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賭け麻雀で学んだ「運の法則」で「ドン・キホーテ」グループは売上2兆円を達成「ドン・キホーテ創業者・安田隆夫さんの働き方」

Ⅰ安田さんの「自分らしい仕事・働き方」

「ドン・キホーテ」創業者の安田さんは、慶応義塾大学を卒業後、6年間ほど賭け麻雀によるギャンブラー生活を送っていました。勝負師としての戦いを通じ、「運の法則」を学んでいきます。
1978年、安田さんはギャンブラー生活から足を洗い、「安ければ売れる」との単純な発想でディスカウントストア「泥棒市場」を開業します。従業員もいなく、倉庫もない状態で商売をはじめ、「①深夜営業 ②圧縮展示、③POP洪水」という小売業の常識を破る売り方でお店を繁盛店にします。5年後、「泥棒市場」を売却、現金問屋を始めます。1989年「ドン・キホーテ」で再び小売業に挑戦、1995年からは事業拡大を目指し多店舗化を始めます。
多店舗展開は、優秀な人材がいないと成功しません。安田さんも、人材で苦労します。従業員に、「圧縮陳列、POP洪水」を説明しても理解してもらえません。そこで、従業員に「権限移譲」します。売り場ごとに担当者を決め、仕入れから販売まで好きにやらせます。従業員たちに全て任せてみると、自ら考え、判断し、行動する働き集団に変身します。「権限委譲」された従業員は、いつの間にか「圧縮陳列・POP洪水」や独自の仕入術を習得していき、多店舗化の人材に成長します。
「ドン・キホーテ」は、いま社名を「パン・パシフィック・インターナショナルHD」に変更、売上は2024年6月期で2兆950億円となっています。全国小売業ランキングは4位です。

1「温故知新」の視点から探す「仕事・働き方」

この原稿は、賭け麻雀の生活を反省してディスカウントストア「泥棒市場」を開業、その後「ドン・キホーテ」で大成功した「安田隆夫さん」の生涯を年齢順に解説しています。その目的は、29歳で始めたディスカウントストア「ドン・キホーテ」を年商2兆円超えの企業グループに育て上げた安田さんを参考に、皆さんに「自分らしい仕事・働き方」を見つけてもらうためです。世の中、自分の将来をイメージできてない人が多くいます。人生設計が曖昧だと、中途半端な生き方に終わったりします。そんな不安を感じている人に役立つ格言が、「温故知新=故(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知る」です。 
「温故知新」は、「自分らしい仕事・働き方」を明らかにしていく有効な思考法です。ビジネスで活躍した人達の情報を収集・分析していくと、必ず自分の明日につながるヒントが浮かんできます。自分の未来がよくみえない人は「温故知新」の視点から「自分らしい仕事・働き方」を見つけてください。

注)安田隆夫さんの「仕事・働き方」は、『運 ドン・キホーテ創業者「最強の遺言]』(著者:安田隆夫 発行所:文藝春秋)を参考文献にしています。
 

2 安田隆夫さんの「仕事・働き方」のステップ

安田さんの生き方、特に「どのような仕事に取組み、どのように働いたか?」を説明しています。個々の事例を参考に「自分らしい仕事・働き方」を考えてください。
 
 
《誕生・・・・24歳頃》
慶應義塾大学に入学、起業家として生きる決心

 
(1) 1949年 岐阜県大垣市に誕生
父親が工業高校の技術科教師、母は専業主婦の家庭に生まれます。父親は教育者のイメージそのままの堅物で、酒もたばこもやりません。長男だったので躾も厳しく、テレビは「NHK以外見るな」といわれて育ちます。
 
(2) 無鉄砲なやんちゃ坊主
大柄で腕力があり、負けず嫌いだったので小・中学校時代はガキ大将でした。当然ながら勉強などできるわけがなく、大人しく机に座って授業を聞くのも苦痛な子供でした。
 
