側にある相関関係や因果関係を追っていかないと、「本当は何が起こっていたのか」を正確に知ることはできません。
(※5)
「一方、戦争中に行なわれた活動の叙述は、四囲の状況から判断したことや目に適切と映ったようなことにはよらずに、私自身が実際にいあわせた出来事とか、根拠が他の人々にあっても、個々の事実についてそのありのままを私ができるだけ探求した結果とかに基づいて書くことを旨とした。しかしこれは苦労のいることであった。なぜならばそれぞれの場にいあわせた人たちでも、偏見や記憶違いから同じ事実についても同じようには伝えなかったからである。」
(トゥキュディデス 『歴史』第一巻22章, 小西晴雄 訳(ちくま学芸文庫)2013年(底本1971年))
その延長線上に、「論理的に考えてその帰結しかないよね」っていうところを目指す仕事があります。一次資料が少なくて証拠が揃ったというには乏しいのだけれども、周辺事項の考察によってそれが可能な場合があります。
冒頭で触れた、生活する上で必要に迫られて考えてきたことというのをおおざっぱにいうと、「人はどんなことを考えているのか」というようなことです。私は人の管理や調整など人間関係を重点的に考える仕事を円滑に進める必要がありました。もともと人の気持ちが分からず多くの失敗を重ねてきた私ですが、幸いにも多くのすぐれた先人の知恵が私を助けてくれました。ヒューマンエラーを少なくするためにはシステムエラーを少なくすることから始めますが、これも結局、「一定の条件のもとでは」人の心理がある程度まで予測可能だからこそできることです。最近では経済政策のみならず、「なぜ避難が遅れるのか」といった災害対応(※6)や、「どうやったらワクチンの接種を前向きに検討してもらえるのか」といった公衆衛生の分野などにも、基礎心理学や応用心理学の研究が多く取り入れられていますよね。なお私は今でもパターン化されたもの以外の人の気持ちはわかりません、ごめんなさい。
(※6)
行動する|広島県「みんなで減災」はじめの一歩
https://www.gensai.pref.hiroshima.jp/action/
私たちはなぜ うまく避難できないのだろう?
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さて組織の中で働く際、関係する人がどこまでの仕事を任されているのか知りたい時の基準として、目先のちょっと変わった出来事(その多くはトラブル)への対応の仕方というのがあると思います。その出来事は、全体に影響を及ぼすものなのか、今すぐに対処すべきものなのか、自分が対応すべきものなのか、そういったことを考えられるかどうかで、任せられる仕事の幅も変わってきますよね。それがうまくできるかどうかというのは結局その人が、「いま目の前にある現実」だけを見ていて受動の反射で対応しているに過ぎないのか、それとも《現にあるものをただ現にあるものとして》見ており、そして《現にあるものだけの考察を離れて、もっと別なところから現実を》(※7)考えているのか、そういう違いとも言えると思います
(※7)
《 》内:田中美知太郎「現実」第6節(1942年)『ロゴスとイデア』
全文は、
「「現実」ってなんだ!→「現にあるもの」はただ「現にあるもの」として見る、しかし頼むべきは「現在を超えたもの」ってことは言えないだろうか?」の、4節
https://note.com/kamitoku/n/n7c093f7ee8a7
「歴史から学ぶ」とよく言います。これは、過去に起こった「出来事」を学ぶというより、「その時に人は何をしゃべって、どう動いたのか」ということを学んでいるのだと思います。「なぜそうなったのか」という因果の連鎖を重視したのは前二世紀頃のポリュビオスですが、これはトゥキュディデスとは少し違う考えのようです。おそらくトゥキュディデスは、出来事というのは人が起こした行動の結果に過ぎないのでそこまでの深入りは無用だと考えていたのではないでしょうか。そして人の心理というものは二千年以上経ってもそんなに変わっていないことは、まさに歴史が証明しているとおりです。たとえば人と権力の関係性(※8)が一番わかりやすい例だと思います。だからこそ人類は権力をコントロールするための近代憲法(※9)という素晴らしいシステムを、血と汗と涙と犠牲、そして「過去幾多の試錬に堪え」、開発してきました。
(※8)
「投票と徳」の1節(3)と(4)
https://note.com/kamitoku/n/n721f06cabc11
(※9)
〜「「過去」− 記憶と歴史について − 」の、2節(1)〜(4)
https://note.com/kamitoku/n/n478fbb5e943a
「イデア」の、2節(2)
https://note.com/kamitoku/n/naf5456ab2d86#U0zb
「すべてのすぐれた哲学は、理想についてかくのごときミュートスを含む」ということが本当ならば、哲学の仕事は、「実際のところ何が起こったのか」を正確に示すというよりも、「論理的に考えたらそのような帰結になるであろうこと」を示す、そっち寄りのほうなのかなと思いました。たしかに、批判する際にはそのような視点が必要になりそうです。もちろんこれは素人の私が勝手に考えた仮説にすぎません。けれども生活をする上では、「おそらく人はこう動くだろう」とか、「これから起こるであろうこと」を考えるほうが役に立つのですよね。「未来」に関しては願ったり信じたり祈ったりすることしかできないけれど、「将来」に関してはある程度の予測が可能な場合があります。「もしこうなった場合に自分はこう動こう」という基準を決めておくためにも、《現にあるもの》(正確に過去のことを知る)プラス、もう少し遠くにある何か(それは単なる妄想かもしれないのですが)を想像することも有益なのではないかと私は考えているのです。
しかし気をつけなければならないのは、「出てきた帰結を公式のものとして考えない」ということです。「えっ?規範的なものを求めて考えていたんじゃないの?公式が立てられないのだったら意味ないんじゃないの?」という声が聞こえてきそうです。でもじゃあ、何で考えるのかというと、前述のとおり、基準を決めておいたほうがある程度は生活に役立つからです。多くの場合、人の生活の中には人間関係が含まれています。つまりほとんどの人は「小さな政治」(※10)をしているといえます。政治をするにあたっては、どの政治家に投票するかと同じで、「よりマシなほうを選ぶ」方法がとられます。この時に必要になってくるのが、自分なりの基準なのではないでしょうか。完璧な方法があったり、完璧な人がいたらいいんですけどね、それは難しいですものね。
(※10)
大きな政治、小さな政治に関しては、
「イデア」の、3節
https://note.com/kamitoku/n/naf5456ab2d86#U0zb
プラトンが考えた理想の政治は、神様が統治する君主制に近い方法でした。でもそれは現実的に難しいので、じゃあ複数の「哲人王」(支配者という地位が嫌で嫌でたまらない人に懇請して治めてもらう)のアリストクラティア(優秀者支配制)がいいんじゃないかと考えたのですが、やっぱりそれも難しいので、それで次善の策として民主制が選ばれたようです。当時はまだ間接民主制という制度は考えられていませんでしたので、〈民主制と専制の一種の混合政体に求めて模索しているところがある〉(※11)というのが、日本におけるプラトン研究の第一人者である田中美知太郎先生の説明です。
(※11)
〈 〉内:田中美知太郎と村川堅太郎の対談「歴史のなかのプラトン」『世界の名著7』付録(中央公論社)1971年
じゃあ当時のアテナイがどんな感じだったかというと、たしかに自由は自由だったみたいですね(※12)。しかしその自由な雰囲気から生み出された、人間の弱い部分というのは、後世の私たちにたくさんの教訓を残してくれています。
ちなみに、下記に引用させていただく文章に登場するプリュニコスさんは、アイスキュロスの先輩で、紀元前六世紀後半から五世紀前半(ペルシア戦争の頃)に活躍した悲劇作家です。彼がつくった『ミレトスの陥落』というギリシア古喜劇は当時の事情(イオニアの反乱等)もあり、観劇したアテナイ市民の心を動かし、〈涙にくれさせたとき、同胞の不幸を想い起させたという罪状で〉巨額の罰金を課され、さらに〈今後いかなるものもこの劇を上演してはならぬ〉(※13)と劇の再演を禁止されてしまったと言われています…。
なので、四百人寡頭政(前411年〜同年9月に約4ヶ月で倒壊、その後五千人の市民が政権を握る穏和な寡頭政へ移行するが翌410年夏には瓦解)の内部分裂により、前411年(前五世紀後半、ペロポネソス戦争末期)に暗殺されたプリュニコスさんとはまた別の人であります。この時期のこの地域には同じ名前の人が結構いらっしゃるので私はいつも混乱しています…。
(※12)
「現に戦争を行なっている国家の、国家的行事である祭典において反戦の劇が上演され、しかも政府の手によって厳選された審査員により一等と判定されたり、クレオン自身がよい座席で見物していたかも知れぬ劇場で、悪口をつくしてかれを誹謗した劇が上演されたのは、おそらく史上に例のない自由であろう。そして古喜劇の特色はいろいろ挙げられるけれども、政治性と個人攻撃がその大なるものだったことは事実である。しかし、それらの点について作者が何らの危険を予想しなかったわけではない。」(pp. 19-20. )
「要するに喜劇における政治及び政治家への批判の自由を法律や決議により拘束しようとする動きは古喜劇の全時代を通じて散発的にみられたに過ぎず、それも極めて稀であった。有力政治家を喜劇の俎上にのせて自由自在に鉋丁をふるうことは、勇気を必要とし、多少の危険を伴ったが、この危険は決して古喜劇の生命たる個人への痛烈な批判や嘲笑を萎縮させるほどのものではなかった。
前六世紀はじめのソロンの法のなかには死んだ者の悪口を言うことを禁じたものがあったほかに、かれの法は生きている者についても、神殿や裁判所や役所で、また競技の見物中に悪口を言うことを禁じ、犯した者は相手に三ドラクマを、国庫に二ドラクマを払うように定めたと伝えられる。同じアテナイでも時代によってかように大きなちがいがあった。それから百年後のプリュニコスの時代にはまだ決して演劇の自由は確立していなかったことはすでにみた通りである。古喜劇の時代についても、アテナイ人のいわゆるパレーシア(何でも言えること)は決して額面通りに受取れるものではなかった。占師や予言者や迷信家がうようよいた世界であったから、「太陽を灼熱した岩塊」と説いたアナクサゴラスはペリクレスと親交があったにかかわらず無神論の烙印を押されてアテナイから逃げ出さねばならなかった。古喜劇の作者がそのような伝統的信仰とからむ危険な問題に立ち入らずに、もっぱら政治や文芸をとり上げてペロポネソス戦役の最後までパレーシアを利用して旺盛な制作力を発揮して行ったのは、後世のわれわれからみても有難いことであったとせねばなるまい。」(pp. 22-23. )
(村川堅太郎「ギリシア喜劇の歴史的背景」高津春繁 訳者代表『ギリシア喜劇全集 第一巻』1961年初版, 1965年再版. 人文書院. )
(※13)
〈 〉内:ヘロドトス『歴史』第六巻21章,松平千秋 訳(岩波文庫)2004年(1刷1972年)
さて「公式のものにしない」話の続きです。そもそも有効な基準って結構便利なんですけど、使える時と使えない時とがありますよね。効率よく進めるために基準を求めるわけなのですが、たとえば過去の成功体験で得られた方法をずっとそのまま使えるかというと、そうでないことは明らかです。絶対に誰もが成功できる方法があればみんな苦労しません。理論的には可能なのかもしれませんが、おそらく現場では、過去の小さな失敗から学び、なるべく大きな失敗につなげないようにすることが優先されているのではないでしょうか。その際に重視されるのはやはり、「出来事そのもの」よりも「誰がどう考えたことによってその出来事が起こったか」のような気がします。逆にそのことを考えないと、再発防止のシステムが組めないことになってしまいます。ではその場合に、過去に起こった少ない事例だけを考えてシステムを構築するのか、それとも、過去の事例に加えて、まだ実際に起こってはいないのだけど論理的に考えたらおそらくこれも起こるだろうと予想して構築するか、予算の問題もありますが、なかなか悩ましいところではありますね。
ところで、「悪法も法である」とソクラテスが言った証拠はないのに、プラトンの『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』をテキストの内容以上にかなり広く解釈しておられる方が多いようです。しかしこの問題もやはり、証拠がないからそんなことは言ってないに違いない、と断定的に考えたくはありません。そうではなく、「論理的に考えたらどのような帰結になるか」という観点から考えると、やはり言ってないほうに軍配が上がると思います。専門的な訓練を受けていない私はここでも専門家の意見に助けていただくのですが(※14)(※15) 、一応自分でもプラトンの対話篇や注釈を何度か読み、当時の状況やソクラテスが生前にとった行動などを確認し、考えた結果です。どちらかというとリベラル寄りの私はもともと、「愛国心」という概念がよく理解できていませんでしたが、最近は自分の中の国家観(※16)が微妙に変化してきたことも、理解の助けとなりました。とはいえ、もし現段階で新しい解釈が出てきているのであればぜひご教示いただけましたら幸いです。
(※14)
「しかし、このように為政者たちに都合のよい仕方で自分の名前が利用されることは、ソクラテスにとっては、はなはだ迷惑なことであったろう。「悪法も法である」と彼が言った証拠はどこにもないし、また彼がそんなことを言うはずもないからである(事実、悪法は、厳密に言えば、法ではないから、その命題は言語矛盾を犯しているものなのである)。それにまた彼は、どんな悪法にもただ黙って従っていたわけでもない。たしかにソクラテスは、祖国アテナイに人一倍愛着をもち、アテナイの国法を尊重して、これに従って生涯を送ってきた人であるが、しかし当時の民主制的な法や制度のすべてをよしとして是認していたのではなく、その欠点はきびしく批判していたのであった。だがしかし、祖国の法に誤りがあるからといって、これを暴力的に否定することを彼は絶対に許容しなかったし、また、いわゆる「市民的不服従」の考えは、彼の思いも及ばないものであったろう。だからソクラテスの考え方からしても、一般論としては、人は誰でも、自分の住んでいる国の現行法に従って生きるべきであり、またそうするより他はないということになるであろう。しかし、そうであるとしても、前にも述べたように、法に従うことが不正を行うことになるような場合だけは、ソクラテスは死の危険を冒しても、これを断固として拒否したのだった(彼の正義の主張は、実質的には、不正は決して行わないということであったから)。他方、法に従うことによって、仮に自分が不正な目に遭わされるとしても、そして極端な場合は死刑になるとしても、それはそれでやむをえないことと彼は考えていたにちがいない。そしてこれが、ソクラテスは自分の無罪を確信しながらも、合法的な手続きで死刑の判決が下された以上、脱獄という違法・不正の行為をしないで、その判決に服して死んでいった理由であったと思われる。」
