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素人が始めたパン屋さんが大成功「アンデルセン創業者・高木俊介さんの仕事・働き方」

Ⅰ高木俊介さんの「自分らしい仕事・働き方」

高木さんは、「すべての仕事は素人からは始まる」の言葉を支えに
①  パン屋さんの開業、店舗展開
1948年パンの製造を開始、1955年店舗を12店に拡大
②  パンの食べ方を提案するお店を開業
広島の歴史的建物を店舗化、パンのある豊かな生活を提案
③  パン生地の冷凍化技術を実現
パン職人の重労働を改善するため、パン生地の冷凍技術を開発
④  東京進出とパン屋のFC展開
東京・青山にアンデルセンを出店、「リトルマーメイド」のFC展開
・・・・などに取り組みました。

1「温故知新」の視点から探す「仕事・働き方」

この原稿は、パンのセルフ販売や冷凍技術を開発された「アンデルセン・創業者・高木俊介さん」の生涯を年齢順に解説しています。その目的は、パン業界で大成功した高木さんの生き方を参考にして、皆さんに「自分らしい仕事・働き方」を見つけてほしいからです。世の中、自分の将来をイメージできてない人が多くいます。人生設計が曖昧だと、中途半端な生き方に終わったりします。そんな不安を感じている人に役立つ格言が、「温故知新=故(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知る」です。 
「温故知新」は、「自分らしい仕事・働き方」を明らかにしていく有効な思考法です。ビジネスで活躍した人達の情報を収集・分析していくと、必ず自分の明日につながるヒントが浮かんできます。自分の未来がよくみえない人は「温故知新」の視点から「自分らしい仕事・働き方」を探してください。
 
注)高木俊介さんの「仕事・働き方」は、『アンデルセン物語 食卓に志を運ぶ「パン屋」の誇り』(著者:一志治夫 発行所:新潮社)を参考文献にしています。

2 高木俊介さんの「仕事・働き方」のステップ

高木さんの生涯、特に「どのような仕事に取組み、どのように働いたか?」を解説しています。個々の事例を参考に、「自分らしい仕事・働き方」を考えてください。

《誕生・・・・27歳頃》

シンガポールの捕虜収容所から日本に帰国

(1)1919年誕生、軍人となりアジアを転戦
 1919年、広島生まれの高木さんは広島商業学校を卒業後、大阪の小さな貿易会社に勤める。その後、陸軍予備士官学校で軍人の知識を学び、中国・東南アジアの戦場を転戦する。
 
(2)死と向き合う過酷な捕虜生活
 マレーシアで終戦を迎え、情報将校だったので戦犯容疑でシンガポールの捕虜収容所に収容される。毎日、誰かの刑が執行される日が続く。死と向き合う生活を送るが、病気になったこともありギリギリ帰国を許される。
 
(3)1946年 7年半の軍隊生活を終え帰国
1946年秋、1年半の捕虜生活を終えシンガポールから広島に帰国する。帰国後も、戦犯の追及は続くが、多くの友人の友情と知恵で戦犯の追及は取り下げられる。

《28歳・・・・29歳頃》

食糧難の時代、夫婦で団子を販売
 
(4) 1947年 無職ながら結婚
28歳の時、偶然出会った6歳年下の小林彬子さんと結婚する。結婚時は無職で、軍隊に入る前に務めていた貿易商社への復帰も考えたが、占領下で貿易もままならず、鍋や釜を売っている状態で復職は難しかった。
 
(5) 夫婦で団子売りの商売
日本中が食料難で苦しんでいた。高木さん夫婦は、ダンゴを仕入れ、妻が売りさばく商売を始める。販売した団子は、雑草や海藻をこんにゃく粉やデンプンとまぜた野草団子、海団子といわれるまがいもので、とても美味しいといえなかった。
 
(6) 飛ぶように売れるダンゴ
誰もが空腹を満たすため口に入れる食料を探していたため、美味しくない
ダンゴでも売れる。仕入れ先は、高木さんの兄が技術責任者として務めて
いた大和糧食工業(後のカルビー)だった。

(7) ダンゴブームの終わりを予感
ダンゴを売り始めて半年、10個買っていた客が5個しか買わなくなる。客の買い方を観察していると、売れ行きの変化がみえてくる。野菜や海藻で増量したまがいものの団子が、いつまでも売れると思えなかった。
 
(8) 兄の家の軒先でパンを販売
ダンゴ販売に見切りをつけ、近所で作っていたパンを仕入れて売る。近くに税務講習所があり、空腹を満たすため受講者の若者たちが買いにきた。

