フラニーとズーイ
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んだことがないことと、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を見たことがないことは、もしかしたらパラレルの関係にあるのかもしれない。ぼくは本を読み始めたのも映画を見始めたのも遅い。だから「本物」の読書家、映画好きではまったくない。そういう自己批判がぼくをいつでも苛んでいるし、きっとこのメタなぼくは消えてくれることはない。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に向き合わないのは、ひとつの意固地に違いない。これが『ユリシーズ』や『失われた時を求めて』ならまた話は違ってくる。だけど、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は永遠の二十歳にだけ許された、一瞬の雷。そういう先入観が拭い去られるのは、もっともっと、ずっと先で、その時までぼくはこのサリンジャーの代表作を読むことはないだろう。
『フラニーとズーイ』を初めて読んだのは記録によるともう十二年も前で、村上春樹訳が新潮文庫から刊行されたときにすぐさま購入して読んだのだった。グラス家サーガ、という存在は佐藤友哉から逆輸入する形で知っていたし、『ナイン・ストーリーズ』の「バナナフィッシュにうってつけの日」はすでに読んで、相応の衝撃を受けていた。もっとも、バナナフィッシュも円城塔の「バナナ剥きに最適の日々」からの逆輸入だった。バイト先でたまたまサリンジャーの話をすることが重なって、読み返してみることにした。
それにしても『フラニーとズーイ』ってこんなによかったっけ、と改めて読んで思った。太宰治の「トカトントン」がずっと鳴っているような状態になったフラニーと、その閉塞感を救うような言葉をシニカルに吐くズーイ。
そうして、祈りに引きこもるフラニー。「頭が良くて、幸福そうで、そして――ただただ可愛らしかった(…)もしそれで幸福になれないのなら、たくさんの知識を持っていたって、頭が面白いように切れたって、どんな意味があるんだろう?」という至極もっともな疑問を放つグラス家の母の言葉は、ぼくに旧約聖書「コヘレトの言葉」の文言を思い出させる。
こうして自閉し、周りを拒絶し深い沼に沈んでいこうとするフラニーを引き止めるズーイの言葉がひどく印象に残る。
やっぱり太宰治のことを思い出してしまう。「葉」で俳優になりたい、と書いた太宰治。キリスト教を聖書を読解するという形で傾倒していった太宰治。「バナナフィッシュにうってつけの日」がニューヨーカーに掲載された1948年に自殺した太宰治。きっと太宰はサリンジャーを読むことはなかったのだけど、もし彼がサリンジャーを読んでいたら何を思ったのか、ということばかりが気になる。
改めて、村上春樹の翻訳は当たり前だけれど村上春樹の雰囲気があって、そのものずばりの「名もなき人々(リトル・ピープル)」という言葉が出てきたり、手紙のやりとりは『街とその不確かな壁』を思い出したりする。『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア―序章―』や『ナイン・ストーリーズ』の柴田元幸の新訳を買って読み始めている。大工よ~は次男のバディを語り手にしたシーモアの結婚式に関するスラップスティックで面白いのに、シーモア序章は反対に難解で、ほとんどサリンジャーによる何かの弁明のようにも映る。グラス家サーガは、懐の広いシリーズだ。一方でアップダイクに「自分自身の隠遁所になってしまっている」と揶揄されるのもよくわかる。でもそれって最高の賛辞だよな、とも思う。ユダヤ人とアイルランド人のハーフである、という出自についても気になってくる。アイルランド気質、というものが目下のところの関心事だ。