(加来彰俊「結び」『ソクラテスはなぜ死んだのか』2004年. 岩波書店. pp. 215-216. )
(※15)
「『クリトン』のソクラテスは、通俗の教科書などでは、悪法もまた法なりとして、脱獄のすすめを拒否した人というようなことになっている。しかしその通りのことを、この対話篇のうちに見つけることはできないようである。ソクラテスの行動原理は、それほど簡単ではないのである。」(p. 402. )
「『クリトン』におけるソクラテスの論理を充分理解するためには、ギリシア政治思想の全体についての理解を必要とするだろうし、われわれ自身の政治意識についても反省と批判を必要とするだろう。」(p. 409. )
「また国法そのものと、その実際上の運用あるいはそのための解釈とは、かならずしも一つではない。その間の区別について、
いまこの世からお前が去って行くとすれば、お前はすっかり不正な目にあわされた人間として、去って行くことになるけれども、しかしそれはわたしたち国法による被害ではなくて、世間の人間から加えられた不正にとどまるのだ。ところが、もしお前が、自分でわたしたちに対して行なった同意や約束を踏みにじり、何よりも害を加えてはならないはずの、……祖国とわたしたち国法に対して害を加える。(54C)
という、ソクラテスに対する国法の訴えの言葉によってみれば、国家や国法はソクラテスに対する加害者ではなく、これを誤用した世間の人たちが、それなのだということになる。ソクラテスもまたこのような区別を知っていたから、国家と国法に対して悪の仕返しをすることの無意味さを、人一倍よく見ることができたのかも知れない。ソクラテスがかの「悪法も法なり」における「悪法」というようなものを、はたして考えたかどうかは疑問である。」(p. 411. )
(田中美知太郎「クリトン:解説」『プラトン全集1』1975年1刷, 1998年5刷. 岩波書店. )
(※16)
「ソクラテスが、このような仕事に使命感をもつようになったのは、特にその後半生においてなのであるが、それはちょうどペロポネソス戦争の時代であり、戦後の革命と混乱の時代であった。人心は険悪となり、寛容の徳は失われつつあった。ソクラテスの仕事が理解されないことは昔も今も変りはなかったが、昔はそれが実際の役に立たない無駄話と考えられる程度であったに反して、今はそれが危険なものと見られるに至った。無論、それは誤解である。ソクラテスはスパルタの長所を認めたからとて、それがために祖国を忘れるような人でなかったことは既に明らかである。またアルキビアデスやクリティアスは、ソクラテスの教えと全く無関係の人物である。そして既にソクラテスその人の実例によって見られたように、戦場と法廷とを問わず、ソクラテスが祖国に忠誠であったのは、その精神がすぐれていたからである。ソクラテスはかかる精神の徳の上に祖国の富強が築かれることを願っていたのである。かかる徳によってのみ、愛国は戦場や法廷の局所のみに限られず、外的条件の偶然に支配されることのない、心からの行為となるのである。しかしアニュトスは、ソクラテスの徳に関する談話を聞き、テミストクレスやペリクレスのような人もその子の徳育には成功しなかったという事実をソクラテスが問題としただけで、ソクラテスは祖国の偉人を誹謗して、青年たちに悪い影響を及ぼすと推断してしまったのである。アニュトスも一個の愛国者であった。彼は祖国のためにソクラテスの言論が危険であると考えたのである。しかし彼の判断は主観的で、個人的な好悪に支配されていた。のみならず、彼は自分の党派や自分たちの政治のほかに国家を見ることができなかった。メレトスに至っては、最も強烈な愛国者であったかも知れない。しかしその熱烈さは、個人的怨恨の熱烈さであり、無智の産物であったのではないかとも疑われる。神社のような神聖な場所には、かえって罪人が逃げ込んだり、乞食が宿を取ったりする。私たちは愛国心のかげに悪徳が忍び込むことを自分自身に対して警戒しなければならない。『クリトン』において見られたように、ソクラテスは死の危険においても、私の利害を国家的利害のごとくに錯覚することはしなかった。私利私欲と知って、これを追求する人間はまだ救われる。それを国家のためであると信じ込む人間は、国の災であり、呪いである。このことを区別するためには、私たちはソクラテスと共に自己批判を厳にしなければならぬ。国を愛するということは、かくて容易とも見えるが、また容易ならぬことであるとも知られる。」
(田中美知太郎「ソクラテスの場合 − 愛国心について − 」『古典の世界から』1966年(講談社), 『田中美知太郎全集 第七巻』1969年1刷, 1988年増補版1刷. pp. 246-247. )
さあ!ここまで私は、あっちに行ったりこっちに行ったりしながら、ある意味好き勝手に考えてきたわけですが、問題はここからです。私の仮説は、論理的に考えたらそのような帰結になるであろうことを、「示す」ことが、哲学の仕事に役立つ、というような内容でした。しかし、この「示す」に到達するまでに、一段高い努力が必要となってきます。自分の頭の中だけで考えていることを、外に出すというのは、まずそれだけで勇気がいります。自分では筋が通っていると思っていても、論破されたらどうしようという不安が消えることはありません。その次に、必要があれば相手に納得してもらわなければなりません。同意や共感を得るためというより、「とりあえず主張したいことはわかったよ」と言ってもらえるための努力をしないと、予算もつきませんし、契約も取れませんし、事業の進捗にも差し障りが出てきますし、家庭内の不和につながってしまうことさえあります。なんと難しいことを私たちは課せられているのでしょうか。ちなみに私の娘は、「おかあは擬音語ばっかりで何が言いたいんかさっぱりわからん」「おかあの文章は長すぎて読む気が失せる」と私によく言っていました…。
《現にあるものをただ現にあるものとして》見る。そして《現にあるものだけの考察を離れて、もっと別なところから現実を》考える。この時に登場する《現実》は、もはや目の前にあるものとは限らないことを、私たちは見てきました。一人目が穴に気づかず落ちてしまった場合、二人目が気づいて危険を回避できればいいですが、もし二人目も穴に落ちてしまったら、おそらく三人目も落ちるだろうという予測を立てることができます。この時に私たちがリスク管理の担当者であれば、穴に落ちる、という事象だけに着目するのではなく、人が穴に気がつかない理由や、気づいていても吸い込まれるように一歩踏み出してしまう人の心理などを考え、根拠のある説明によって、対策を講じるための予算を獲得しなければなりません。けれど、「嘘いうな、まだ三人目が落ちていないじゃないか」とか「三人目が落ちるなんていう物語を勝手に作るな」とか、もしかしたらそういう言葉が投げつけられるかもしれません。まるで、「今回のカブール陥落はサイゴン陥落(1975年)の時とは違う、米国人はまだ犠牲になっていない」とおっしゃった米国大統領のようですね。その後結局どうなっているかは周知の通りです。犠牲になってしまわれた多くの方々のご冥福をお祈りいたします。
また、トイレの問題でいえば、すべて個室にすれば男性用と女性用を分ける必要がないという議論が最近日本でもよく聞かれます。私がこの件に関してポートランド(超リベラル)の事例を聞いたのは四年くらい前でしたが、その時に感じた違和感が現在米国でまさに問題となっています。「体は男性だけれども心は女性です」と言わなくても、男性は誰でも入ってこれるわけですので、一定の人にはメリットがあるのでしょう。しかし、もしトイレに女性の自分と男性の二人だけだったとして、その男性に個室に連れ込まれる危険はまったくないのでしょうか。ジェンダーの問題に熱心であっても性被害のことを軽視しておられる方は少なくありません。女性の人権に関して考え方が違うのは仕方のないことですが、性被害が自分の尊厳に与えるダメージは、本当に大きいんですよ。セカンドレイプの問題もありますし、他の犯罪とは分けて考えなければなりません。被害者が男性であってもそれは変わりませんが、トイレやシャワールームなどで抵抗できる力を持っている女性はそんなに多くないのではないでしょうか。けれどもやはり、「米国と日本は違う、日本は大丈夫」「被害って言っても全体の何%?」などという意見は、おそらく出てくるでしょう。それでも私たちは、できるだけ多くの人が幸せになれる、よりよい未来を考えているのです。くじけず進むためには、何を拠り所にして、どんなことに気をつければよいのでしょうか。
私たちは、理路整然とした正義を真正面からぶつける方法がしばしば逆の効果を生んでしまうことも理解しています。もっとも、窮地に追いこまれた時に最後まで味方してくれたのは誠意だけであった経験を心の支えとしている人は、私だけではないのではないでしょうか。ソクラテスは、昔からの友達で刑死する最後の日まで世話をやいてくれたクリトンのすすめる脱獄の案を聞き、そんな不正が許されないことを納得してもらう必要がありました。そのため、「国法」とおしゃべりする「ミュートス」を話しました(正確に言えば、「国法」と「国家」あるいは「国家共同体」、もしくは「市民共同体としての市民国家」)。このことは、「自己の言わんとする結論を直言せず、それを可能な限り隠したまま、主題の並べ方やその選択によって自然に人々に伝えようとする」トゥキュディデスの努力を思い起こさせます。そしてこの場合のトゥキュディデスの「ミュートス」は、「ミュートス的歴史家と名づけるべきだ」とされた意味における、科学的な概念に欠けたそれとはまた違うもの(※17)だということに、私たちは気がつくこともできます。
(※17)
「つまり規範を求めることは、この歴史の動きの中に普遍の法則のあることを認めていることであり、それはとりもなおさず人間性の通有性を信じていることなのだ。だから物質の化学反応のように、一定の型の人間を一定の環境の中におけば常に同じ反応を示すとトゥキュディデスは考えていたのだ。それゆえ、たとえば特定の人の演説の内容がまったく伝えられていないような場合には、その人と同じ型の他の人が同じような環境におかれた時に発言した演説内容を、その特定の人の演説内容とすることは、事実としては虚構であっても、史的に意義のあることとして認めたのであろう。」
(小西晴雄「訳者解説」トゥキュディデス 著 『歴史 下』(底本1971年『世界古典文学全集』筑摩書房)2013年. ちくま学芸文庫. p. 376. )
さて、私たちは、「ヘラクレイトスやストア派の自然哲学的思想や、あるいは例のポリュビオスの政体の変遷は円環をなすという政治理論」と、「歴史の過程の中に同一または類似の現象が反復して現われるという意味の循環史観と」を、「注意深く区別して取扱」う必要があることを、加来彰俊先生の文章から学んできました。そして、「物質の化学反応のように、一定の型の人間を一定の環境の中におけば常に同じ反応を示す」とトゥキュディデスが教えてくれていることも、小西晴雄先生の文章から学んできました。私たちは、自分のためだけでなく、もっと多くの人たちの幸せを願っているからこそ、将来のことを知りたいと思っています。
しかし、《現にあるものをただ現にあるものとして》、つまり出来事を正確に知ったり、人の心理を考察したりするだけでは、前に進めない場合があります。どうしたらよいのでしょうか。でもちょっと思い出してみましょう。今までそういう場合に私たちは、《現にあるものだけの考察を離れて、もっと別なところから現実を》考えることをしてきたのではないでしょうか。その結果、私たちは多かれ少なかれ「ミュートス」を使ってきたのではないでしょうか。その方法は、一身上の危険を顧みず(しかし自己保身も含めた)善意から脱獄をすすめるクリトンに対して、ソクラテスが使った、国法とおしゃべりする「ミュートス」や、理想の国家を説明するためにプラトンが使った「ミュートス」(プラトン『法律』752A )に似ていませんか?もしかしたら私たちは、誰かから教えてもらうまでもなく、既に自分自身のなかに解決策をもっているのかもしれません。けれども、その方法が本当によいものなのかどうかは、私にはまだわかりません(※18)。
(※18)
「それらの古典に書かれてあることは、必ずしも意味の捕捉しやすいものとは限られず、読者自身の気持からも離れていることが多いのではないかと思われるけれども、しかしそのような距離を克服しようとする努力が、かえって思考の勉強になるのではないかとも考えられる。すぐに私たちが納得するような、今日の問題を論じた言葉だけに耳を傾けていると、わたしたちはいつまでたっても、自分たち自身の先入見や思想的盲点に気がつかず、自分の気に入ったようにしか、ものが考えられないで、かえって時流に乗る他の者どもに支配され、自分自身の本当に独立した考えをもつことが出来なくなるのではないかと恐れられる。」
(田中美知太郎「はしがき」『哲学初歩』(岩波書店)1950年1刷, 1977年改版1刷, 1981年5刷. 岩波全書. viii. )
↑この図はもちろん完成形ではありませんし、これから間違いも見つかるでしょう。修正前がどんなだったのかを残しておきます。
真に善美なるものを一瞬でも見た者が、その自分の見たものについてまだそれを見たことのない人たちに語る言葉、それがまたミュートスなのである。それは漠然たる人類過去の物語ではなく、われわれの全存在の絶対的始源を語るものなのである。それは無論ディアレクティケーに代るものではないが、われわれのディアレクティケーの行手を照す光明である。すべてのすぐれた哲学は理想についてかくのごときミュートスを含むものなのである。われわれは歴史や科学によって否定されたミュートスをそのまま信ずる必要なはい。かくのごときミュートスを寓意的解釈によって救おうとする試みは、古代においても現代においても、かえって葬式的意義を有するに過ぎない。後戻りは全く無用であって、否定はどこまでも徹底的でなければならぬ。しかしまた同時にこの否定を導くディアレクティケーの究極について語られる、他のミュートスの存在を忘れてはならないであろう。
