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「無理しない、頑張らない経営」の「ケーズデンキ」創業者・加藤馨さんと2代目・加藤修一さん編

Ⅰ加藤馨・修一社長「自分らしい仕事・働き方」

創業社長・加藤馨さんとその長男で2代目社長・加藤修一さんは、「無理しない、頑張らない経営」で、ケーズデンキを家電量販店の有力企業に成長させました。
 
創業社長・加藤馨さんの人生は
①  父の死により、職業軍人の道を選択
 軍隊経験で、「無理をする、無理をさせる」愚かさを体験
②  軍人時代の知識によりラジオ店を開業
 軍人時代に通信技術の教育を受け、その知識でラジオ店を開業
③  家電ブームに乗り、水戸の有力家電量販店に成長
 昭和30年代は「家電ブーム」の10年、「三種の神器」が普及
④  「新・3種の神器」の時代、第2次家電ブーム
 メーカー「系列店」から家電各社の製品を販売する「混売店」の時代
⑤  従業員の財産づくりを目的に「持ち株制度」を導入
 県内一の家電店に成長、従業員の「財産」ができる持ち株制度を実施
など、軍人時代の経験を活かしながら、戦後たった3坪で始めたラジオ店を茨城県N0.1の家電量販店に成長させました。
 
2代目社長・加藤修一さんは、創業社長・馨さんの教えを守りながら
⑥  「無理しない、頑張らない経営」の推進
 人が無理しなくても仕事が進む「機械化=POS投資」で業務を効率化
⑦    10年間にわたる「YKK戦争」の勝者と敗者
 「YKK戦争」は1987年始まり1997年に終結、敗者は全国の家電量販店
⑧  「コジマとヤマダ」の売上競争は「ヤマダ電機」が勝利
  1997年「コジマ」が業界1位になるが、4年後「ヤマダ電機」が逆転
⑨    「ケーズデンキ」は「M&AとFC戦略」で全国展開
  自社出店は関東地域に限定、関東以外への出店は「M&AとFC」展開
など、ローコスト経営で北関東の「YKK戦争」を戦いぬきます。「YKK戦争」終結後、「コジマ」と「ヤマダ電機」は全国制覇を目指し各地に自社出店します。一方、「ケーズデンキ」は各地の地場・家電量販店と協力して全国展開をはかります。
 
注)「加藤馨・修一さんの仕事・働き方」は、『正しく生きる ケーズデンキ創業者・加藤馨の障害』(著者:立石泰則 発行所:岩波書店)を参考文献にしています。

1「温故知新」の視点から探す「仕事・働き方」

この原稿は、戦後はじめた3坪のラジオ店を業界トップクラスの家電量販店「ケーズデンキ」に育てた創業社長・加藤馨さんとその長男で2代目社長・加藤修一さんの人生を年齢順に解説しています。その目的は、加藤さん親子の生き方を参考に、皆さん自身の「自分らしい仕事・働き方」を見つけてほしいからです。世の中、自分の将来をイメージできてない人が多くいます。生涯設計が曖昧だと、中途半端な人生に終わったりします。そんな不安を感じている人に役立つ格言が、「温故知新=故(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知る」です。 
「温故知新」は、「自分らしい仕事・働き方」を明らかにしていく有効な思考法です。ビジネスで活躍した人達の情報を調査・分析していくと、必ず自分の明日につながるヒントが浮かんできます。自分の未来がみえない人は、「温故知新」の視点から「自分らしい仕事・働き方」を探してください。

2 加藤馨さん「仕事・働き方」のステップ

加藤馨さんが「どのような仕事に取組み、どのように働いたか?」を解説しています。個々の事例を「自分らしい仕事・働き方」の参考にしてください。
 
 加藤馨《誕生・・・28歳頃》
 父の死亡で生活苦、職業軍人になり水戸で終戦

 
(1) 1917年5月 神奈川県千木良村に誕生
千木良村は電気も水道も通じてない村で、養蚕業が盛んだった。4男1女兄弟の末っ子として生まれる。父・定一さんは村で評判の働き者で、他人の世話をいとわない心優しい性格だった。商才と先見性も兼ね備え耕作地売買の仲介や村の水道事業を実現する。
 