(3) 人心掌握が得意な性格
幼い頃から、周りの人を巻き込み、その気にさせてしまうのが得意でした。「ドン・キホーテ」を開業して組織の「集団運」を高め事業を成長させることができたのは、この持って生まれた「人を情熱の世界に巻き込む力」にあったみたいです。

(4) 慶應義塾大学・法学部に入学
保守的な地方都市の小市民的な生活から抜け出したく、高3の秋から猛勉強して大学に進学します。
 
(5) 慶應義塾大学への入学で劣等感
付属高校から入学してきた慶應ボーイのカッコよさに劣等感をいだきます。慶應ボーイたちは、ガールフレンドを連れて車を乗り回していました。それに対して、地方出身者はダサい格好をしていたので、女の子と会話どころか目を合わせることもできませんでした。
 
(6) トップに立つ起業家になる決心
慶應ボーイの下で働くサラリーマンになりたくないので、自分が彼らより上の立場に立つには起業家になるしかないと思います。
 
(7) 麻雀三昧の大学生活
大学は2週間でいかなくなり、麻雀三昧の生活を送ります。当然のように1年生で留年、それが父親にばれ仕送りが途絶えます。今のようにアルバイトを選べる時代でなかったので、わざと労働者風の格好をして横浜・寿町のドヤ街に寝泊まりし、沖仲仕(港湾労働者)などをやったりします。大学を卒業するまでには、麻雀の腕前はプロ並みになっていました。
 
 
《24歳・・・・28歳頃》
 不動産会社に就職も10か月で退社、プータロー生活

 
(8) 1973年 不動産会社に就職
大学卒業後、経営者になるノウハウを学ぶため小さな不動産会社に就職します。しかし、入社した不動産会社は、坪単価500円の原野を「別荘地」として坪1万円で売りつける悪徳な「原野商法」を行う会社でした。
 
(9)悪徳不動産会社が倒産、退社
善良な市民を騙す悪徳不動産会社を辞めようと思っていると、入社10か月で会社が倒産します。この出来事は、長い目で見れば運を上げることにつながります。人生において、絶対にやってはいけないことをするのは、運を落とす典型的な行為だと理解します。
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(10) 再就職せずプータロー生活 
再就職するつもりはなく、プータロー生活に入ります。学生の時から起業家になろうと考えていたので、中途半端な会社に再就職しても負け犬の人生を歩むように思え、賭け麻雀の生活にどっぷりつかります。
 
(11) 真剣勝負の賭け麻雀をする生活
大学1年から麻雀三昧の生活で、卒業の頃にはプロ顔負けの実力をみにつけていました。毎日、夕方に起きて雀荘に出かけます。麻雀メンバーに欠員ができたら加えてもらい、徹夜で真剣勝負のマージャンをして朝帰りする生活です。負けたら後がない賭け麻雀を繰り返すことで、「運の法則」を学んでいきます。
 
(12) 6年間の麻雀生活を自問自答
6年間も麻雀づけの生活を送っていると、「大学を出て俺は何をしている」のか、自分の生活に疑問を感じ始めます。朝晩の駅で通勤客とすれ違う時、「自分が世間から外れている」ことに気づき悲しくなります。
 
(13) 自分にできるのは「モノを売る仕事」
そのころ、ディスカウントストアが登場します。ディスカウントストアを見ていくと、どこの店にいっても不愛想な店主が客をジロッと見るだけでろくに挨拶もしません。業界レベルが低いような気がして、これなら商売の技術・コネのない自分でもできると思います。
 
 
《29歳・・・・39歳頃》
ディスカウントストア「泥棒市場」を開業
  人気店になるが5年で売却、現金問屋の会社を設立

 
(14) 1978年「泥棒市場」を開店
29歳、東京・西大久保でディスカウントストア「泥棒市場」を開業します。この店が、「ドン・キホーテ」の原型になります。

(15) 店は18坪、開店資金は800万円
「泥棒市場」の開店資金800万円は、麻雀の稼ぎを貯めたものでした。
雀荘ではあらゆる種類の人間と出会っており、彼らとの交流で学んだ知識をこれからの商売にいかしてやろうと考えます。
 
