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55歳で左遷、60歳で「ネット生命保険」を開業「ライフネット生命保険・出口治明さんの働き方」

Ⅰ出口さんの「自分らしい仕事・働き方」

出口さんは、元日本生命の社員です。「友人の友人は友人」の生き方で、60歳にして「インターネットで申し込む生命保険=ライフネット生命」を開業します。開業のきっかけになったのは会社での左遷です。日本生命で最年少の「国際業務部長」に就任していた出口さんですが、2003年55歳にして左遷されます。左遷の原因は、社長との対立でした。大星ビル管理が左遷先でしたが、そこから「友人の友人は友人」の輪をつなげ、「ライフネット生命」を開業します。開業日は、60歳をわずかにすぎており、還暦創業といわれます。左遷から起業家になった「出口さんの仕事、働き方」をまとめました。

1「温故知新」の視点から探す「仕事・働き方」

この原稿は、還暦を過ぎてインターネットで申込を行う「ライフネット生命」を開業した「出口治明さん」の生涯を年齢順に解説しています。その目的は、58歳から生命保険会社の起業に挑戦し、60歳で実現した出口さんの生き方を参考に、皆さんに「自分らしい仕事・働き方」を見つけてほしいからです。世の中、自分の将来をイメージできてない人が多くいます。人生設計が曖昧だと、中途半端な生き方に終わったりします。そんな不安を感じている人に役立つ格言が、「温故知新=故(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知る」です。 
「温故知新」は、「自分らしい仕事・働き方」を明らかにしていく有効な思考法です。ビジネスで活躍した人達の情報を収集・分析していくと、必ず自分の明日につながるヒントが浮かんできます。自分の未来がよくみえない人は、「温故知新」の視点から「自分らしい仕事・働き方」を探してください。
 
注)出口治明さんの「仕事・働き方」は、『直球勝負の会社 日本初!ベンチャー生保の起業物語』(著者:出口治明 発行所:ダイヤモンド社)を参考文献にしています。

2 出口治明さんの「仕事・働き方」のステップ

出口さんの生涯、特に「どのような仕事に取組み、どのように働いたか?」を説明しています。個々の事例を参考に、「自分らしい仕事・働き方」を考えてください。
 
《誕生・・・・31歳頃》
京都大学法学部に入学、1972年・日本生命に入社
京都支社で3年勤務、大阪本店・企画部に異動
 
(1) 1948年 三重県で誕生
奈良県に近い山村の三重県一志郡に生まれ、上野市で育ちます。
 
(2) 1967年 京都大学に入学
上野高校を卒業、大学紛争で混乱する京都大学(法学部)に入学します。大学は封鎖されており、授業もなく、ノンポリ学生として下宿で本を読む生活を送ります。
 
(3) 就活は、スベリ止めで日本生命を受験 
司法試験を目指しますが、不合格の場合の就職先を日本生命にします。当時、就活は圧倒的に売り手市場だったので、「司法試験に落ちたら入社したいと言うと、ぜひ入社してください」と、日本生命からいわれます。

(4) 1972年 日本生命に入社
司法試験に不合格となり、会社の実態をよく知らないまま日本生命に入社します。ゼミの先生から「日本生命はどういう会社と尋ねられ」、答えに窮したりします。
 
(5) 入社すると配属先は京都支社
日本生命に入社して感じたのは、風通しのよい自由闊達な社風でした。
 
(6) 大阪本店・企画部に異動
京都支社で3年勤務したのち大阪本店・企画部に異動します。「企画部は会社の中枢なので会社のすべて知る」ようにと指示され、「社長になったつもりで何事も判断しろ」と教育されます。
 
 
《31歳・・・・34歳頃》
日本興業銀行に出向、若手を外部機関で教育
 
(7) 東京総局の運用企画部に異動
企画部に5年勤務、1979年に東京総局・運用企画部へ異動となります。
 
(8) 1981年 日本興業銀行へ出向
日本の産業界をリードする日本興業銀行の産業調査部に、わずか1年間ですが出向します。この1年間で得難い経験をつみます。日本興業銀行の仕事のやり方は、日本生命と全く異なっており、土日も休日も出勤して、学べることは全て学んでいきます。
 
(9)若手社員の外部派遣による育成を推進
自分の日本興業銀行の体験から、若手社員を外の世界に出そうと心がけます。外務省が民間企業から調査員を募集していることを知り、外務省の友人から事実関係を確認、日本生命から初の外務省への出向者を誕生させます。また、資金運用の国際化を考え、日本輸出入銀行やジェトロに若手社員を送り込みます。生保の資金運用の国際化は必然であり、国際人材の養成が急務であると考えていました。

《35歳・・・・43歳頃》
大蔵省のMOF担になり、金融制度の改革を推進
 
(10) 1983年 MOF担=大蔵省担当
生保の資金がサラ金や外貨投資に流れ出し、その是正のためMOF担になります。このまま野放しにしていると大変だと、運用を統括する生命保険協会の財務委員会を設立、事務局長を務めます。
 
(11) 1985年 大蔵省が金融制度改革を検討
人口減少時代に向け、今後の生命保険会社のあり方について
①  投資顧問、損保、銀行、証券など他業種へ進出
②  生命保険会社として海外に進出
③  人海戦術に頼らない異質のビジネスモデル
・・・といった議論が始まります。
 