(田中美知太郎「ミュートス」6節)
ここまで一緒に歩いてくださって、ありがとうございました。
またいつの日か(^^)
□■□■
4、田中美知太郎「ミュートス」(1940年)
1939 日米通商航海条約廃棄通告。/独ソ不可侵条約。第二次世界大戦(〜1945)
1940 北部仏印進駐。日独伊三国同盟成立。/津田左右吉著書発禁。/南京に汪政権。
1941 日ソ中立条約締結。南部仏印進駐。ハワイ真珠湾攻撃:太平洋戦争(~1945)。/国民学校令公布。/大西洋憲章。独ソ戦争。
* *
ちょっとだけ余談。
(1)「ミュートス」を所収した『ギリシア人の智慧』(古今書院, 1942年、のち中央公論社から再刊, 1947年, 定價四十圓)が収められている『田中美知太郎全集第七巻』(筑摩書房, 1988年)には、『古典的世界から』(中央公論社, 1946年)も収められている。
(2)『古典的世界から』のなかには、「外部的な事情で公表されずに終った」(あとがきより)もの、すなわち、【サルディス陥落】(「倫理学」岩波書店第十四月報, 1941(昭和16)年12月12日発表中止の通知あり)、【ソクラテスの場合 − 愛国心について】(「学生叢書」(日評), 1942年3月執筆。発表中止の通知あり)、【公共体国家としてのポリス】(「中央公論」1942年9月23日発表中止の通知あり)の三作品が含まれている。なお「ソクラテスの場合」に関しては、終戦後、生活社から「愛国心について」という題のパンフレットにして公にされた。〔この項『全集』を参考〕
(3)『古典の世界から』(講談社, 1966年, 1971年5刷の定価430円)という単行本には、『ギリシア人の智慧』『古典的世界から』『ギリシア研究とヒューマニズム』(要書房, 1947年, 定價九十圓)などの中から新しく選び出されたものが所収されており、たいがいの作品はここで読むことができる。しかし「サルディス陥落」と「公共体国家としてのポリス」は含まれていない。そして『古典的世界から』は現在手に入りにくい書物のひとつである。
(4)つまり「サルディス陥落」と「公共体国家としてのポリス」は、おそらく現在は『全集』でしか読むことのできない貴重な作品となっていると思われる(私が知らないだけかもしれないが)。私は、冒頭でお話した寡頭制に関連して、いずれはこの二作品も書き写しをしたいと思っているけれども、自分の思考が追いつくかどうか心許ない気もしている。どうか死ぬまでに間に合いますように…。
「あまり楽な気持で書くことはできなかったけれども、私自身が大切に思っている思想や学問の世界に、興味や理解をもってくれる人が一人でも多くなることをねがったり、あるいはまた人々の正気に呼びかけて、いろいろと困難の多い時代ではあるが、そういうものを失わずにいる人たちのために、私たちは必ずしもひとりではないことを知らせて、互いにはげましあうたよりにもしたいと思って、あえて重い筆をとったことも一再ではなかった。そしてそのような気持が私を動かして、単なる解説の領域をふみ越えさせる場合も生じて来たのである。」
(1946年6月11日)
(田中美知太郎「あとがき:古典的世界から」『田中美知太郎全集 第七巻』1969(昭和44)年1刷, 1988(昭和63)年増補版1刷. 筑摩書房. pp. 342-343. )
余談おわり。
* *
(なお書き写しに関しましては、田中美知太郎先生の著作権継承者である田中氏より、長い引用大丈夫ですと許可をいただいております。紙德真理子)
----------------
一
ミュートス(mythos)という言葉は、多くの場合それ自体としてよりは、むしろロゴス(logos)への対立で考えられている。ミュートスの語るのは作り話であるが、ロゴスは真実を語るというようなのが、その区別である。プラトンの『ゴルギアス』(五二三A )『ティマイオス』(二六E )などにおいてわれわれが出会うのは、このような対立である。しかしながら、言葉づかいだけについて見るならば、このような区別は一般的には成立が困難ではないかと思われる。現にプラトン自身も『パイドン』においては、いわゆるイソップ(アイソポス)の物語をロゴス(六〇D )とも、またミュートス(六一B )とも呼んで、ロゴスのうちにミュートスをも包括するような言葉づかいを示しているのである(*)。のみならず、ホメロスやヘシオドスの昔にさかのぼって、いわゆる叙事詩(エポス)の言葉などを考慮に入れるならば、そこではミュートスは作り話というような限られた意味の言葉ではなく、むしろ話一般を示すものとして、ひろい範囲に用いられている。そしてかえってロゴスの方が、物語とか甘言とかいうような限られた場合に用いられていて、その用例も極めて少数なのである(**)。従ってわれわれは、もしミュートスを特別な言葉として、ロゴスなどに対立させて考えようとするならば、このような言葉づかいだけの一般的な考察のみによって導かれることはできない。われわれはミュートスという言葉そのものよりも、人々がこれによって特別に区別し出そうとした事柄そのものを見るようにしなければならぬ。
(*) 『クラテュロス』四〇八C 参照。
(**)ホメロスでは『イリアス』一五の三九三、『オデュッセイア』一の五六、ヘシオドスでは『仕事と暦日』七八、一〇六、七八九、『神統記』( Theogonia )八九〇など。
ちょうどそのためには、プラトンの『プロタゴラス』第一一節以下(三二〇C − 三二八D )に、いかなるものがミュートスであり、いかなるものがロゴスであるかということの実例が与えられている。この書物はソクラテスとプロタゴラス( Protagoras c. 500/490-430/420 B.C. )の対話を主な内容としているのであるが、ミュートスとロゴスの区別はプロタゴラスによって与えられている。その前後の事情を簡単に説明すると、アテナイの青年ヒッポクラテスは国家有数の人物になろうと志し、そのためにプロタゴラスの門に学びたい希望で、ソクラテスと共にプロタゴラスの許を訪れる。そしてソクラテスはヒッポクラテスに代って、プロタゴラスから何をひとは学ぶことができるかと尋ねる。するとプロタゴラスは「身のため国のためによく計る」(三一八E )ことを自分は教えるのであると答える。ところが、これはすなわち治国斉家の術に外ならないのであって、しかもこのような智徳が果して教え学ばれ得るものであるかどうかということは、一般の問題となっていたのである。すなわちソクラテスによれば、人々は議会において、建築とか造船とかの技術的な問題を取り扱う場合には、それぞれその専門家を呼び出して、その意見を聴取し、素人の議論などには耳をかさないのであるが、しかし治国一般の政治問題については、何人の発言をも許しているのである。これはすなわち政治には、他の技術におけるがごとき専門家は存在せず、従ってそれは専門的に教えたり学んだりすることのできないものであるということを示すものでなければならぬ。またペリクレスのような人は、治国斉家のことに関して充分な智徳をそなえた人なのであるが、しかしこれをその子弟に教えることはできなかったし、またこのような教育は始めから断念してこれを行なわなかった模様である。事実、世人もまた一般にこれに関する特別の教育を行なっていないのである。しかるにこれはすなわち、かかる智徳が教えられ得ないことを示すものでなければならぬ。ところが今プロタゴラスは、かかる智徳の教授を自己の職業として人々に示している。その根拠は果して何なのであろうか。これに対して、プロタゴラスはその点の説明を、ミュートスとロゴスに分けて、次のようにソクラテスに答える。
まず、万人の政治参与ということについては、ゼウスがその原因なのである。すなわち神々によって人間が創造された時、プロメテウスはアテナとヘパイストスの二神のところから、火と共にもろもろの技術を盗んでこれを人間に与えた。その結果は、宗教や言語をはじめとして、衣食住に関する各種の技術が人間のうちに開けて来た。しかしながら、プロメテウスの与えたこれらの恩恵には、なお大事なものが欠けていた。それは何であるかというと、人間を他の動物の来襲などに対して団結させるところのもの、すなわち政治の技術、あるいは国家社会を形成して行くために必要な智徳というものが欠けていたのである。それはこの技術がゼウスのところにあって、プロメテウスもこれを盗むことはできなかったからである。その結果は、各種のすぐれた技術をもちながら人類は、政治技術を欠いたために、他の動物と闘争することができずに、ほとんど亡びようとした。ゼウスがこれを憐んで、ヘルメスを使者に、正義や廉恥などの政治的な智徳を人間にさずけることとなった。その時、この智徳は特定の専門家だけがこれをもつのでは国家社会は成り立たないから、すべての者にこれを分けることとし、この分前をもつことのできない者は、国家社会の病める部分として、これを除いてよいという法を定めた。この故に人々は議会において、特定の技術的な事柄については専門家を呼ぶけれども、一般的な政治問題については何人の発言をも許しているのである。
次に、これらの政治的な智徳が教えられ得るものであるということは、人々が不正な行ないをした者に対して怒り、これを罰したりする事実からも明らかである。なぜなら、生まれつきや偶然の所与で、学ぶことの不可能なものについては、人々は怒ったり、教えたり、懲らしたりはしない。醜い顔や虚弱な体に対しては、むしろ気の毒に思うのである。国家社会が政治的不徳を罰するのは、懲らしめと見せしめのためであって、このことは一般にかかる徳が学ばれ得るものと考えられていることを示すものでなければならぬ。
第三には、智徳すぐれた者も、その智徳をあえてその子弟に教えようとはしなかったし、また事実それを教えることもできなかったということに関して、まず一般に智徳の教育が行なわれていないというのは事実ではない。既に見られたように、政治的な智徳は国家社会の成り立つ根本の要件であって、この徳を欠く者は国家社会のうちに生くることを許されないのである。従って、一身一家の大事ともなるこの教育を怠るはずはないのである。事実、家庭の教育も学校の教育も社会へ出てからの教育も、みなこれを中心としている。ただこれを教える者があまり一般的なので、その存在が気づかれずに、かえって教育は全く行なわれていないように誤認されたのである。そして教育は、このように誰でも一般的に与えられているけれども、無論その結果には優劣があって、智徳すぐれた者の子弟といえども、生まれつきその他の条件によって、その父兄に及ばないということがあり得るのである。
だいたい以上のようなものがプロタゴラスの答なのであるが、これはただソクラテスの論点を個々に取り扱ったものであって、全体として果して矛盾がないかどうか、また果してこれでソクラテスに答えたことになるかどうか、それは今ここに立ち入る問題ではない。とにかくプロタゴラスは、以上の諸点をミュートスとロゴスで述べたと(三二八C )いうのである。どれがミュートスで、どれがロゴスなのか、その点をわれわれは調べてみなければならない。ロゴスに関しては、第三の論点に移る時(三二四D )にプロタゴラスが、「もうミュートスは語らずに、ロゴスにしよう」と述べているから、第三の論点はロゴスによるものと見ることができる。しかし第三の論点と第二の論点では、別にその述べ方が異なるとは思われないのである。これに対して、第一の答は明らかに別のものである。そしてプロタゴラスもそれがミュートスであることを(三二〇C )断わっている。問題は第二の答であって、第一と第三とはそれぞれミュートスとロゴスとして、これを比較対照することができるわけである。恐らく第二の答は第一のミュートスに附加された証明のごときものと見るべきであろう。しかし今はその点をしばらく問題外におきたいと思う。
ところで、プロタゴラスの第一の答と第三の答との相違は何人にも明らかである。第一の答においてプロタゴラスは、万人の政治参与という事実をプロメテウスやゼウスの物語によって説明しているが、第三の答においては、智徳すぐれた人がその智徳を子弟に教えていないというのは事実に反すること、また子弟の智徳が父兄のそれに及ばないのは生まれつきその他の条件によるのであって、別に智徳が教えられ得ないということを示すものではないと答えている。すなわちロゴスにおいては、ひとは事実に対して事実を挙げ、その解釈に対してもまた他の解釈の可能を指摘する。それは常にわれわれによって直接に再吟味され得るものである。ところが、神々の人間創造やプロメテウスの盗み、ゼウスによる国家社会の創成などは、ただ語り手の言葉を聞くより外はなく、われわれが自分でその事実を確かめたり、吟味したりすることは全くできないのである。ロゴスにおいては、語り手も聞き手も、語られる事柄に直接に交渉することができる限りにおいて、全く平等である。ところが、ミュートスにおいては、語られる事柄は語り手の背後にかくされていて、聞き手はただ語り手を通してこれと交渉するより外はない。従って、聞き手の立場と語り手の立場は平等ではなく、聞き手はこのプロタゴラスの場合(三二〇C )のように、しばしば子供扱いにされるのである(*)。それは無論、このような遠い昔の神々の物語などというものは、主としてその少年時代に聞かされるものだからであろう。しかしまた年長者の世界というものは、少年の経験が及ばない世界なので、子供たちにとっては大人の話は多くミュートスとなることを忘れてはならない。しかしながら、彼が生長するに従い、自分の眼ですべてを見ようとするに従って、このようなミュートスは次第にその範囲を狭めて来る。そしてひとが語られたすべての事柄を自分で直接に再吟味しようとする時、ミュートスは単なる虚構(**)として、ロゴスがこれに鋭く対立することとなる。われわれがはじめに見た真実を語るロゴスと作り話に過ぎないミュートスとの対立は、このような場合に考えられるのである。
(*) このほか『ソピステス』二四二C、『政治家』二六八E、『法律』七一二B などにおいてもプラトンは、ミュートスの聞き手を子供の立場においている。
(**)プラトンは『理想国』第二巻(三七七A )、『クラテュロス』四〇八C などにおいて、ミュートスを虚偽として規定している。