(2) 球根栽培で豊かな生活
父・定一さんは、養蚕業をせず百合の球根栽培で収入を得ていた。加藤肇さんの『回顧録』の中に、鉄砲百合の栽培により5000円(年商か、利益か不明)、今の物価で4,000万円位の儲けがあったと記載されている。
 
(3) 師範学校への進学を決定
馨さんは学校の成績が良かったので、校長先生の推薦で師範学校への入学を決める。父・定一さんも、球根栽培が下り坂にはいりつつあり、我が子に農業を継がせるよりサラリーマンにしたかったようだった。

(4) 父がくも膜下出血で死亡
父・定一さんが51歳で突然死亡、大黒柱を失い加藤家の暮らしは悪化する。長男の操が父の仕事を継ぐが、十分な収入は得られなかった。
 
(5) 師範学校をやめ農業に従事
馨さんは、母から師範学校への進学をあきらめるよういわれ家業の球根
栽培を手伝う。小学校卒業で家業の農業を手伝うことは、一生村からで
られないことを意味する。仮に出られたとしても、小学校卒業の学歴ではいい仕事につけるはずがなかった。
 
(6) 職業軍人の道を選択
次兄から、職業軍人なら将校になれるとの話を聞き職業軍人を目指す。1936年志願兵として入隊検査を受け合格する。1937年、甲府の「第1師団」に入隊し「甲府第49連隊」に配属される。
 
(7) 国境警備で「無理する愚かさ」を体験
「甲府第49連隊」の任務は満州国の国境警備だった。満州国とソ連の間でしばしば国境紛争が起きていた。1937年6月ソ連が川の小さな島を占拠したため現地に急行する。強行軍だったこともあって、その日の夜は全員が死んだように眠る。もしソ連軍が攻めてきていたら、全滅の危機だった。戦う目的で現地に向かうが、早くついても疲労困憊で戦えないなら意味がない。このことから「無理をさせる、無理をする」ことの愚かさを学ぶ。その後、下士官教育を受け歩兵連隊に配属され、暗号班長になる。暗号班長は最前線に出ることなく連隊本部業務となり、中国戦線で2年半従軍するも生き残れる。
 
(8) 通信要員として無線技術を学習
1941年歩兵科から航空兵科に転科となり、平壌の飛行場大隊に異動する。通信要員としての知識を学ぶため「陸軍航空通信学校」(ここでの通信技術の学習が、ラジオ店開業に繋がる)に入学する。卒業後、ラバウルの通信隊本部で送信業務を担当、ラバウルにおける日本の劣勢を肌で感じる。1943年10月、埼玉の「陸軍航空士官学校」に入学、8カ月学び少尉に任命される。1か月の補修教育を受け通信学校教官の任務に就きく。教官として国内にとどまったことで外地での戦死を免れる。

加藤馨《28歳・・・・32歳頃》
 水戸市内に3坪のラジオ店「加藤電機商会」を創業
 
(9)8月15日・水戸で終戦、除隊で失業者
8月の終戦から約1か月後に除隊、職業軍人だったので失業者になる。「職業紹介所」の所長から「職業軍人への就職斡旋は禁止」と言われる。
 
(10) 無線技術によるラジオ店の開業
近所に住む1年先輩の元軍人は、新聞配達店を始めるという。先輩にラジオ店をやろうと思うと話すと、ラジオの配線図を貸してくれる。無線機の配線図よりやさしい構造だったので、これならラジオの修理ができると思い「ラジオ店」の開業を決心する。
 
(11) 売上は週に2~3台の「ラジオ修理」
お店を出すお金もなく、妻の実家の通りに「ラジオ修理」の看板をだし自宅で商売を始める。修理を本業にするが生活費を賄えない収入だった。
 
(12) 1947年「加藤電機商会」を創業
水戸市内でラジオ店用の空き貸店舗を探す。水戸は空襲で約6割の建物が焼失、満足な家自体が不足していた。また、水戸では旅の人(県外の人)は信用できないので家を貸さないという習慣があった。貸店舗を探し始めて1年半後、9坪の住居と3坪の店舗からなる2階建ボロ屋を賃貸する。修繕してラジオ店「加藤電機商会」を創業、1955年には個人商店の「加藤電機商会」を有限会社化して代表取締役社長になる。
 