(16) 繁盛店にむけ独自の工夫を実行
「安ければ売れる」と思って始めた素人商売の「泥棒市場」、最初からうまくいくはずはありません。そこで、独自の3つの工夫をします。現在「ドン・キホーテ」の代名詞とされる「圧縮陳列」「POP洪水」「深夜営業」です。
 
工夫① 迷路の売場「圧縮陳列」
仕入商品の段ボールを棚に積み上げると迷路のような売場になります。
工夫② 棚という棚は「POP洪水」
段ボールを積み上げると、商品が何かわからなくPOPを貼ります。
工夫③ 夜12時までの「深夜営業」
閉店後の深夜、1人で作業していると道行く人が商品を買ってくれます。
 
小売業の常識を否定するような売り方が、「ドン・キホーテ」を成功に導きます。
 
(17)「泥棒市場」を売却、「現金問屋」を開業
1983年、「泥棒市場」の店を5年で売却、現金問屋の新会社「リーダー」を設立します。新会社「リーダー」は数年もしないうちに関東一の規模に成長、最盛期には年商50憶円を超える売上を実現します。
 
 
《40歳・・・・49歳頃》
 小売業に再挑戦、「ドン・キホーテ」を開業
 多店舗化の実現に向け、従業員へ「権限移譲」
 
(18) 東京・府中市に「ドン・キホーテ」1号店を開業
現金問屋の成功に満足せず、小売業に再挑戦します。1989年 東京・府中市に「ドン・キホーテ」1号店を開業します。「泥棒市場」の経験から好立地の店舗物件を確保したものの、当初は月1000万円の赤字がでます。現金問屋「リーダー」の利益で赤字を補填していき、1993年「府中店」は年商20億円に成長し黒字化を実現します。

(19)「ドン・キホーテ」2号店を出店
バブル崩壊後の1993年、2号店の「ドン・キホーテ杉並店」を出店、年間売上15億円を達成します。1987年からのバブル経済でも、財テクや土地ころがしなどは一切やりませんでした。不動産取引の誘惑に駆られますが、「今から手を出したら、絶対にやられる」と勝負師の勘が働き、バブルが崩壊しても会社は全く無傷でした。
 
(20) 1995年 社名を「ドン・キホーテ」に変更
バブル崩壊でライバル企業が倒産するなか、「ドン・キホーテ」の業績は順調に拡大します。1996年の売上は100億円を達成します。
 
(21) 1995年から多店舗展開、新宿店は大成功
1997年、新宿の職安通りに「ドン・キホーテ新宿店」を開業します。社内でも「職安通りはチョット怖いエリアになるので、出店はリスキー」だと反対がありました。ところが、深夜も煌々と灯りをともして営業する新宿店が核となり、周囲に他の飲食店や物販店が続々と集まってきます。「ドン・キホーテ」が街おこしの起爆剤になります。職安通り一帯は今や夜も賑わいの絶えない商業街区へと変貌し、新宿店は会社を代表するドル箱店になります。
 
(22) 多店舗展開の成功には人材が必要
多店舗展開を成功させるには、優秀な人材が不可欠になります。「ドン・キホーテ」の場合は、独自の「圧縮陳列」「POP洪水」を理解できる優れた従業員です。ドンキの店舗数は1998年に10店舗になっていました。その後、急速に店舗数を拡大していきます。増加に合わせ、店舗運営を管理できる店長や売り場スタッフが絶対必要になります。店の方針を理解して、方針どおり働ける人材なくして、多店舗化は成功しません。
 
(23)「教える」のではなく「自分でやらせる」
「ドン・キホーテ」では、「圧縮展示」「POP洪水」について従業員に教えますが、その意味がうまく伝わりません。教えることが無意味に思えてきます。従業員教育がうまくできず、絶望的になり店の売却話に心を動かされたりします。しかたなく、いままでと正反対の教育方針に転換、「教える」のではなく「自分でやらせる」ことにします。

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