二
しかしながら、プロタゴラスがいま実例をもって与えたロゴスとミュートスの区別は、まだこのような対立ではない。すでに見られたように、政治的智徳の教育が実際に行なわれている筈であるというロゴスは、この智徳が国家社会成立の要件としてゼウスによって与えられたというミュートスに連続し、これを前提とするものであった。プロタゴラスの答弁は、ミュートスとロゴスの巧みな配合によって構成されているのである。そしてこれはまたプラトン対話篇の比較的多くのものに見られる構造なのである。プラトンのこの哲学的ミュートスについては、しかしながら今はしばらくおく。しかしプラトンは『理想国』第二巻(三七七A )第三巻(三八九B、四一四B 以下)において、全体としてはまさに虚偽であると考えたミュートスについても、特殊な教育目的のためにこれの利用を許しているのである。すなわち幼児にはじめからロゴスを語ることは不適当であり、またすべての人にそれの真認識を望むことが困難な事柄については、正しい行為に必要な正しいドクサ(ものの見方)を与えるために、何らかのミュートスを必要とする場合が考えられるのである。従って、ミュートスとロゴスの区別は必ずしもその対立ではなく、またこれに対立的な規定を与える場合でも、それをただちに相容れない絶対的矛盾とのみ考えることはできないようである。すなわちミュートスとロゴスについては、なお考えてみなければならぬ問題が伏在するのである。
実をいえば、プロタゴラスの与えているミュートスとロゴスの区別は、最終究極のものではなかったのである。『プロタゴラス』篇においては、プロタゴラスのロゴスは更にソクラテスのロゴスに対立するものとなっている。それはレートリケー( rhetoric )とディアレクティケー( dialectic )の対立である。レートリケーによってなされるものは演説であり、ディアレクティケーのそれは問答である。前者はすなわち弁論術であり、後者はすなわち問答法である。プロタゴラスの得意とするところはレートリケーであって、ソクラテスの本領は無論ディアレクティケーにある。プロタゴラスはいつもすぐ演説を始めようとするが、ソクラテスは例の空とぼけで、私はもの覚えが悪いものだから、長い話は終りまで記憶できない(三三四C - D )などと言いながら、これを一問一答の短かい言葉に直して、プロタゴラスの考えを細かく吟味しようとする。これが『プロタゴラス』篇の劇的葛藤の主要形式をなしているのである。そして既に見られたプロタゴラスの答弁なるものは、かかる劇的葛藤の出発点をなすレートリケーの演説なのである。それはソクラテスをして一時我を忘れしめたほどの魅惑的な雄弁であった。しかしながら、このような雄弁家というものは、ソクラテスの注意している(三二九A )ように、一度何か質問を受けると、まるで書物のように、何も答えることのできない人たちなのである。ひとが演説の内容に関して何かちょっとしたことを質問すると、ちょうど打たれた銅器がいつまでも永い反響をしていて、ひとが押えるまでは鳴りつづけているように、彼等弁論家もまたちょっとした質問に、言論をながながと引きのばして、とんでもない長距離競走を試みる者なのである。レートリケーのこの弱点、すなわち言論の一歩一歩を質問応答の形に展開することができないということは、プラトンが他の機会(*)にも再三注意していることなのであって、それはまたレートリケーのロゴスが吟味に耐えないものであることを示しているとも見られるであろう。ところがこの吟味を許さないという性質は、既にわれわれがミュートスにおいて見たところのものなのである。プロタゴラスのミュートスとロゴスの区別が鋭い対立にならないのは、あるいはこの共通性質のためであったかも知れないのである。
(*)『エウテュデモス』三〇五D、『テアイテトス』一七七B など。
このレートリケーとミュートスが互いに似ているということは、しかしながら、なお他の方面からもこれを見ることができる。ピロストラトス( Philostratus c. 210 A.D. )の書いた『ソピステス伝』第一巻のはじめに、昔のソピステスがなしたものは哲学的レートリケーであって、問題は哲学者のもソピステスのも同じであったが、ただその取扱い方法が異なったのであるとて、その方法の相違が説明されている。それによると、哲学者は質問の網を張って、問題の領域を少しずつ前進するの方法をとり、いつもまだ分からない、まだ分からないと言うけれども、ソピステスはそれを分かりきったことのように言い、「私は知っている」とか、「余の多年の考察によれば」とか、「人間にはひとつとして確実なものはないのである」とかいうような言葉で演説を始める。こういう様式で言葉を始めるのは、あらかじめ聴衆に対して自己の尊厳と自信のある調子を印象づけ、自分は問題の事柄をはっきりと掴んでいるのであるという暗示を与えることになるからである。すなわち哲学の方法は、エジプトやアッシュリアやインドなどで行なわれる人間の占い、すなわち天文などによって事柄を当てようとする仕方に似ているが、ソピステスのレートリケーは、デルポイなどの神託に似て、むしろ神がかりに近いというのである。しかしながら、レートリケーのこの規定はいっそうよくミュートスに当てはまると言わなければならない。プロタゴラスがソクラテスの問いに応じて語り始めたミュートスの堂々たる調子は、さながら神の託宣を読むがごとくである。そしてミュートスはただ語り手を通して伝えられるだけで、聞き手はこれを直接自分で確かめることができないとされたのであるが、それはちょうど神託が巫女を通じてのみ伝えられるのと同じであると言うことができる。そして一切の質問や吟味を許さない言論が神がかりの調子を帯びる時、レートリケーはこの点においてもミュートスに近接することとなる。
かくて、プロタゴラスのミュートスとロゴスは、そのロゴスが更にまたレートリケーのロゴスとして、ディアレクティケーのロゴスと対立する時、そこにプラトンが好んで用いたような一種の比例関係が形づくられることになる。すなわちミュートスとロゴスの比は、レートリケーとディアレクティケーの比なのである。そしてプロタゴラスのロゴスはすなわちレートリケーであるから、それはミュートスとディアレクティケーの対立の中間項(比例中項)となる。つまり、プロタゴラスのロゴスはソクラテスのディアレクティケーに比較すれば全くミュートスのごとくであるが、純然たるミュートスに比べるならば、多分にソクラテス的ロゴスの性質をそなえているのである。プロタゴラスがソクラテスの質問に対して一つ一つ反対の事実とその解釈を挙げて答えたことは、既にわれわれの見た通りである。かくて、はじめには単純なミュートスとロゴスの区別と見えたものも、今はロゴスそれ自体のうちに同様の区別が見られるため、その関係は複雑な形を示すこととなった。そしてこの関係から見ると、究極の対立をなすものはミュートスとディアレクティケーのそれであって、レートリケーはこの間に一種媒介的な地位を占め、両者のおのおのと対立しながら、同時にまたそれぞれに近似的なのである。しかしながら、このようにロゴスもミュートスと同じ規定をもつ場合があって、この両者の区別に用いた規定がまたレートリケーとディアレクティケーとの区別にも共通するというのでは、ミュートスの規定はまだなお不充分と思われるであろう。ミュートスが語られる形式に関しては、一応これまでの規定で足りるとしても、ミュートスはなお内容についても規定さるべきものをもっていなければならぬと考えられるであろう。ミュートスの語り方は、いわゆる神話、昔話、英雄伝説、お伽話、無何有郷談などに最も適切だからである。
しかしながら、これら多様の内容を一括すべきいかなる規定をわれわれは見出し得るであろうか。ミュートスを神話にのみ限るということは無論不可能である。神話は「神々についてのミュートス」(*)であって、ミュートスそのものではなく、イソップの物語も、新国家建設の立法計画(ユートピア談)もみなミュートスなのである(**)。われわれがこれらに共通な規定を求めるならば、それは既に与えられた「作り話」のごときものに帰るより外はないであろう。ミュートスは吟味を許さない仕方で語られるものとされたが、その内容もまた吟味の不可能なもの、証明も反駁もできないものと見られるであろう。もしそれを吟味の対象とするならば、それは既にロゴスの立場から見られているのであって、ミュートスは多く虚偽として非難される。詩人ピンダロス( Pindarus 522/18-442/38 B.C. )は、シュラクサイの支配者ヒエロンのために、その愛馬ペレニコスのオリュンピアにおける勝利を祝って、昔この地方(エリス)の王オイノマオスを戦車競技に破って、その娘ヒッポダミアの求婚に成功したペロプスのことを歌っているのであるが、その際、ペロプスは幼時父タンタロスのために殺され、その肉は神々の饗宴に供されたが、神々に発見され、タンタロスは重い刑罰を受け、ペロプスは復活せしめられたという伝説を虚偽として、「人の世の言いつたえは、まことなるロゴスの埒を越え、さまざまの偽りもて細工したるミュートスの欺くところとなる」(***)と述べているのである。ピンダロスによれば、タンタロスは決してわが子の肉を神々に喰わせようとしたのではなく、また従ってペロプスを殺すようなこともしなかったのであるが、饗宴に招かれた神々がペロプスを愛して天上界のゼウスの宮につれて行ったため、人々はペロプスの死を伝えたのである。そしてその後、タンタロスは神々の食物飲物をとるなど驕慢の罪があったため、子のペロプスも天上界を追われ、やがてヒッポダミアの求婚者となって現われることにもなったのである。その求婚競技の勝利も、伝説に言われているような姦刑によるものではなく、ポセイドンの加護によるのである。すなわちピンダロスは、虚偽のミュートスを却けながら、自分もまた別のミュートスを語っているのである。これによって見れば、ロゴスのうちにレートリケーとディアレクティケーの別があったように、ミュートスのうちにもまたこれに似た区別があることとなる。ピンダロスの道徳的宗教的意識は、人肉饗宴のごときことは神々や英雄の世界にあり得べからざることとなし、昔のミュートスを吟味して、これを合理的なミュートス、すなわちロゴスの吟味に堪え得る程度の多いミュートスに改めざるを得なかった。そしてわれわれがさきにプロタゴラスから聞いたミュートスも、実はこの種のミュートスであって、それはヘシオドスやアイスキュロスの語るプロメテウスのミュートスよりも更に合理化されている。すなわちわれわれがミュートスとロゴスの区別を明らかにするため、出発点として選んだプロタゴラスのミュートスなるものは、決してミュートスの究極的なものではなく、なおロゴス的なもの、ロゴスと他のより究極的なミュートスとの中間にあるものだったのである。しかしながら、真に究極的なミュートスとは何であろうか。われわれはロゴスから厳密に区別されるこのようなミュートスを果して見出し得るであろうか。あるいはむしろ、われわれによって見出されるのは、いつもこのようなミュートスとロゴスなのではないだろうか。
(*) エピクロス第三書簡(メノイケウス宛のもの)第一三四節の用語。
(**) プラトンの『法律』におけるいわゆる第二理想国の建設はやはりミュートスなのである。同書七五二A 参照。
(***)Olympia I. 28-29. なお言葉づかいだけについて見るならば、ミュートスという語は他に二個所( Nemea VII. 23 ; VIII. 33 )だけ用いられていて、いずれも偽わったり、欺いたりする関係のところに出ている。その点、ホメロスやヘシオドスにおけるロゴスの用法と一部分似ているところがあるように思われる。
三
とにかくしかし、この種の中間的なミュートスとロゴスは、ピンダロスやプロタゴラスばかりでなく、またヘロドトス( Herodotus c. 480-c. 425 B.C. )のうちにも見られるものなのである。彼はそのペルシア戦争記の第二巻第一一三節から一二〇節のところで、有名なヘレネの伝説を取り扱っているのであるが、ヘレネがパリス(アレクサンドロス)に伴われてトロイアへの航行の途中、大風が起こって船はエジプトへ吹き流され、メンピスの王プロテウスに抑留されてトロイアへは行かなかったという、エウリピデスの作品『ヘレネ』などにも取り扱われたトロイア戦争談の異説を紹介し、この方が本当ではなかったかという意見を述べている。すなわちもしヘレネが本当にトロイアへ行っていたならば、トロイアの人々は、パリスがヘレネをその妻女としてもつというただそれだけのことのために、自分達自身や自分の子供たちの生命を犠牲にし、国家を危くするようなあの愚かな戦争をした筈がなく、パリスの意向いかんにかかわらず、ヘレネをギリシア方に引き渡したであろう。たとい最初はそれを拒んだとしても、戦禍が次第に拡大され、トロイア王プリアモスさえも息子を戦死させなければならなくなって、なお一婦女子のために意地を張って、長期戦を続けたとは到底信じ難いことである。これはヘレネがいなかったために、トロイア人はいないと言ったけれども、ギリシア人はそれを信ぜずに、あのような戦争になったと考える方がよさそうだというのである。われわれはここにおいて、ホメロスの『イリアス』などに取り扱われている伝説の批判と、それに代るべきより合理的な説明とを見るのである。批判の立場は異なるにしても、ミュートスの合理化はピンダロスの場合と同じだと言うことができるであろう。彼はヘレネがトロイアに行ったという点を疑うけれども、その他の事柄はそのままミュートスを信じているわけである。
ミュートスとロゴスの対立がもう少しはっきりと出ている場合としては、しかし同じ第二巻の四五節を挙げることができるであろう。そこで彼は「ギリシア人の語っているものには、調べの足りないものが他にも沢山あるが、次のミュートスなどもその愚な一例である」とて、ヘラクレスがエジプトへ行って捕えられ、ゼウスの人身御供にされることとなって、冠をつけ行列をつくってつれて行かれた時、はじめは静かにしていたが、いよいよ祭壇のところで頭髪を切られることになって、急に反抗してすべての人を殺したという話を紹介している。ヘロドトスによれば、ヘラクレスいかに強なりとはいえ、一人の人間がそこにいる何千というエジプト人を殺すなどということは、到底ありよう筈のない話なのである。その上、こんな話をするギリシア人は、エジプト人がいかなる性質の者であり、そこにはどんな風習があるかをまるで知らないように思われる。エジプト人は神への犠牲として、羊と牛のきよめられたもの、あるいは雁鴨の類のみを用いて、人身御供などは行なう筈がないのである。