(13) 収入の大半はラジオ修理
戦争中で部品不足により故障していたラジオの修理が本業になる。修理代は、請求時に部品代と手間賃を記載した伝票を発行して信頼を得る。出張修理も行い、その際タダでもう一つ修理するサービスを実施する。修理の要望の多かった製品は、アイロンだった。コード切れでアイロンが使えなく、この修理がお客さんに好評だった。
 
(14) お店は順調に業績を拡大
月平均70台の修理依頼があり、生活費3000円のころ月商7000円になる。馨さんのお客さんを第一にした信頼される商売と温厚な人柄から「加藤電機商会」は順調に業績を伸ばす。借金を返済したうえにいくばくかの貯金もできるようになる。

加藤馨《33歳・・・・38歳頃》
 18坪の「自宅兼店舗」を建設、繁華街のそばで商売は好調
 
(15) 繁華街近くの店舗用土地を購入
1950年、家にある預貯金をかき集め次の店舗用の土地64坪を購入する。繁華街から通り一つ挟んだ場所にあり、今後の店舗経営にとって魅力的な土地だった。住宅金融公庫などから建築費の9割・36万円の融資を受ける。
 
(16) 1951年「根積町店」を開店
ボロ屋の借家店舗から引っ越し根積町へ移転、住居兼店舗で18坪の「根積町店」を開店する。新店のオープンでも、特別に記念セールや折り込み広告ということをする時代ではなかった。
 
(17) 繁華街に近く多くの客が来店
開店の宣伝をしなくても客が来店、月商が約3倍(月商10万円)になる。ポロ店舗と比べ物にならないほど繁盛、商店立地の大切さを知る。
 
(18) 人手不足で求人募集を開始
商売は盛況で奥さんと2人では人手不足となり、「公共職業安定所」に求人をする。応募者は中卒の失業者で優秀な人材はいなかったが、必要最低限の人手を確保するため採用する。採用にあっては、自分で筆記試験の問題を作り、面接にあたった。小さな電気屋に就職しようと思う人に満足できる人材はいなかった。

 
 加藤馨《39歳・・・・48歳頃》
 「3種の神器」の発売、家電ブームの10年

(19) 国民所得が増加、家電ブームの発生
1956年、昭和31年度・経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言する。
日本では1955年(昭和30年)から1973年頃までの18年間を「高度成長期」と呼ぶ。高度成長期の日本経済の成長率は年間10%を記録する。特に、1960年池田首相の発表した「所得倍増計画」が成功、実質国民所得は約7年で倍増し国民の生活は豊かになる。所得の増えた国民は、こぞって「三種の神器=白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫」を買い始める。テレビの場合、早川電機工業(現シャープ)が1953年に日本初の国産テレビを発売したときの価格は14インチ白黒テレビで17万5千円だった。サラリーマンの平均年収に相当する金額で一般のサラリーマンは変えなかったが、1958年テレビ価格は7万ぐらいになり売れ出す。

(20) 来店客をファンにする販売を実施
馨さんは、「買うなら加藤電機がいいと思ってくれるお客さん=根積町店のファンづくり」を目指した商売をする。「どんなお客さんに対しても安売りをせず(軍隊時代の戦友でも割引率は15%)、他店で行わない出張サービスを実施する。お客さんの利益を優先させ、「親切でサービスの良い店」としてお客さんから信頼される。
 
(21)「ご成婚パレード」でテレビ販売が急拡大
1959年(昭和34年)、現在の上皇様がご結婚される。家電メーカーの「ご成婚パレードをテレビで見よう」のキャンペーンにより、テレビの普及率が前年の2倍、23.6%に上昇、家電ブームのきっかけになる。
 
(22) メーカーによる「問屋・販売店」の系列化
家電ブームで各メーカーは量産体制を整備、問屋・販売店の系列化を進める。系列小売店が増えれば、メーカーの生産量は系列店の数を最低販売量として計算できる。特に、松下電器が販売店の系列化に積極的で、松下製品しか扱わない家電販売店を「ナショナルショップ」とする。「加藤電機商会」も、水戸市の店として「ナショナルショップ」に登録する。
 