(12)「保険業法の大改正」の方針
1991年、「金融制度改革」は、業態別子会社方式で各金融業態が相互に乗り入れる方針を出します。この大改革に続き、1998年の金融システム改革法の成立で、銀行・証券・保険の相互参入の促進や保険契約者保護機構の創設が義務づけられます。

 
《44歳・・・・49歳頃》
ロンドン所長を経て、国際業務部長に就任
 
(13) ロンドン事務所長に就任
1992年、13年間担当した東京の運用企画部門をはなれ、ロンドンに赴任します。「ロンドン事務所長=現地法人社長」ということで、初めて組織のトップにたちます。
 
(14) ロンドン事務所は総勢25名
事務所の業務は、円ローンの営業と、証券投資、調査でした。円ローン
の仕事は、ユーザーの資金需要を見定め、円金利とユーロ金利を見比べ
ながらビジネスを行うもので、毎年1000億円前後の貸し出しを行って
いました。証券業務のほうは、ほぼスタッフ全員が英国人で、総額約5
億米ドルになるファンドの運用でした。

(15) イタリアの国策会社が倒産
1992年、国策会社が倒産、20回以上イタリアに出向き、元本全額の回収
に取り組みます。イタリアがEUに加盟するため、国家債務を減らそう
とした計画倒産でした。日本は10社が与信を行っていて、300億円の残
高がありましたが、日本生命の与信が突出していたので、債権団の代表
となりイタリアとの交渉にあたりました。1994年、なんとか元本全額
を回収します。
 
(16) オペラと演劇に夢中、週末は美術館
ロンドンでは、オペラと演劇に夢中になります。5時半の終業時にロンドンの会社をでて、7時に劇場について観劇します。11時ごろに終演となり、1時ごろに自宅に帰る生活を楽しみます。週末はヨーロッパ中の美術館や教会を訪ね、夜は夜でワインを堪能します。単身で海外に赴任すれば若干の貯金ができるといわれていましたが、完全に持出しになります。
 
(17) 1995年 国際業務部長に就任
日本に帰国、「国際業務部長」として日本生命の海外進出を担当します。海外進出の方向性について、「①地理的に、これからの発展性を考えると、進出すべきはまずもってアジアとする。②東南アジアでも、経済的に抑えているのは華僑であり、中国人である。」ことから中国進出を計画します。中国側に進出したい旨を伝えると、毎月、北京・上海にくるなど熱意をみせて欲しいといわれます。そこから中国行脚が続きますが、3年間の在任期間中は進展なく終わります。日本生命の上海進出は2003年になります。
 
(18) 1997年 日本生命は経営方針を転換
1996年 国際業務部長の時、「2020年に、日本生命の売上の20%は海外から稼ぎたい」というマスタープランを作成、役員会の承認をえます。しかし、1997年、日本生命は新社長により経営方針を大きく転換します。他業種への進出も海外進出もひとまずストップして、本業(女性セールスによる販売への専念)に回帰します。この方針変更は、国際業務部長として提案してきたことと異なり、新社長との間に溝が生まれます。


《50歳・・・・55歳頃》
 国際部門の業務を離れ、国内営業を担当
 
(19) 1998年 公務部長に異動
経営方針に関する社長との対立の影響か、国際部門を離れ国内営業部門の公務部長(公務員を対象に団体保険を販売)へ異動になります。全国の自治体を所管すると宣言して、全県庁や市庁を周り営業活動します。
 
(20) ネットで安い生命保険を販売
2000年頃、アメリカでインターネットを活用して保険を販売する記事を目にします。日本でも、1999年ネット証券が開業し、2000年にはネット銀行も生まれていました。生命保険の保険料が高くなる最大の要因である販売部隊(セールスパーソン)をインターネットにおきかれれば、保険料が安くなるのではと考えます。そして、生保をネット販売する異質ビジネス「e-life」を思いつきます。2001年秋、出資者探しを始めますが、アイデア自体は賛同を得られましたが、出資の話は進みませんでした。なぜなら、訪問した企業のほとんどは生命保険会社が筆頭株主でしたので、「この企画は筆頭株主にうけない」とされ事業化は見送られます。
 
(21) 5年間、公務部長を担当
公務部長の時代、日本生命・団体保険の2割強の売り上げをあげました。
ただ、公務員を相手に団体保険を販売する公務部長をしていると、「これまでとは違う異質のビジネスモデルを試したい」という思いが強くなります。我が国の生命保険会社は、一社専属のセールスパーンを大量に雇用して家庭や会社を頻繁に訪問し、相対的に高額の死亡保険を多数販売するというビジネスモデルでした。どうしても、従来からの同質的な販売では進化が得られないという気持ちが強くなります。
 
 
《55歳・・・・60歳頃》
左遷人事、退社して「ネット生命保険」を設立
 
(22)2003年4月 大星ビル管理に出向
55歳、日本生命保険から大星ビル管理への出向は、明らかに左遷人事でした。もう生命保険の世界の戻ることはないだろうと、3か月ほど集中して生命保険の本『生命保険入門』(2004年 岩波書店から出版)を書き上げます。

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