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中小企業を経営危機に陥れる問題 ①輸入・低価格品の増加 ②社会変化でニーズの多様化 ③大手企業との販売競争 ④OEM(他社製品の製造)で業績の不安定化・・・の解決に向け、自社商品のブランド化を推進 小さな豆菓子屋・池田食品 池田光司さんの働き方

Ⅰ池田さんの「自分らしい仕事・働き方」

1977年28歳の時、池田光司さんは父の創業した池田食品に入社します。しかし、光司さんが家業に従事したころから、自社主力商品の豆菓子「バターピーナッツ」の売上が減少しはじめます。さらに、池田食品は中国からの低価格輸入品の大幅な増加、ニーズの多様化による市場の縮小、大手企業との販売競争などといった問題に直面し業績を低下させていきます。
1984年に父が死亡、社長に就任しますが、「バターピーナッツ」の売上は減少し続けます。1990年代にはいると、中国の低価格品の輸入が市場の主流となり、国産品は価格差から中国品と勝負できなくなります。しかたなく、「バターピーナッツ」からの撤退を決めます。売上は入社時の10億円から半減、創業後はじめて赤字に陥ります。2000年「大店法」の改正が行われ、その影響もあってか、本州企業の北海道進出が加速化します。道内のお菓子の販売競争も激化し、2度目の赤字となります。
赤字脱却のため0EM(他社製品の製造)を開始、2005年には売り上げを7億円まで回復させます。仕事は増えますが、従業員は元気を失っていきます。下請けとなるOEMでは、「従業員がやりがいを感じない」からでした。そこで、OEMをやめ、自社商品ブランド化の道を選択し再生をはかります。

1「温故知新」の視点から探す「仕事・働き方」

この原稿は、2代目社長として数々の経営危機を乗り越え「自社商品のブランド化」を進めている池田光司さんの仕事人生を年齢順に解説しています。その目的は、北海道の小さな豆菓子会社の経営で苦悩する池田さんの生き方を参考に皆さんに「自分らしい仕事・働き方」を見つけてもらうためです。  世の中、自分の将来をイメージできてない人が多くいます。人生設計が曖昧だと、中途半端な生き方に終わったりします。そんな不安を感じている人に役立つ格言が、「温故知新=故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」です。 「温故知新」は、「自分らしい仕事・働き方」を明らかにしていく有効な思考法です。ビジネスで活躍した人達の情報を収集・分析していくと、必ず自分の明日につながるヒントが浮かんできます。自分の未来がよくみえない人は、「温故知新」の視点から「自分らしい仕事・働き方」を探してください。

注)池田光司さんの「仕事・働き方」は、『小さな豆屋の反逆 田舎の菓子製造業が貫いたレジリエンス経営』(著者:池田光司 発行元:幻冬舎メディアコンサルティング)を参考図書にしています。
 

2 池田光司さんの「仕事・働き方」のステップ

池田さんの生き方、特に「どのような仕事に取組み、どのように働いたか?」を説明しています。個々の事例を参考に「自分らしい仕事・働き方」を考えてください。

 《誕生・・・・27歳頃》
父が「バターピーナッツ」の製造を開始
父が病気となり、光司さんは後継者の修行を開始

(1) 父は小樽で丁稚奉公
父親は、池田食品を創業する前は乾物卸「小樽池田屋」に丁稚奉公していました。商才のあった父親は「相場の池田」といわれます。「小樽池田屋」の番頭として台湾バナナの買い付けにかかわり、タケノコ、椎茸、カンピョウなどを扱い卸の分野で会社に貢献します。 

(2) 小樽池田屋は菓子を製造
「小樽池田屋」は、キャラメルや豆菓子などお菓子の製造を始めます。 

(3) 1948年 父は暖簾分けで独立
札幌の自宅で「松屋池田商店」として椎茸などの乾物商を始めます。当時は、小樽の方が札幌より栄えていました。暖簾分けにより小樽で開業すると競合が起きるので、札幌で事業を始めます。小樽時代の商人の応援を受け商売に取り組みます。