《29歳・・・・32歳頃》

パンの製造を開始、清潔な白い包装紙を開発
 
(9) 自分で作ったパンの販売を計画
好調なパンの販売から、自分でパンを作り売ることを計画する。パンを販
売しようと思いついたのは、シンガポール抑留時代に食べたイギリスパ
ンの味が忘れなかったからである。今後、アメリカ支配の影響で、美味
しいパンが求められる時代が来ると確信する。パン作りの経験はなかっ
たが、支えとなった言葉が「すべての仕事は素人から始まる(岩波書店の
社主・岩波茂雄)」であった。素人であることを誇りに、どこでもやって
いないことを開拓していく、そのほうが商売は成功するだろうと思う。
 
(10) 1948年 パンの製造を開始
兄から資金をかり、広島市内に「タカキのパン」工場を作る。パン職人1人とお手伝いの女性1人、夫婦の合計4人でレンガ窯を作りパンを製造する。広島県内に大小合わせて240軒のパン屋が営業、前途多難だった。
 
(11) 白い美味しいパンの製造
製粉機を導入して小麦を生成、良質の材料を使い美味しい白いパンを作
る。白いパンにするため小麦を精製すると材料が3割近く減るが、やは
り白いパンが人気だった。砂糖・バター・卵は配給制だったが、闇市で
仕入れて美味しいパンを製造する。
 
(12) 店独自の清潔な白い包装紙
工場でパンを直売する。新聞紙での包装は不衛生なので、店独自の清潔な白い包装紙を作る。新聞紙でなく店の用意した紙で包装するのは、広島県内の食品業界で初めてだった。
 
(13) パンの委託加工を開始
古いパン屋は、国から小麦粉の配給を受け、加工賃をとりパンにして米屋などで販売する。新参の高木さんは、国からの配給を受けることができなかった。そこで、八百屋や菓子店にお願いして、近くのお客さんが配給で受け取った小麦粉を預かり、タカキがパンにしてお店にもどす売り方を始める。妻はパンを置いてない店をまわり、小麦粉を集めてくれる委託店を20店ほど開拓する。

《32歳・・・・39歳頃》

 直営販売店を開店、先進的な取組みで業績を拡大
 
(14) 1951年 直営1号店の開店
広島駅近くに1号店「荒神店」を開店する。ショーケースにパンを並べ、
白いウワッパリを着た店員がトングでパンをはさみ、袋に入れ販売する。
この売り方で「荒神店」は美味しく、清潔なパン屋として人気店になる。
 
(15) 1952年「パンホール」店の開店
広島市の中心街に、パンやサンドイッチの販売と飲食のできる「パンホール」店を開店する。市内の1等地にパン屋が出店することを危ぶむ声も聞こえた。
 
(16)「パンホール」店は1年近く赤字
神戸オリエンタルホテルからスカウトしてきたシェフの作るサンドイッチ、神戸ユーハイムからきた職人の手によるアップルパイやアイスクリーム、焼き立てパンを看板に「パンホール」店を営業する。1日5万円の売り上げが必要であったが、開店当初は平均1万2千円ほどだった。1年後ようやく採算ラインを突破する。
 
(17) 1954年、パン業界が大混乱
日本で初めて米が豊作になり、お米を食べる人が増え、パン離れが起こ
る。1升240円の米が120円に値下がり、米があるなら米を食べるとパ
ン離れの現象が起きる。1954年に240軒あった同業者は、1年半後に50
軒をきり、やがて40軒台になる。
 
(18) 1955年 良質なパンで売上を拡大
美味しいパンと清潔(白い包装紙、トングの使用、従業員は白いウワッパリを着用)な販売が消費者に受け入れられ、同業者が廃業するなか直営店を増やしていく。パン離れで同業者が苦しむなか、店舗を12店に拡大、社員数も80人を超える。鉄筋コンクリート4階建ての社員寮を建設、2段ベッドを各部屋に備える。
 
(19) 人材こそ財産と社員教育を推進
高木夫婦は、会社の財産となる従業員たちを根気よく大切に育てようとする。従業員を大阪のパン学校へ通わせたり、広島随一の百貨店「福屋」の教育主任をよび、社内教育をする。社員数が数百人をこえても社員教育を重視、アメリカのビジネススクールやCIA(米国料理学校)に多くの従業員を留学させる。1948年の創業から15年間は、利益の多くは従業員の教育に費やされる。

(20) 1957年 初の学卒者を採用
 広島大学の研究室に足を運び、発酵工学を学んだ増田伸一郎(1989年 タカキベーカリー社長に就任)を学卒1号として採用する。翌年、中学をでたばかりの城田幸信さんが入社する。城田さんはアメリカでパンの冷凍技術を調査、タカキベーカリーの技術発展に欠かせない職人になる。
 