すなわちヘラクレスのミュートスは、ここでその可能性を吟味され、事実に照して批判されている。ミュートスはそのまま聞かれずに、ロゴスの吟味にかけられている。ここに恐らく学問としての歴史が成り立つのであろう。そしてこのような批判的精神は、既にヘロドトスの先行者たるヘカタイオス( Hecataeus fl. c. 520/16 B.C. )においても見られるものなのである。すなわち彼の言葉として「以下において私は、私に真実と思われるものだけを書く。というのは、一般にギリシア人の語っていることには、私の見るところでは、笑うべきものが少なくないからである」(*)という言葉が伝えられているが、これはさきのヘロドトスの言葉と同じ調子のもので、人々の語り伝えるところを無批判にそのまま受けいれずに、その真実と思われるものだけを書きしるすという態度を明らかにしたものと解されるであろう。彼はこのような精神で古代の諸伝説を取り扱い、ギリシア人の祖先の系譜を明らかにすると共に、地中海を中心に欧亜各地の地理を書いたのである。キケロはヘロドトスを史学の父と呼んだ(**)けれども、歴史学はヘロドトスをもって突然はじめられたのでは決してない。ヘロドトスはこのヘカタイオスのほかに、カドモス( Cadmus )クサントス( Xanthus )カロン( Charon )ヘラニコス( Hellanicus )その他多数の先行者もしくは同行者をもっていたのである。ヘロドトスはヘカタイオスをロゴポイオス(ロゴスを作す者)と呼んだが、後には一般にこれらの人々はロゴグラポイ(ロゴスを書く者ども)と呼ばれている(***)。無論、ここにいうロゴスは、ミュートスに対立するのそれではなく、恐らくむしろミュートスと同意義なエポスの言葉の系統に属すべきものなのであろう。別にまた散文の意味にも解されている。しかしながら、ヘカタイオスなどに示された批判的精神を思う時、彼等はまたわれわれの意味におけるロゴスを書き始めた人たちであったようにも思われる。
(*) Fr. 1 ( F. Jacoby, F. Gr. Hist. ).
(**) De legibus I. 1. 5.
(***)ヘロドトスは全体で四回ほどヘカタイオスの名を挙げているが、そのうち三回( II. 143 ; V. 36 ; V. 125 )までロゴポイオスと呼んでいる。ロゴグラポスの意味については E. M. Cope, The Rhetoric of Aristotle vol. II, p. 136, foot-note 参照。
そしてこの批判的精神は、ロゴクラポイよりもヘロドトスにおいて、ヘロドトスよりもまたトゥキュディデスにおいて、層一層と明らかにされて行ったのである。ヘロドトスがペルシア戦争期のアルゴスとペルシアとの交渉に関して、「私は語りつたえられていることがらを語らなければならない。しかしそれをすべて信じて語らなければならぬわけではない。そしてこのことは私の記述全体について言われなければならぬことである」(七巻一五二節)と述べたのも、一般にかかる批判的態度を明らかにしたものと解されている(*)。そしてヘカタイオスがレムノス島のペラズゴイ(ヘロドトスがギリシア先住民を呼ぶ名前)に関して、彼等は昔アッティカから不当の追放を受けた者どもであると語るに対して、政治的顧慮もあったのであろうが、ヘロドトスはヘカタイオスの説とアテナイ人の語るところを、ただそのまま報告して、それ以上の断定を避けている。更にエジプトのナイル河が大地の周囲を流れるオケアノスから出て地中海に注ぐとなすヘカタイオスの説(**)については、その非科学的な点を非難し、「私はオケアノスなどという河のあることを知らない。それはホメロスか誰か前代の作家がこしらえて創作のなかへ入れた名前だと思う」(二巻二一節及び二三節)と述べている。
(*) 同様な態度は二巻一二三節、四巻一九五節などにも見られる。
(**)これがヘカタイオス説であるかどうか、ヘロドトスは名前を挙げていないから不明であるが、ヘカタイオスがアルゴナウタイについて語った断片語( Jacoby, Fr. 18a ; 302C )との一致から、これを一般に学者はヘカタイオス説と推定している。
この態度は、しかしながら、トゥキュディデスにおいていっそう厳格なものとなる。『ペロポネソス戦争記』一巻二二節の文章はこの点を明らかにしたものとして有名である。すなわち「まさに戦争を始めようとしていた時、もしくは既に戦争となっていた時に、各人が言葉に出して語った事柄については、その言われた通りを絶対正確に思い出すということは、私が自分で聞いたことをするにしても、また何かよそから私に話してくれる人がある場合にしても、困難なことであった。そこで私は、実際に言われたことの全体的な意味にできるだけ接近しながら、それぞれの場合に臨んで各人が当然言ったにちがいないと思われることの最も多い言い方を用いることにした。しかしながら、戦争中に事実行なわれたことがらについては、たまたま聞きこんだことをもとにしたり、自分の思うところに従ったりして、これを記すべきものではなく、自分の目撃したことも、他人から聞いたことも、できるだけ正確にこれをそのおのおのについて精査し、而して後にこれを記すべきであると考えた。しかしこの事実の発見ということは、なかなかに骨の折れる仕事であった。なぜなら、それぞれの事実の目撃者といっても、その言うところは同じではなく、同じ事柄についても、どちら側に好意を寄せているかということや記憶の条件によって異なるものがあったからである。それで、これには物語(ミュートス)めいたところがないから、朗読を聞く人には多分面白さが少ないと感じられるであろう。しかしながら、ここに生じた事件というものは、将来また人間界においてこのような性質、もしくはこれに近い性質のことが生ずるであろうところのものなのであるが、この事件についていま明確な見通しを得たいと思う人があって、そういう人たちがこれを有益だと判断してくれるなら、それで私は満足するであろう。これは永い時代のものとして作られたのであって、いま一時の聴衆の喝采を争わんがために作れたものではないのである。」
トゥキュディデスが「事実行なわれたことがら」( rerum gestarum )の「探求」( historia )すなわち真の歴史学の精神について語ったこの言葉に対して、われわれは今日においても恐らく一語を加えることはできないであろう。「ミュートスめいたもののない」トゥキュディデスの歴史学は、その徹底的吟味の精神において、まさにソクラテスのディアレクティケーそのままである。彼はこの立場において、自らをホメロスからヘロドトスに至る一つの伝統のうちにおきつつ、これへの対立を感じなければならなかった。ホメロスはトロイア戦争を取り扱い、ヘロドトスはペルシア戦争を取り扱ったに対して、トゥキュディデスはペロポネソス戦争を取り扱った。そしてトゥキュディデスは自分の取り扱う事件が全ギリシア史上の最大事件であると信じ、トロイア戦争のごときはこれに比すれば全くの小事件であったと考えている。のみならず、その取り扱い方も全く異なるのである。すなわち「詩人は大げさに飾りたてて歌い、ロゴグラポイは真実よりも、聞く人の耳に訴えることを目的に作った。それは吟味を許さず、その多くのものは時を経るに従って、信じられないほどの勢力に達し、ついにはミュートスめいたものになってしまったのである」が、トゥキュディデスはこれに対して、同じ古い時代のことを取り扱うのにも、「古い時代に関するものとしては、充分にこの上なく明白な証拠をもととして、それによって事実であることが見出されたと考えたときに、はじめてそれを認めるようにすれば大過はないであろう」(一巻二一節)というやり方なのである。従って彼は、伝説的な古い時代よりも、吟味のよくきく新しい時代の歴史を研究の対象に選んだのであった。ソクラテスは『弁明』(三八A )において「吟味されない生活は人間の生きる生活ではない」と述べたが、トゥキュディデスにとっても、吟味を許さないような事柄は真の歴史研究に値しないものなのであった。それは結局ミュートスとなることをトゥキュディデスは語っている。われわれはここにミュートスとロゴスの対立する、最も鋭くまた具体的な場合を見ると言うことができるであろう。歴史学というものは、何もなしに始まるものではない。歴史はミュートスの否定と共に始まり、その否定の深化において発達する。歴史的認識の本質をなすものは批判であって、いわゆる歴史的直観のごときものではないであろう。かかる直観はミュートスと共に与えられている歴史の素材である。しかしまた歴史がこの素材を離れるということもないであろう。ヘロドトスにとってヘカタイオスは logo-poios = Mythendichter に過ぎなかったように、トゥキュディデスにとってヘロドトスは単なる logo-graphos = Geschichtschreiber に過ぎなかった(*)。歴史家は互いに相手のミュートスめいた部分を非難し合う。しかし恐らくそこに史学発達の一動因が存するのであろう。運動はミュートスとロゴスの対立に根ざしており、すべての歴史研究はミュートスとロゴスの間にあると言うべきであろう。われわれはさきにミュートスの内容を規定すべきことを求めた。そして今それをわれわれは、歴史学が否定によって出発すべき否定的素材(もしくは基体)として規定することができるであろう。それはかのミュートスというものの吟味を許さない語り方と本質的に結ばれている。しかしながら、ミュートスと歴史の対立は、ミュートスとロゴスの対立の具体化された場合として最も重要ではあるが、まだその全部であるとは言い難い。ディアレクティケーはまた自然科学の精神であって、ミュートスは科学とも対立するものだからである。
(*)トゥキュディデスはヘロドトスの名を挙げてはいないが、上に引用した一巻二一節二二節の文章において、ロゴグラポイの中にヘロドトスをふくめていることは、ルキアヌス( Lucianus, De historia conscribenda 42 )以来一般に認められているところである。このほか彼は一巻九七節でも、ペルシア戦争前後からはじまるアテナイの帝国主義的発展の観察の不充分を一般の歴史家に対して非難しているが、これもヘロドトスに当たると解されている。もっともこれはヘロドトスの本領ではなく、政治的観察の非凡なことと政治的識見の卓越性においては、トゥキュディデスに匹敵する歴史家を発見するのがかえって困難であると考えられる。なお本文のロゴポイオスとロゴグラポスの解釈は、かならずしもヘロドトスやトゥキュディデスがこの語で実際に考えていた意味を示すものでないことは無論である。
四
ところで、その科学は一般にミレトスのタレス( Thales c. 626/5-548/7 B.C. )をもって始まると考えられている。アリストテレスが『形而上学』(一巻三章)において、ものの根本原因を知ろうとする学問の歴史的叙述をタレスから始めたことが、恐らくかかる伝統の始源をなすものなのであろう。タレスはそのところで、万物のはじめをなすところの根源として水を考えたというふうに言われている。しかしながら、万物のこのような根源を考えるというのは、別にタレスをもって始まる現象ではなさそうである。アリストテレスも、このタレスのことに関連して、このような考えは既にホメロスにも見られるという見解のあることを注意している。「神々の生みの父なるオケアノスと母なるテテュス」(*)というホメロスの言葉は、この二つの水の流れが一切の根源であることを示すものとも解されるからである。しかしホメロスの言葉は、果してそこまで解釈してよいものかどうか、われわれはアリストテレスと共にこれを疑問とすることができるであろう。しかしながら、ヘシオドスの『神統記』が、「一番はじめにはカオス( Chaos )ができた。その次にはしかしひろい胸をもったガイア( Gaia )が」(一一六行以下)というふうにして、いわゆる渾沌 −− もしくは大きな裂目 −− (カオス)大地(ガイア)奈落(タルタロス)愛欲(エロース)などの生成を数えながら、更にこのカオスから闇と夜が生まれ、この両者の間に青雲と白昼が生じ、他方大地は星空(天空)を生んだというふうに語って行くのを読む時、われわれは万物の根源に関する思索が、既にタレスよりも一世紀以前に、明瞭な形をもって存在したことを疑い得ないのである。しかもこのヘシオドス風の思索は、タレス時代の前後に及んでますます多方面に発展せしめられていたのである。それは神々や人類の祖先に関する系譜の研究として、いろいろな名前( theogonia, theologia, genealogia )で呼ばれ、かのヘカタイオスの仕事などにも連絡して来るものなのであった。例えばエピメニデス( Epimenides c. 596/3 B.C. )ペレキュデス( Pherecydes c. 544 B.C. )アクシラオス( Acusilaus )などの人々は、いずれもタレスと共に七賢人に数えられることのある人たちで(**)、その年代もほぼ同じと考えられるのであるが、いずれもこの種の仕事を公にしている。エピメニデスによれば、はじめに靄( aēr )と夜があって、そこからタルタロス(奈落)が生まれたということであるし、またペレキュデスによれば、万物の始源は水であって、これを彼はカオス( chaos )と呼んだということである。そしてアクシラオスは、再びヘシオドスにかえって、このカオスから出発し、闇(男性)と夜(女性)から青雲( aithēr )と愛欲( erōs )と才智( mētis )とが生じたと言っている(***)。して見るならば、万物の根源に水を考えたのは、タレスばかりではなく、ペレキュデスもそう考えたのである。そしてこの水をペレキュデスがカオス( chaos )と呼んだ時、タレスの弟子のアナクシマンドロス( Anaximandros c. 612/609-547/6 B.C. )がまた水を「ト・アペイロン」すなわち「無限定者」と言い代えているのである。そしてその無限定な始源は更にアナクシメネス( Anaximenes c. 586/5-528/4 B.C. )によって aēr (靄)すなわち蒙々とした暗い空気におき代えられたのであるが、それは既にエピメニデスの考えだったのである。
(*) 『イリアス』一四歌二〇一行、二四六行、三〇二行。
(**) Diog. Laert. I. 42, 110, 121.