(4) 椎茸でなくピーナッツに注目
事業を始めると札幌の経済規模が小さく、小樽のように乾物では商売にならないため、「落花生=ピーナッツ」に目を向けます。なぜ、ピーナッツをえらんだのかは謎です。
 
(5)「バターピーナツ」の製造を開始
バターピーナッツは、油で揚げたピーナッツをバターで味付けしたもので、酒飲みの人には「バタピー」として親しまれたおつまみです。
 
(6) 幼少期に父の作業姿を記憶 
1949年生まれの池田光司さんは、自宅2畳の土間で丁寧にピーナッツの皮むき作業をしていた父の背中を覚えています。光司さんの幼少期の記憶では、ピーナッツをゆでる匂いが2階の寝室に香ってきたそうです。
 
(7)「バターピーナッツ」は大成功
バターピーナッツをリヤカーにのせ、札幌の飲食街「すすきの」で販売します。その日中にすべてを売り切る努力により、創業から10年、1960年頃にはバターピーナッツを日産5t生産するまでに成長します。
 
(8) 光司さんは東京の商社に就職
光司さんは、明治大学を卒業後、スーパーなどの販促支援を行う商社に就職します。1960年代後半からスーパーの店舗数が増加、地元商店街の苦戦がはじまります。スーパーマーケットが一つできるだけで、街を歩く人の流れが変わります。お客さまが商売の原点になるので、商社の仕事を通じ、誰が、どこで、何を買っているのか観察する目を養います。
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(9)父の病気で菓子屋の修行
父の病気により、大阪の豆菓子製造会社に転職、後継者になるため2年半ほど修行を積みます。中小企業は、社長が「4番のエース」を務めざるをえません。社長が取引先を開拓し、会社の進む方向を示し、現場を仕切る必要があります。特に、ものづくりをする会社は,製造に関する技術・知識も不可欠になります。
 

《28歳・・・・34歳頃》
市場の変化=中国産の輸入品が増加、嗜好の多様化
「バターピーナッツ」にかわる「焼カシューナッツ」の開発
 
(10) 1977年から家業に従事、「バターピーナッツ」の売上減少
家業に従事しはじめると、バターピーナッツの売れ行きが減少していきます。売上が減った大きな原因は、安価な中国産原材料が日本に輸入されるようになったからです。国産よりやすい中国産原料を使う製造業者が増え、価格競争が激しくなり売上が減少していきます。
 
(11) 中国産の輸入品が増加
市場構造が大きく変化します。ピーナッツ(=落花生)の産地である中国からの安い原材料輸入だけでなく、加工された低価格の中国産商品が日本に入って来るようになります。バターピーナッツの生産設備を作っている日本の機械メーカーが中国に機械を持ち込み、現地で生産して日本に出荷する事業モデルを作りだしたからです。
 
(12) 市場の変化、消費者の嗜好が多様化
高度経済成長(1955年~1973年)を経て豊かになった日本では、消費者のニーズが変化していきます。食べ物についても消費者の舌がこえてきて、嗜好性が多様化してきます。お菓子企業は新しい味の商品開発を進めます。池田食品のように、特定の主力商品(バターピーナッツ)が売上の大半を占める事業を展開している中小企業は苦境に陥ります。
 
(13)一本足打法からの脱出、新商品開発
バターピーナッツ一本の商売ではいずれ稼げなくなるだろうと危機感を抱きます。主力商品バターピーナッツに頼り切った経営に危うさを感じ、新しい豆菓子の開発に着手します。
 
(14)「焼カシューナッツ」の開発に挑戦
おつまみ市場では、少しずつピーナッツ以外のナッツ類が注目され始めていました。そこで、カシューナッツの商品化に着手しますが、形が半月状のため味付けに苦戦します。カシューナッツ味付けのためにコーティングすると、釜の中でうまく転がらずにナッツ同士がくっついてしまいます。この状態は「アベック」と呼ばれましたが、工場長と副工場の3人で失敗を繰り返しつつ試行錯誤をしながら製品開発を進めます。