(23)家電業界の成長率が鈍化
1963年、家電業界の成長が鈍化し始める。業界の成長率は、1961年をピークに減少、1963年には前年比伸び率が10%を切る。「3種の神器」の世帯普及率も、モノクロテレビ89%、電機洗濯機66%、電気冷蔵庫40%と高い数字になっていた。
 
(24) 1964年 東京オリンピック商戦は不発
家電ブームの終わりが見えてくる状況で、家電各社はカラーテレビの販売にかけ、「東京オリンピックをカラーテレビで見よう」とキャンペーンを展開する。しかし、14インチモノクロテレビが6万円に対し、カラーテレビは約20万円の高額だったので売れなかった。
 
(25) 業界あげてテレビの安売り合戦
東京オリンピックという大きな商戦に向け、家電各社が過剰な設備投資と販売合戦を繰り返した。カラーテレビはやはり高額で売れなかった。各社が増産した主力商品モノクロテレビも、買替え需要しか発生せず販売不振だった。家電各社はオリンピック商戦で大打撃を受ける。やむえず、家電各社は在庫のテレビを流通に「押し込み販売」する。小売店は卸値が下がった分だけ安い値段をつけて、テレビを全て売り切ろうとする。各地で異常な乱売合戦が行われるが、需要を超える商品を売り切ることはできず、家電市場は大混乱する。
 
(26) 問屋や街の販売店が廃業
安い値段のテレビでも需要不足で売れず、経営難から電機販売店の転廃業が続く。天下の松下電器でさえも安売り合戦の被害は大きく、系列の販売会社・代理店170社のうち黒字経営だったのは20数社にすぎず、多くは赤字経営から借金地獄に陥っていた。
 
(27) 1964年「根積町店」を45坪に増築
「加藤電機商会」は、お客さん重視の販売方針により、周辺店舗が「安売り」に走ろうが、業界全体が乱売合戦しようが、世の中の動きに反して業績は好調で「根積町店」を45坪に増築する。「加藤電機商会」は、「サービスは良いのだけれども、値段が高い店だからね」という評価が定着していた。買い物に来るお客さんはお店のファンの人達が大半で、大幅な値引きを要求するお客さんはいなかった。
 
 
加藤馨《49歳・・・・53歳頃》
「系列店」から「混売店」に転換、90坪の大型店を出店
 
(28)「新・3種の神器」ブームの到来
1966年になるとカラーテレビが普及価格(1インチ1万円)になり順調に売れ出す。1968年に日本のGNP(国民総生産)はドイツを抜いて、アメリカに次ぐ世界2位になる。豊かになった国民の関心は、「新3種の神器 カー、クーラー、カラーテレビ」に移っていく。

(29)「加藤電機商会」は「東日電」に加入
1967年「加藤電機商会」は、「東日電」に加入する。「東日電」の加盟店は、関東地区で年商1億円以上販売している有力家電販売店だった。上部組織は「全日電」で、各地でメーカーの系列に入らず独自の道を歩んできた家電販売店(混売店)がメンバーで、スーパーに対抗するため今後の家電販売店のあり方を研究するために作られた組織だった。各地域で「全日電」と同じような研究会を立ち上げようという動きが生まれ、全国を8地区に分け、関東地区では「東日電」が作られた。この会の勉強会に加藤馨さんが出席できないときは、長男で学生の加藤修一さんが参加していた。
 
(30)「松下電器・専売店」から「混売店」に転換
「東日電」加入で、「加藤電機商会」は松下以外の製品を自由に仕入れられるようになる。仕入れメーカーを増やせたことから、「ナショナルショップ」の看板をそのままに、新たに他社の看板を掲げる。「根積町店」は松下の「専売店」から家電各社の製品を売る「混売店」へ変わっていく。
 
(31)長男・修一さんが「加藤電機商会」に入社
1969年、加藤修一さんが東京電機大学を卒業、「加藤電機商会」に入社する。当時の「加藤電機商会」は、年商が1億円で従業員数も20~30名ほどになる。業界のトップ販売店は「星電社」で、年商が60憶円ぐらいだった。入社した修一さんは、新人時代に出張サービスやテレビのアンテナの設置、訪問販売など、営業活動をひと通り経験していく。さらに、次期社長としての能力を身に着けるため『小売業成長の秘密』(渥美俊一著)といった本を見つけ「チェーンオペレーション理論」を学び、経理学校にも通い財務関係の勉強にも励む。