(***)Diels = Kranz, Die Fragmente der Vorsokratiker, 1934, Fr. 5. ( Epimenides ), Fr. 1a ( Pherecydes ), Fr. 1 ( Acusilaus ).
すると、タレスからアナクシメネスに至るミレトスの人々の仕事と、ヘシオドス以後エピメニデス、ペレキュデス、アクシラオスなどの人々によって続けられた仕事とは、そもそもいかなる点において区別されるものなのであろうか。無論、個々の考えの一致については、例えばペレキュデスはタレスの影響を受けたのであるというふうに説明することができるであろう。しかしあらゆる場合をそのような仕方で説明することは困難である。われわれは原則的な区別点を求めなければならぬ。ちょうどそれには、タレスから哲学史や科学史を始めるために、学者がいろいろな説明を試みている。例えば、タレスの水とホメロスのオケアノスやテテュスとを区別するためには、ホメロスは固有名詞で呼ばれるものについて語っているけれども、タレスは普通名詞の「水」を用いている点を注意することができるであろう。しかしこの区別は、ヘシオドス以下の人々にはもはや用いられないであろう。夜も闇も天も地も渾沌も愛欲も別に固有名詞で呼ばれてはいないからである。しかしこれはヘシオドス以下の人々において擬人化されているけれども、タレスの水は飽くまでもただの水で、少しも人格化されていないという点がまた別に注目されるであろう。しかしながら、擬人化されているとか、人格化されていないとかいう区別が、果して彼等にはっきりした区別として知られていたかどうかは疑問である。タレスにとっては、万物は神々によってみたされており(*)、アナクシマンドロスは「ト・アペイロン」やそこから生ずる無数の世界を神々と呼ぶことができたのである(**)。またアナクシメネスにとっては、「われらの生命のもとはすなわち空気( aēr )であって、われらはそれによって統合されているのであるが、世界全体もちょうどそのように、気息と空気がこれをとり囲んで保持している」( Fr. 2. )と考えられるのである。擬人的な神の考え方を峻烈に批判したクセノパネス( Xenophanes c. 540/27 B.C. )も、その唯一の神を「すがたも心も死すべき者どもには似ず」( Fr. 23 )と言うけれども、やはり「全体として視、全体として考え、全体として聞く」( Fr. 24 )とか、「労することなく理知もつ心で万物を振動させる」( Fr. 25 )とか述べている。擬人化とはどこまでをいうのか、その区別は実際には困難である。火水風土の結合分離に親和と闘争の二つの力を考えたエンペドクレス( Empedocles c. 444 B.C. )は、詩的な表現を用いたためでもあるが、四大を「ひかり輝くゼウス、生命をめぐむヘラ、アイドネウス、涙もて死すべき者どもの泉をうるおすネスティス」( Fr. 6 )などとさえ呼んでいるのである。
(*) Aristoteles, De anima A 5. 411a 7.
(**)Aristoteles, Physica Γ 4. 203b 13 ; Cicero, De natura deorum I. 25. アナクシマンドロスのいう神は祭祀の対象としての神ではないであろうと一般に考えられているが、しかしそれは必ずしも彼の神が、全く非人格的であるというようなことを意味するものではないであろう。
従ってわれわれは、タレスの新しさをもっと別なところに求めなければならぬ。それはあるいは、彼の考えた万物の根源が、われわれの日常経験によって容易に把捉され得るようなただの水であるところに、その特色を認めることができるかも知れない。ヘシオドスのカオスやタルタロスのようなものは、これに反して、全くわれわれの経験の埒外にあると考えられるからである。しかしながら、このような経験性も、タレスの場合を説明し得ても、アナクシマンドロスの「無限定者」には当てはまらないであろうから、やはり不充分である。われわれはむしろ、ヘシオドス以下の人々が世界はその昔なんであったかを物語っているに対して、タレス以下の人々は、この世界が現に何であるかを説くというふうに区別すべきであるかも知れない。しかしながら、この点に関しても、ヘシオドスの『神統記』は、「現在のこと未来のこと過去のことを語って、オリュンポスなるゼウスの大御心をよろこばす」(三七 − 三八)ヘリコン山のムゥサイ(詩歌の女神たち)が、ヘシオドスに「神の声を吹きこんで、未来のこと過去のことを告げ知らせるようにさせた」(三一 − 三二)と語っているのである。しかしまたヘシオドスのこの言葉は、彼の語るものがわれわれのミュートスであることを明示している。すなわちわれわれはヘシオドスとタレスの対立をミュートスとロゴスの対立として規定することができるであろう。そしてヘシオドスとアクシラオスとの区別は、既に古人も見たように(*)、韻文と散文の異なりだけで、語るものは同じミュートスなのである。すなわちそれは吟味を許さない仕方で語られている。これに反して、タレスの語るところは、聞く者が皆自分の経験と思考によってこれを吟味することのできるものであった。このために、タレスの水はアナクシマンドロスの「無限定者」におきかえられ、この無限定者は更にアナクシメネスによって aēr と限定されるような、吟味による運動が行なわれ、これが更に発展してアナクサゴラスやデモクリトスやアリストテレスの哲学ともなることができたのである。
(*)Clemens, Stromateis VI. 26.
しかしながら、既に見られたように、ミュートスのうちにロゴスがあり、ロゴスのうちにもミュートスがあるのである。そしてわれわれがいま固有名詞とか、擬人観とか、超越性とか、知られざる過去とかいうようなものをもって、タレスとヘシオドスとを区別しようとしながら、ついに成功しなかったのも、実は両者がミュートスとロゴスの中間にあったからなのである。ミュートスの内容的規定としては、それが固有名詞で呼ばれるようなものについて語り、そこでは天地自然が擬人的に見られ、われわれの日常経験によっては把捉されないようなものが出現し、プロタゴラスのミュートスも「むかし神々はおわしたが、死滅すべきものどものいなかった時代があった」という言葉をもって始められていたように、これらはいずれもミュートスの特色を示す規定だったのである。しかしながら、ヘシオドスもタレスもこれらの特色によって単純に規定されはしなかった。それはこれらが単独ではミュートスの充分な規定となり得なかったためでもあるが、またしかしヘシオドスやタレスの語るところのものが決して単純ではなかったためとも考えられる。タレスの仕事は、ちょうどかの歴史家たちの出発と同じように、ミュートスの否定をもって始められたのであるが、なおそれはミュートスの多くのものを含んでいた。アナクシマンドロスの場合がこれを示している。彼はテミスティオスによって「われわれの知るギリシア人のうちで、自然の根本物質に関するロゴスを書き綴って世に公にすることをあえてした最初の人」(*)と呼ばれているにもかかわらず、その文章は「ものがそこから生じ来たってあるところの、そのものへとまた亡び行くことが必然になければならぬ。なぜなら、それらは時の定めに従って、互いに不正の正しい罰を受け、その償いをするものなのだから」( Diels = Kranz, Fr. 1 )とあるごとく、テオプラストスの評語を借りれば、普通以上に詩人的な言葉をもって語られているのである(**)。それはまたミュートスの語り方で語られているとも言われるであろう。しかしこのようなミュートスへの発展は次のアナクシメネスの任務ではなかった。彼の文章は「簡素単純で余計な修飾を含まない」( D. L. II. 3 )と言われるが、彼の思想もまた堅実で、アナクシマンドロスの大胆な想像はいろいろの点で修正されなければならなかった。そしてこのアナクシメネスの立場が、アナクサゴラスやレウキッポスの時代に至るまでの、イオニア科学の正統なのであった。われわれは歴史学の場合と同じように、科学の発達をミュートスの否定の方向に考えてよいであろう。しかしながら、ここにおいてもミュートスを離れることは容易でないと言わなければならぬ。プラトンは『ソピステス』(二四二C )において、エンペドクレスやヘラクレイトスなどに至る前代思想家の語るところをミュートスに過ぎずと見ているのであるが、アリストテレスは『形而上学』一巻九章(九九一A二二)において、プラトンのイデア論が基礎概念として有するところの「典型的存在」や「倶有〔ぐゆう〕」などを文学的な比喩に過ぎないと批評している。しかもこのイオニア科学への復帰者アリストテレスにおいても、ひとはなおミュートスの多くを指摘することができると言われている(***)。われわれはちょうどアナクサゴラス哲学の世界にいるのである。すなわちアナクサゴラス( Anaxagoras c. 500-428 B.C. )によれば、世界のはじめは無限に大きな、しかも無限に小さく分ち得る万物の混合で、全体は青雲暗雲につつまれて、何ものも分明になっていなかったが、純粋なヌゥス(理知者)がこれにはたらき掛けて、万物を区別し分離してここに世界秩序を作りつつあるというのであるが、しかし万物はこれをどこまで無限に分けて行っても、決して分解しつくされることがなく、いかなる小部分のうちにもなお万物が含まれていると言われている。タレスやヘカタイオスに始まるイオニア科学の堅実な探究的精神( historiā )と、ゼノンからソクラテスに至る徹底的吟味の精神( dialecticē )とは、ちょうどアナクサゴラスのヌゥスのごときはたらきをしているのであるが、しかしミュートスはこれによって決して否定し尽されないかのようである。
(*) Themistius, Orationes 36 p. 317( Dindorf ).
(**) H. Diels, Doxographi Graeci p. 476.
(***)W. Jaeger, Paideia S. 208.