(15) 1981年「焼カシューナッツ」の完成
イメージ通りのカシューナッツ菓子「焼カシュー」の商品化に成功します。独自のコーティング技術による新商品は、豆業界に味付けカシューナッツという新ジャンルを誕生させました。

(16)「焼カシュー」は高価格で売上低調
「焼カシュー」の味を評価し、独創性や新しさを面白がってくれるお客さんもいました。しかし、価格がバターピーナッツの2倍で1キロ1000円位になり、なかなか注文が増えません。売上面ではバターピーナッツの足元にも及ばず、やはり「すすきの飲食店」では安いおつまみが人気でした。

(17) 本州メーカーの北海道進出
「焼カシュー」の開発に取り組んでいたころ、本州の企業が北海道への進出を始めます。それまで、本州と北海道は物理的に離れているため、本州企業が北海道に進出してくることはほとんどありませんでした。ところが、物流体制の整備で状況が変わってきます。本州の企業は、北海道に進出しても納入先が少ないと輸送コストが割高になるので、当然のごとく納入先の拡大に取り組みます。

(18) 32歳 青年会議所に入会
2代目として、経営方法や戦略策定の知識を学ぶため青年会議所に入会します。父の病気のこともあり、早急に会社の未来像を明確にする作業に取り組む必要がありました。経営者として独り立ちするための時間的余裕はなく、のんびり構えておれない状況でした。

(19)「橋本製菓」から事業継承の打診
北海道で人気の商品「タマゴボーロ」を製造する橋本製菓が廃業することになり、事業継承の話がきます。病気の父から、事業を引き継ぐかどうかの判断に関しすべてを任せられます。

(20) 経営者として事業継承と決定
事業継承を決定します。豆菓子工場の隣接地を購入して、「タマゴボーロ」工場を建設します。経営者として経験の乏しかった光司さんにとっては、「タマゴボーロ」の事業継承は、大きな決断であり、大きな出来事でした。

《35歳・・・・40歳頃》
 1984年 2代目社長に就任
新商品開発や新店舗出店を推進するが失敗
 
(21)
父の死亡で2代目社長に就任
鋭い感覚と行動力に溢れた父が70歳で死亡、1984年2代目社長に就任します。父の死亡による喪失感より、2代目として会社を引っ張っていく使命・重圧を意識します。中小企業の経営者は意思決定をすべて行わなければならず、強いストレスを感じます。
 
(22) 新社長として新商品開発を開始
「バターピーナッツ、焼カシュー、タマゴボーロ」の3商品では成長が期待できず、第4、第5の商品が欲しく新商品開発に取り組みます。
 
(23) チョコレート菓子の開発に失敗
チョコレート菓子はお菓子の王様になります。父が生きていたころにも、「いつかチョコ菓子をつくりたい」と話をしていました。バターピーナッツの注文が減り工場に余裕があったのでチョコレート菓子の開発に着手します。試作品を作って行くと、ある程度の商品になりました。しかし、実際の商売になると、製品の保管や配送に温度管理が必要でした。温度帯の異なる商品の取り扱いは社員の大きな負担になります。また、多くの菓子メーカーが憧れるチョコ菓子の世界は、競合の多くいる激戦市場でした。勝算の可能性が低いと判断、チョコレート菓子の開発を中止します。
 
(24) 甘納豆の開発に失敗
チョコレート菓子と並行して甘納豆の開発に取り組みます。甘納豆は、豆菓子の製造ノウハウがいかすことができました。試作品もすぐに完成、味も食感も上々でした。しかし、一つ大きな問題がありました。甘納豆は日持ちせず、作りおきができない商品でした。注文を受けるごとに少量を作るようになり、非常に効率が悪くなるので開発を中止します。
 
(25) 自社ショップ出店の失敗
1988年、札幌駅の近くに自社のお店を出店します。自社ショップをもつことはお菓子メーカーのあこがれです。自社ショップをもてば、お客様との距離がちじまり、ニーズを満たす商品が開発しやすくなります。自社ショップを出店はしましたが、お客さんを呼ぶだけの商品がそろっておらず、会社の知名度もないので失敗に終わります。

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