(32) スーパーとの価格競争の時代
「混売店」にシフトすると、お店の売上はもちろん、松下電器の売上も減
少することなく増加する。むしろ、販売上の課題は、スーパー・ディス
カウントストア対策だった。1969年頃には、水戸市内にスーパーやディ
スカウントストアなど大型店が進出していた。ダイエーはメーカーから価
格決定権の奪取を宣言して「安売り」をする。松下電器はダイエーに出荷
停止で臨むが、ダイエーは現金問屋などから仕入れて販売する。
 
(33) 家電販売店は、大型店の時代
家電販売店は、ダイエーなどの大型店と競争するには、大量仕入れできる規模の店にならざるをえなくなる。店内に幅広く商品を並べ、大量仕入れで安く売る「大型・混売店」の時代が始まる。
 
 
加藤馨《54歳・・・・64歳頃》
 多店舗化を推進、県内一の家電販売店に成長
 
(34)「カトーデンキ」の社名を変更
1971年、「加藤電機商会」は「カトーデンキ」に社名を変更する。2年前入社した加藤馨さんの長男・修一さんは取締役営業部長に就任する。
 
(35) 1972年「駅南店」をオープン
「カトーデンキ」の本格的な大型店として、水戸市内に約90坪の「駅南店」を出店する。開店当時、「駅南店」の周辺は市役所もなく、人通りが少ないため集客に苦労する。しかし、車社会の到来により来店者が増えてくる。「駅南店」の開店にともない、馨さんは5か条からなる社是「①我等は今日1日を感謝の気持ちで働きましょう。②我等は今日1日を健康で楽しく働きましょう。③我等は今日1日を親切と愛情をもって働きましょう。④我等は今日1日を電気専門店の誇りをもって働きましょう。⑤我等は今日1日を生産性の向上に努力しましょう。」を発表する。馨さんが社是の中でいちばん大切としたの③で、社会では信用が第一で、その信用を得る方法が「お客様への親切と愛情」だとする。

(36)「駅南店」は系列店を離れ混売店化
「カトーデンキ」は「駅南店」の開業で名実ともに「ナショナル系列店」から離脱し、「混売店」となる。販売方法も、これまでの出張販売から店頭販売に切り替え、「親切と愛情によるお客さん第一主義」を推進する。
 
(37)県下一の家電販売店に成長
「カトーデンキ」は1980年頃には、売上高14億円、従業員数50名を超える茨城県内1位の家電量販店になる。多店舗展開も図り、水戸市内に5店舗、勝田市に1店舗を出店する。多店舗展開が実現した理由の一つは、店長を任されられる優秀な人材が育ってきたからである。
 
(38)優秀な従業員の独立問題の解消
「カトーデンキ」は順調に成長するが、その過程での反省点は従業員の独立問題だった。町の家電販売店の優秀な人材は、入社後10年程度で独立するのが一般的だった。彼らの独立をサポートしたのは、家電各社だった。ほとんどのメーカーは系列化を促進するため、家電販売店の優秀な従業員に対して開業資金を支援して独立を促した。しかし、独立してもそう簡単に商売がうまくいくはずもなく、失敗する人が多かった。「カトーデンキ」でも13名が独立するが、ほとんどの従業員が失敗して生活に困ったりしていた。馨さんは、この不幸な独立問題を解決するには、従業員が定年まで働いたら「ひと財産」できる会社にする必要があると考える。
 
(39)従業員出資の「カトーデンキ販売」の設立
1980年、社員も役員も全員が株主になって、定年まで株を増やし続け財産を作る持ち株制度を導入した「カトーデンキ販売」を設立する。最初の株式の購入資金は、全従業員が一度退職し、もらった退職金で株を購入するようにする。しかし、この制度に関する従業員の理解が不十分だったのか、残念なことに42名の従業員のうち自社株を購入したのは18名だった。若い従業員は退職金で車を買ったりする。持ち株制度を始めた「カートデン販売」の利益は、初年度6000万円、翌年度1億1300万円、その後も利益が1.5倍ペースで増え続け、「ひと財産」の実現につながる。

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