五
しかしながら、このことは別にすべてがミュートスの一元に帰するというようなことを意味するのではない。既にピンダロスの場合にも見られたように、ミュートスは他のミュートスに対立して、ちょうどロゴスのように吟味され、修正されることの多いものなのである。このことをわれわれは、ヘシオドスの『神統記』と他の『神統記』を比較することによっていっそうよく理解することができるであろう。かかる種類の書物は、既に見られたように、ヘシオドス以後においても多数公にされているのである。エピメニデスやペレキュデスやアクシラオスの場合などもそれである。しかし比較上もっとも興味のあるのは、恐らくいわゆるオルペウス教の系統に属する神統記的ミュートスであろう。それは必ずしも一様ではなく、年代その他によっていろいろ異なるようであるが、ここではその比較的単純なものと比較的複雑なものとを例に取ってみよう。その一つはプラトン、アリストテレス、エウデモス(ロドスの人、アリストテレスの弟子)など現在の最も古い史料から綜合的に推定されるもの(*)で、はじめに夜をおき、それから地と天が来たとするもので、この天と地からオケアノスとテテュスが生まれ、これからクロノスとレアの一族が生じ、このクロノスとレアからゼウスとヘラが来るというので、一、夜、二、天地、三、オケアノスとテテュス、四、クロノスとレア、五、ゼウスとヘラ、六、ゼウスの子孫というふうに六代を数える系譜を語るものなのである。これは一見ヘシオドスの神統記などに比べても遙かに簡単と思われるであろう。ヘシオドスでは、いわゆる渾沌(カオス)が先ず生じ、次に大地(ガイア)奈落(タルタロス)愛欲(エロース)などが生じ、夜はそこではじめて渾沌から闇と共に生まれることとなっているからである。そしてこの夜と闇から青雲と白昼が生ずるに対して、別に大地からは天や山や海が生じ、更にこの天と地との間にオケアノスとテテュス、クロノスとレアなどが兄弟姉妹として生まれたというふうに、系譜は横へのびて、複雑な枝葉を生じているからである。しかしこれも一概に簡単とか複雑とか言ってしまうことはできないであろう。われわれは今日ヘシオドス神統記のほとんど全文を所有していて、その枝葉の点をも詳らかにすることができるに反して、オルペウス教のそれは、プラトンなどの簡単な記事によるより外はないものだからである。いまヘシオドスの神統記を同様に要領だけ記すならば、それも、また、一、混沌、二、地と天、三、クロノスとレア、四、ゼウスとヘラというような簡単なものになってしまうであろう。そして両神統記の主要な相違点は、すべてを渾沌から始めるか、夜から始めるかの相違と、オケアノスとテテュスを天地とクロノスの間に別の世代として入れるか否かの相違との二つになるであろう。つまり系譜のはじめと系譜の順序は変更が可能であって、反省吟味の余地をのこすものなのである。既にエピメニデスは靄と夜を万物の始源となし、ペレキュデスは水を渾沌となし、アクシラオスは、渾沌から夜と闇を出し、ここから更に青雲・愛欲・才智の三者を生ぜしめたのである。
(*)プラトン『ピレボス』六六C のオルペウスによる六世代説、『ティマイオス』四〇D に与えられている地と天以下の系譜、アリストテレス『形而上学』一二巻六章(一〇七一b二六以下)同一四巻四章(一〇九一b四)及びダマスキオス(紀元後五世紀末葉から六世紀初頭の新プラトン派哲学者)の『第一原理について』に引用されているエウデモス( Diels = Kranz, Fr. d. Vors. Orpheus Fr. 12 )の証言に示された夜を始源とするオルペウス説などから、綜合的に推定されたもの。これら史料の解釈上の諸問題については、E. Zeller, Die Philosophie der Griechen ( 7. Aufl. ) I. 1. ss. 123-125 Anm. 参照。
この点の複雑化された場合を、われわれは後のオルペウス教のミュートスにおいて見ることができる。すなわちその一つ(*)によれば、はじめに水があった。それが泥となり、更に土となった。この水と土から竜(ドラコーン)が生じた。それは牛と獅子の頭をして、その中間に神の面をもつもので、同時にヘラクレスとも時(クロノス)(**)とも呼ばれ、必然(アナンケ)と不可避(アドラステイア)の両性者がこれに合生している。このヘラクレス・クロノス(時)から、まず湿った青雲と無限の渾沌と霧深い闇との三者が生まれ、第二には卵が生まれ、第三には肩に金の翼をもった陰陽神が生じた。この神は兎に牛の合生した頭をもち、その頭上に動物の百態を示す怪蛇をもっていた。プロトゴノス(始祖)ともゼウスともパン(全体者?)とも呼ばれる。他方、卵は二つに割れて、上部は天となり、下部は地となり、両者の間から諸々の運命と共に、またヘシオドスなどに語られたオケアノス以下のティタネス( Titanes )が生まれたというのである。このような怪奇複雑の神話は上代ギリシアのものであるよりも、むしろ東洋宗教の流入混淆したギリシア・ローマ時代(紀元前三世紀以後)のものであろうと考えられるのであるが、その点はしばらくおき、天地開闢の前にただ一つくらいの始源を設けた前述のミュートスに比べて、これはその前に幾重もの系譜を並べた点が注目される。すなわちミュートスはここでその始源を先へ先へと延長することができたのである。これに反して、天地生成以後の事柄については、かかる自由が次第に少なくなって行くように思われる。すなわちミュートスの変化する部分は、最もミュートスらしく自由に語られるけれども、しかしミュートスとしてそのまま信じられずに、修正され吟味されることの多いものなのである。そしてこの吟味の精神が独立して来ると、かかるミュートスは全面的に否定され、自然哲学や自然科学がこれに代ることとなる。またしかしその変化の少ない部分は、それがわれわれの歴史の世界に近接するに従って、歴史学から批判され、また否定されなければならなくなる。ミュートスはそのどちらにおいても、ロゴスのために領域を狭められ、否定されなければならないかのようである。しかもかかる否定的要素はミュートスそのものの中に蔵されているのである。
(*) ここではダマスキオスとアテナゴラス(紀元二世紀の護教家)の記事( Diels = Kranz, Fr. d. Vors. Orpheus Fr. 13 )を綜合して述べておいた。ダマスキオスがこの神統記を帰しているヘラニコス( Hellanicus )は、またヒエロニュモス( Hieronymus )と同一人ではないかとも疑われ、ヘカタイオスなどと同じロゴグラポスに数えられた紀元前五世紀のヘラニコスとは全く別人と見るべきであろう。
(**)このクロノスは Chronos であって、レアの配偶者たるクロノス( Cronos )とは全く別ものである。ただし、古人はこれを混同した模様がある。
のみならず、ミュートスに対して批判的な態度をとるものには、歴史と科学のほかに、なお文学が存在するのである。文学は Litteratura の文字通りの意味において、ひろくロゴスとミュートスの文字によって固定せしめられたものを意味することができる。ところが、ミュートスのこの文字化には、既に撰択と吟味がはたらく。これが純文学( schöne Literatur )ともなれば、この吟味はいっそう厳格となる。文字化されないミュートスは、口から口へと語り伝えられて、多分に浮動性をもつものなのであるが、文学においては、ミュートスはその最も美しいと思われる語り方で固定せしめられる。そしてこの固定化が上手になれるためには天才と修練とを多く必要とするのである。われわれがホメロスやヘシオドスにおいて見るのは、実はかかる文学作品であって、単なるミュートスそのものではないのである(*)。ホメロスの『イリアス』は一種の戦争小説であって、トロイア戦争中の伝説を取り扱っているのであるが、その取り扱い方は全く文学的である。すなわち伝説のいろいろな要素は「アキレウスの怒り」という主題に集中されている。ギリシアのトロイア遠征軍中において第一の勇士とも言わるべきアキレウスは、総大将アガメムノンのために重大な侮辱を受けて戦闘から一切手を引くこととなり、戦局はその後次第にギリシア軍の不利となり、寄せて来るトロイア勢の叫び声はアキレウスの陣屋近くにも聞かれるようになるが、アキレウスはなお戦闘に参加せず、アガメムノンの妥協的な申し出を冷然と拒否する。しかし彼のこの片意地な気持は必ずしも彼の全心ではなかった。彼はその愛する若者パトロクロスの乞いを容れて、これに自分の鎧と部下を貸し与えて出陣させる。やがてパトロクロスはトロイア勢を深追いして、アポロンの怒りを買い、トロイア方の勇士ヘクトルのために討たれる。この愛する若者の死はアキレウスに悲しみと怒りと後悔とをもたらし、前後の行きがかりを忘れて彼を戦場に立たせる。そしてついにヘクトルを倒して仇を討ち、その屍を戦車に繋いで引きまわして腹いせにする。しかし深夜ヘクトルの父プリアモスの来訪を受け、惻隠の情に堪えずしてこれにその屍を引き渡すこととなる。このおよそ四十日間余の事件が『イリアス』において、いろいろな場面やエピソードを織り交ぜて極めて劇的に構成されているのである。
(*)ミュートスの文学化は、その文字化によって始められるのであるが、しかしこれはただちに読書用の書物が作られるという意味ではない。古典期のギリシアにおいても、書物は自分で読むよりも、ひとに朗読させて聞くものであったように思われる。プラトン『テアイテトス』一四三C 参照。ホメロスの作品が主としていわゆる遊吟詩人(ラプソードス)によって朗誦されたことは人々の知るところである。しかしながら、これらの人々は自ら作者であるよりは、むしろちょうど俳優のように、創作家の作品を台本にもつ者なのであった。プラトン『イオン』五三〇C、五三五E、クセノポン『ソクラテス追憶』四巻二章一〇節参照。ミュートスの文字化とか、文学化とかいうことは、この職業的な吟誦者が言わば音曲の歌詞のごときものを厳格な訓練の下に諳誦せしめられ、そのために誰かが台本をもっていなければならぬところに成り立つと言うことができるであろう。それには既にミュートスの固定化が予想されるからである。しかも『イリアス』や『オデュッセイア』は、既に古くからかかる台本をもっていたらしいのである。Schmid-Stählin, Geschichte der griechischen Literatur, 1929, I, 1. S. 156.
また同じく『オデュッセイア』は、トロイアの陥落後、故郷に帰るオデュッセウスが暴風雨などのため各地を漂流しなければならなかった冒険談と、その留守をまもる貞節な妻ペネロペの苦心と、消息絶えた父の身の上を案じてオデュッセウスを探しに出るその子テレマコスの物語と、この三つを統一構成したものなのであるが、それはトロイア戦争の終局から順を追って物語られるのではなく、オデュッセウスの帰国を許すことが神々によって決定され、彼の長期の漂流もいよいよ終るという年、話はまずテレマコスが父を探しに出るまでの経緯を物語ることから始められ、オデュッセウスの冒険は最後の漂流地において彼自らが、ところの王アルキノオス以下の人々に物語るという形式で述べられていて、その構成は極めて文学的である。アリストテレスが『創作論』(ポエティカ)第六節(一四五〇a三八)において、文学作品の根本であり、その生命であると考えたミュートスなるものは、かかる構成をもった文学的ミュートスなのである。アリストテレスは同書第八節において、他の作家達のヘラクレス物語やテセウス物語が多く失敗しているのに反して、ひとりホメロスの『オデュッセイア』が成功しているゆえんは、ホメロスがオデュッセウスについて知られている一切の伝説のうちから、よく材料を取捨撰択して、これ以上は一つを加えても、また一つを引き去っても、全体が破壊されてしまうような、必然的統一をもったミュートスを構成したことにあると述べている。まことに「作家の任務は、かつて生じたことをそのまま語ることではなく、むしろ生ずるかも知れないこと、すなわち多分もしくは必然に生じ得ること」(一四五一a三六以下)を物語に組立てることでなければならぬ。そしてこの必然性に従ってものを考えるということは、またものを普遍的に見るということなのであって、アリストテレスはかかる文学をもって歴史よりも哲学的であると主張している。最もミュートス的とも見られる神統記が一転して自然哲学となり得たように、ミュートスと不可離の関係にある純文学の作品もまた既に、その合理性の要求において、歴史よりも哲学的であると考えられている。われわれは文学的に構成されたミュートスを直ちにミュートスそのものと同一視してはならぬのである。既に見られたように、ピンダロスの物語るところも、プロタゴラスのミュートスも皆合理化されたミュートスなのであるが、これはホメロスやヘシオドスにおいても同様なのである。
この関係をわれわれはまた、アイスキュロスの『コエポロイ』とソポクレス及びエウリピデスの『エレクトラ』との三つを比較することによっても理解することができるであろう。これは妻のクリュタイメストラとその情人アイギストスとのために殺害されたアガメムノンの遺子たる、オレステスとエレクトラの若い男女が父の仇を討つ物語に取材したものであるが、その構成は三者それぞれ異なっている。それの詳細を今のべることはできないが、国外に生長したオレステスが故国に帰って、女奴隷のような境遇にあるエレクトラと再会、互いに名のり合い認め合う場面と、二人の敵を別々に倒すところとは、三者に共通であって、しかも取扱いは全く異なっているのである。アイスキュロスにおいては、父アガメムノンの墓前に供えられたオレステスの毛髪と附近の足跡によって、早くもエレクトラはオレステスの帰国を知るのであるが、エウリピデスはその『エレクトラ』五二四行以下において、かかる方法を不充分であると批評し、老僕を用いてオレステスの眉の傷を指摘させ、これによってエレクトラとオレステスの再認を成立させている。これに反してソポクレスは、オレステスがもたらすオレステス自身の死の虚報に悲しみ狂うエレクトラが、オレステスとの問答のうちに自然と相手が誰であるかを覚るようにしている。アリストテレスが文学的ミュートスの構成に要求した合理性は、この比較によっても充分明らかであろう。エウリピデスのアイスキュロスに対する批評的立場は、ピンダロスがペロプスの伝説批判に用いた立場と一致するものがあるように思われる。
六
われわれはさきにこのピンダロスのミュートスに関連して、ロゴスから絶対的に区別される究極のミュートスというようなものを想像したのであるが、それは今この文学的ミュートスに対立するところの、文字化されぬミュートスの中に見出されるのではないかとも疑われるであろう。しかしながら、文字化されない場合はロゴスにも存するのであるから、その点のみによって、ミュートスとロゴスが区別されることは不可能である。のみならず、われわれは、ミュートス( mȳthos )とミュステーリア( mystēria )とを区別しなければならぬ(*)。後者は密儀として、その内容は神聖な秘密に属し、口外することを許されないものなのである。しかしながら、ミュートスは口外し、語られることを本領とするものなのである。ミュートスを語る時、ひとはものが語られ得ることを少しも疑いはしない。ところが、神秘は語ることが許されないばかりでなく、語ることのできないものと考えられている。これが神秘の非合理性である。そこでは沈黙か、非合理な言葉が愛される。この点、ミュートスはミュステーリアと鋭く対立するものなのである。われわれはミュートスの本質を非合理性( alogon )すなわちロゴス( oratio, ratio )の否定と考えるよりは、むしろプラトンと共にミュートスをロゴスのうちに数うべきであろう(**)。われわれは文字化されないミュートスによって、ロゴスの全く否定された究極のミュートスを得ることができるなどとは考え得ないのである。
(*) E. Hoffmann, Die Sprache u. die archaische Logik, 1925, SS. 58 ff.
