見出し画像

登山で出会う神話26|其の風雲の伝令者、翠雲蛇(すいうんだ)

雲取山の神であるその蛇、翠雲蛇(すいうんだ)は、かつて「口」を持っていた。山の草葉や蕨、茸を静かに食し、満ち足りた日々を送っていた。しかしある年、山を飢饉が襲い、食べるものは影をひそめ、翠雲蛇の体はやせ細っていった。やがて、食べることのない口は痩せ衰え、ついにはその存在さえ忘れられてしまった。


ある晩、山が深い雲に包まれた。冷たい湿気が翠雲蛇の体にしみわたり、飢えと寒さに震えるその身を包んだ。翠雲蛇は、本能に導かれるように、その冷たい雲を体内へと取り込んだ。その瞬間、ただの食事以上の、慈悲深い温もりが体の奥から広がり、飢えと同時に心までもが満たされていった。
それ以来、翠雲蛇は雲を取り込み、雲と共に生きるようになった。雲を通して、遠くの山々や森、さらには他の山神たちの囁きが耳に届くようになった。四季の変わり目や森の営み、遠くの里の人々の息遣いまで、すべてが翠雲蛇の意識にふわりと溶け込んでいく。彼は「風雲の伝令者」となり、山と山、そして山と人とを結ぶ役割を担った。


翠雲蛇は「東の京」、かつて人が「江戸」と呼んだ地に最も近い高みから、雲を風に乗せて送り出す役目を持つ。江戸の町へ漂う雲の一つひとつに、雲取山の息吹や森の囁き、他の山々の気配がそっと染み込んでいる。翠雲蛇は自らの命を生かしながら、雲を通じてこの世界のあらゆる場所に安らぎと調和をもたらしている。
霜月の夜、雲が東の空へゆっくりと流れ去るその瞬間、翠雲蛇はそっと目を閉じ、遠くの山の神々に静かに祈りを捧げる。その祈りが風と共に届き、江戸の町と山々に安らぎをもたらすようにと。


at雲取山

いいなと思ったら応援しよう!