(21) 1958年「本通りサービスセンター」店の開店
創業10周年、「パンホール」店を改装して、パンの美味しい食べ方を提案する「本通りサービスセンター」店を開店する。ウナギの寝どのようだった「パンホール」店は、隣の呉服店が店じまいをすることになり店舗を拡張できた。1階はパン洋菓子部として、1階奥を喫茶部とする。


《40歳・・・・48歳頃》

「広島アンデルセン」店の開店、セルフ販売を開始
 
(22) 1959年 45日間の海外視察
日本パン技術研究所が主催する本場のパン製造を学ぶ海外視察に参加する。自由に海外渡航することは許されておらず、貿易商の嘱託という立場で旅券をとる。この視察のため株主総会を開き、高木さんへの200万円の旅行資金提供を決議する。訪問国はアフリカ・ヨーロッパからアメリカ・メキシコまでの9か国だった。各地でその地のパンを買い求め、小箱にいれ航空便で広島に送る。次に商品化すべきパンを見つけるためだった。
 
(23) 新しいパンの発見・開発
デンマークで「デニッシュペストリー」を口にして感動、日本での開発を始める。デンマークから職人にきてもらい、こちらかも技術者を派遣する。1962年、商品化に成功、「デニッシュペストリー」の販売を開始する。
 
(24) 発酵パン生地の冷凍技術の研究
 高木さんは、海外視察でイースト菌の発酵を抑制する冷凍技術を知る。生地をあらかじめ発酵冷凍する技術があれば、いつでもパンを焼くことができる。当時のパン屋は、夜中の2時、3時に仕事を始めていた。生地の仕込み・発酵の他、二次発酵をしてから分割・成型・焼き上げると、かなりの時間がかかる。パン生地の冷凍技術を確立させれば、パン職人の労働時間は大幅に短縮でき、計画的な生産も可能になる。また、冷凍パン生地の技術が完成すれば、必要なとき必要なだけパンを焼くことができる。海外視察から帰国した高木さんは、中卒の職人・城田さんにパン生地・冷凍技術の研究を指示する。城田さんは研究を7年続ける。
 
(25) 1966年「パンの低温製造法」の特許を申請
冷凍技術の研究に取組み、1965年冷凍生地を使った「デニッシュペストリー」を発売する。1966年「パンの低温製造法」の特許を申請する。冷凍製品は製造可能になるが、冷凍生地の日持ちといった技術は未完成だった。
 
(26) 1967年 広島市中心街にある銀行店舗を取得
取得した建物は「旧・帝国銀行広島支店」で歴史的建築物になる。原爆で一部被害を受けたがルネッサンス様式の建築物で文化的価値があり、壊すべきか、存続させるべきか難題になる。社内の大半は、使い勝手が悪く立て直しの意見だった。
 
(27) 新店舗のため夫婦2人でイタリア視察
高木さんは、1959年45日間の海外視察をしたとき、ヨーロッパで伝統的な建物を生かしつつ、その中でさまざまな商売が行われているのを目にしていた。その記憶から、歴史的建物をどのような施設に改装すべきかの結論をえるため、夫婦でローマとミラノを視察する。
 
(28) パンのある生活を提案する店に決定
高木夫妻は、イタリアの町を見て周ることで、歴史的建物を残し、内装に手を入れる決断をする。店は「商品を売る前に生活を売る」方針とし、パンを美味しく食べる方法をテーマに、パンのある生活の楽しみ方を提案する。パンの食事にあわせ牛肉、チーズ、ワインや、お花・食器を販売する。
 
(29) 1967年「広島アンデルセン」店の開店
旧・銀行店舗は、「広島アンデルセン」という店になる。店名は、デンマークの「童話作家・アンデルセン」からとる。「アンデルセン」が、童話によって世界の人々の心を豊かにしたように、食によって人々幸せにしたいという思いを込める。「広島アンデルセン」店の開店後、「食卓に幸せを運ぶ」のキャッチフレーズで、食生活の豊かさ、夢、楽しさの実現を推進する。
 
(30) パンのセルフ販売方式を導入
開店した「広島アンデルセン」店では、棚に置いたパンを客自身がトングではさみトレーにのせて、レジで精算する販売を始める。このようなセルフ販売については、社内にも「いったい誰がセルフでパンを買うか」という否定的な意見があった。しかし、実際に販売を始めると、自分でパンを選ぶ楽しさから対面式より売上個数が伸びる。この日本初のセルフ販売は他店から注目をあび、全国に広まっていく。

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