(**)『クラテュロス』四〇八C 。
ひとは文字化されないミュートスによって、あるいは遠い昔の原始的ミュートスというようなものを想像するかも知れない。しかしながら、アイスキュロスの『ペルシア人』は、彼自身の時代について語られた最も新しいミュートスから取材されたものなのである。そして二十世紀のミュートスは宣伝文書のなかよりも、現に人々の口から口へ語り伝えられている事柄のうちに生きている。それはやがてすぐれた文学作品のうちに取り入れられて永久に生きるかも知れず、またその多くは厳正な歴史研究によって虚偽として否定されるかも知れない。とにかくわれわれは、文字化されないミュートスとして原始人のそれのみを考えることはできない。またわれわれは、ホメロスのような古い文学の背後にも、ただちにミュートスの原始時代を考えることはできない。いわゆるギリシア人の形成は紀元前二千年頃に溯られるであろうが、ギリシア人の南方的要素をなすに至る先住人たちは既にクレタ島を中心とするすぐれた文化をもち、また文字も知っていたのである。他方、北からバルカン半島を南下してこれと混血したインド・ヨーロッパ族もまた決して原始人ではなく、彼等のゼウスをもっていたのである。このゼウスが南方のアテナをその娘としてもち、出所の問題視されているアポロンが南方のアルテミスと兄妹になり、かのオリュンポスの神々が形成されて行くには、恐らく千年に近い年月を要したのであろう(*)。そして個々のミュートスが集成されて mȳthologiā (ミュートスの集成)となるのも同じことであったろう。ホメロスやヘシオドスの背後にあるものは、実にかくのごときミュート・ロギアーなのである。
(*)ここではいわゆるギリシア神話の形成に立ち入ることができない。概要については、L.R. Farnell, Outline-History of Greek Religion, 1921, Ch. II ; M. P. Nilsson, A History of Greek Religion, 1925, Ch. I, CH. II など参照。
無論、原始人的要素というものは、われわれの間にも意外に多く残存しているものなのであるが、またそれはギリシア人のミュートスのうちにも発見される(*)。ヘシオドスが『神統記』(一三二 − 二一〇)において試みている、クロノスが母なる地の命によって父なる天を去勢する物語のごときは、恐らくその一つであろう。既に述べられたように、ヘシオドスの『神統記』では、地が天を生むのであるが、更にこの天地の間にオケアノス以下クロノスまでのいわゆるティタネス( Titanes )が生まれ、また別に一目の怪物( Cyclopes )や百手五十頭の怪物なども両者の間に生じた。天はこの怪物を嫌って、生まれるとすぐ地の見えないところ(穴)にこれを隠して、それでまずよしと思っていたのであるが、地は内心これを不快として、天を罰することを子供のティタネスに計るが、みな恐れて答えず、ひとりクロノスがそれを引き受け、母から灰色の鎌を貰い、繁みに身をひそめて待つうち、天は夜を導き、地の上に情欲に燃えて身を一杯にひろげた時、クロノスが鎌で天の器官を切り取って海に投げ込む。その血潮はしかし地にしみて、やがてそこから復讐鬼が生まれ、海ではそこから白い泡が立って、そこからアプロディテ(ヴィナス)が生まれたという話である。いかにも野蛮な話であるが、このような天地結婚のミュートスはひろく未開人の間に知られている模様であって、ヘシオドスのミュートスも原始時代の残存物を多分に含むものと考えられている。すなわちニュージーランドのマオリ人( Maori )の間にもこれと似た話が語られているそうである(**)。それによると、天( Rangi )と地( Papa )は万物の父母であったが、天は地に重なり合っていて離れず、ために一面はただ闇で、その間に生まれた子供たちは全く不幸であった。そこで彼等はいかにすべきかを相談し合って、ついに天地を引き離すことを試みる。なかでも Tutenganahau という子が一番乱暴で、父母の驚き叫ぶのも耳に入れずに、ついに天を上へ押し上げて、いままで両親の腹のくぼみにかくされていた兄弟姉妹を明るみへ出したという話である。細部は無論異なるが、要点はヘシオドスの話に似ていると言えるであろう。この一致はいろいろに説明されるであろうが、その有力な説明は、ギリシア人もその遠い遠い昔においてこのニュージーランド土人と同じ文化段階にあったことがあり、ヘシオドスのミュートスはそういう時代からの遺物であろうという説明である。人種言語のいかんを問わず、原始時代の器具、行事、ミュートスには世界的な類似性があると考えられるからである。従ってわれわれは、原始的なミュートスというようなものを認めなければならぬであろう。しかしこれが本当のミュートスであるかどうか、究極のミュートスとは原始心理の別名であるかどうか、その点はなお問題である。ミュートスは、すでに見られたように、ロゴスの否定を本質とする非合理性ではないのである。また原始心理が語ることを許されざる神秘的事実であるかどうか、甚だ疑問である。われわれは未開人の言語を理解し得るように、そのミュートスをも理解し得るのである。彼等の思考にパルメニデス( Parmenides c. 475 B.C. )においてはじめて発見されたようなロゴスを求めることは勿論無理であるが、そこになお文法の合法則性にも似たものをわれわれは指摘し得るのである(***)。人類歴史のはじめに完全なる非合理性を考えるというようなことは、実は現代のある人々が作り出したミュートスに過ぎないのではないか。はじめに夜闇ありき?
(*) ギリシア文化のうちに見出される原始的要素については、H. J. Rose, Primitive Culture in Greece, 1925 参照。なお、ギリシア文化の原始性を過大視することの危険については、特に同書第三章参照。
(**) A. Lang, Custom and Myth, 1901, pp. 45 ff.
(***)E. Cassirer, Die Begriffsform im mythischen Denken, 1922, S. 35.
われわれは現在もロゴスとミュートスを語っている。そしてわれわれの過去をふりかえって見る時、いたるところにミュートスとロゴスを見出すことができる。われわれは既に言われたように、アナクサゴラス哲学の世界にいる。ミュートスとロゴスは決して完全に分離されることがないけれども、しかしわれわれはつねにそれを区別しなければならぬ。この区別( krinein )はすなわち批判( Kritik )であって、科学や歴史や文学はこの批判と吟味から生まれて進歩発展するのである。この限りにおいて、ミュートスは否定的出発点であり、われわれはミュートスをいかほど否定しても、否定し過ぎることはないと言えよう。ミュートスはロゴスを離れず、否定によって絶えずロゴスを動かすからである。そしてこのような否定的要素としてのミュートスは、つねにロゴスの手前にあり、ロゴスの対立物であると共に、またロゴスの素材として存在する。
しかしながら、他方またロゴスは、このように絶えずミュートスを否定しながら、それ自体はそもそもどこへ行くのであろうか。ディアレクティケーは、ゼノン( Zenon c. 450 B.C. )の場合におけるがごとく、常に否定をもって終るものなのだろうか。プラトンはしかしそうは考えなかった。『饗宴』(二一〇E )『理想国』(五一一B )などの有名な文章が示しているように、ディアレクティケーはその究極において真に善美なるものを直観せしめるのである。それはしかし、多くの神秘主義におけるごとく、無媒介的に与えられるものではない。それは科学の研究を通して、また更にロゴスの吟味を通して、事物がよく熟知された後に、よい素質と善美なるものへの正しい愛をもつ人の心に、「突如として、ちょうど火花の飛び来るがごとくにして、光明が点ぜられ、それは一たび心に生ずれば、それから後はひとりでに養われて行くもの」(*)なのである。プラトンにおいては、善美なるものの直観はただディアレクティケーのみによるのであって、その他の直接的方法は存しないのである。すなわちプラトンによれば、「名づけられたり語られたりするものと、見たり聞いたりする感覚的事実とか互いに揉みつ揉まれつして、好意ある吟味が加えられ、腹蔵のない問答が取りかわされて、やっとそれぞれについての智慧が輝き出し、理知が人間能力の最大限に達する」(**)のである。従ってわれわれは、哲学究極の智慧を実地のディアレクティケーのうちにおいてより外、ひとにこれを伝えるということはできない。しかしプラトンは『理想国』第七巻において、哲学者を善の太陽の直観から再び洞窟の囚人たる同胞のところに引き返させている。真に善美なるものを一瞬でも見た者が、その自分の見たものについてまだそれを見たことのない人たちに語る言葉、それがまたミュートスなのである。それは漠然たる人類過去の物語ではなく、われわれの全存在の絶対的始源を語るものなのである。それは無論ディアレクティケーに代るものではないが、われわれのディアレクティケーの行手を照す光明である。すべてのすぐれた哲学は理想についてかくのごときミュートスを含むものなのである。われわれは歴史や科学によって否定されたミュートスをそのまま信ずる必要なはい。かくのごときミュートスを寓意的解釈によって救おうとする試みは、古代においても現代においても、かえって葬式的意義を有するに過ぎない。後戻りは全く無用であって、否定はどこまでも徹底的でなければならぬ。しかしまた同時にこの否定を導くディアレクティケーの究極について語られる、他のミュートスの存在を忘れてはならないであろう。
(*) 第七書簡三四一CD 。
(**)同三四四B、なお同三四二DE 参照。
(1940年)
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『田中美知太郎全集 第七巻』1969(昭和44)年1刷, 1988(昭和63)年増補版1刷. 筑摩書房. pp. 137-172.
田中美知太郎『ギリシア人の智慧』1942年(古今書院), 1947(昭和22)年(中央公論社). pp. 194-247.
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跋
ここに集められたものの年代は、一九三八年から一九四一年までの四年間、すなわち昭和十三年から十六年に至るものである。年代順に並べると次のようになる。
『雲』のソクラテス 昭和十三年五月
形而上学のために 九月
一八七〇年のニイチェ 同 十四年二月
でうす・えくす・まあきなあ 三月
エートス 三月
日蝕 十一月
ミュートス 同 十五年四月
死すべきもの 六月
ギリシアとローマ 十一月
コルフ島その他 十一月
西洋古典文化 十二月
マッケンナのこと 同 十六年三月
アポロンの挨拶 四月
狂気と正気 七月
プラトンの読書観を中心に 七月
いずれも他から課題されたり、紙数を制限されたり、その他これに似た制約の下に書いたり、話したりしたものばかりである。従って、その時々の事情により、単なる常識の紹介以上に出ないものもあり、話を分かり易くするために事実の解釈を簡単にし過ぎたものもある。また本書のはじめの三篇のように、互いに重複するものもあるが、これは同じ時期に同じような課題をされたためである。いずれも一般の人々のために書かれたのであって、専門の学者に示す目的をもって書かれたのではない。また従って、本書は全体として特別なテーマを取り扱うものでもない。ただ筆者が同一人であって、主な材料をギリシアから取っている点に、統一があると言えば言えるかもしれない。『ギリシア人の智慧』という題も、本書校正中に拾い取った文字であって、はじめは簡単に『西洋古典文化その他』としておいたのであるが、友人の注意で今のように改めた次第である。無論、巻頭の文章が本書の中心問題を示すとか、最後の論文が結論を示すとかいうようなわけのものでは決してない。読者はどこからでも好きなように読んで下すって結構である。ただそれによって、これまでに余り紹介されていなかった古代ギリシア人の精神生活に対する一般の理解と親しみとが生まれ、私自身の友達が一人でも多くなってくれれば、この上ない幸いだと思っている。
なお本書の成立は、いつに福田恆存氏の好意的な慫慂によるものであって、同氏の熱心な説得が筆者の躊躇にうち克つのでなかったならば、到底考えられなかったことである。また校正は岩田義一、石塚為雄、砂川哲夫等の諸氏にお願いした。それら特別の好意に対しては、ここに心からの謝意を表したいと思う。
〜 一九四二、二、一六 〜
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『田中美知太郎全集 第七巻』1969(昭和44)年1刷, 1988(昭和63)年増補版1刷. 筑摩書房. pp. 173-174.
田中美知太郎『ギリシア人の智慧』1942年(古今書院), 1947(昭和22)年(中央公論社). pp. 248-250.
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『ギリシア人の智慧』再刊の跋
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この書物が再刊されることになったが、私としては、今あらためて言い加えることもあまりない。初版の跋文にも見られるように、この書物がはじめて公にされたのは一九四二年で、このような数字を用いるのにも、一種の勇気を必要とするような、戦時中のことであった。さいわいこの書物を多少面白く思って下さる諸君もあって、再版を希望する声も聞かれたのであるが、戦争中は出版社の統合その他の困難があり、ついに実現されず、このたび縁あって、中央公論社から再刊されることになったわけである。いろいろな意味において、西欧の古典的教養の大切なことが感じられて来たようにも思われる今日、この書物にも入門的な役割のいくらかを果し得る点が認められるなら、著者としてはこの上ない仕合せだと思う。
〜 一九四六、二、二 〜
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『田中美知太郎全集 第七巻』1969(昭和44)年1刷, 1988(昭和63)年増補版1刷. 筑摩書房. p. 175.
田中美知太郎『ギリシア人の智慧』1942年(古今書院), 1947(昭和22)年(中央公論社). p. 251.
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