ジェンダーとセクシュアリティについてアイドル世界に横たわる規範ー白鳥白鳥活動終了に寄せて

※2020年7月4日、一部改稿。

二丁目の魁カミングアウトから白鳥白鳥氏の活動終了が発表された。
「白鳥白鳥」グループでの活動終了に関するお知らせ

昨年12月、「アイドルを続けるという困難ーきまるモッコリ脱退に寄せて」と題して記事を書いた。
半年の間に、誤解を恐れずにいえば、二丁目の魁カミングアウトのメンバーについての「お知らせ」を受け取ることになってしまったのは改めてアイドル活動、音楽活動、何よりグループでの活動を続けることの難しさを実感するところでもある。

しかし、今回の発表はアイドルとしての活動、それを取り巻く文化、またその活動を享受する上で大前提になっているジェンダー規範について受け手に示唆を与えるものになったと思う。
二丁目の魁カミングアウトはもともと「ゲイアイドル」というセクシャルオリエンテーション(性的指向)を土台に据えるコンセプトで観客に様々なアイドル世界への「疑問」を投げかけてきた。それはCDの大量購入を否定することや、音楽活動を重視することを明言してきた姿勢にもあるが、何よりもアイドル文化/産業の大前提にある「異性愛規範」について考える隙を与えてくれていたように思う。

筆者は偶然にも、まさしく現在、”Gender Trouble in Japanese Popular Music Culture? The Case of 'Female Idol' from 'Gay Town’”(「日本のポピュラー音楽文化におけるジェンダートラブル?二丁目の「女性アイドル」を事例に」)という発表の予稿(第7回Inter Asia Popular Music Studies大会で発表予定)を執筆していた。

この中からジェンダーと異性愛規範に関する部分を以下に抜き出し、この発表以前に、書き終えたのは6月28日であった、自分が何を考えていたのかを整理しておこうと思う。(いくつか言葉を補った上で日本語で公開する)

アイドル業界は無意識のうちに異性愛に基づいており、これに疑問を持つことが彼らの第三の抵抗行為であると考える。
これまで二丁目の魁カミングアウトのメンバーのジェンダーアイデンティティは、具体的には明らかにされていない。ぺいにゃむにゃむはあるインタビューで彼の髪型についての質問に対し、「女性になりたいということではない」と答えている。元メンバーであるきまるモッコリも 「男性だからアイドルになる夢をあきらめた」 と言っている。二丁目の魁カミングアウトは、いわゆる男性アイドル、メンズアイドルではなく、女性アイドルの分野で活動しているが、それは彼らの性別を決定づけるわけではない。しかし、彼らは「男性」として女性アイドルの世界に参入しているとは言えるだろう。そして皮肉なことに、この挑戦を可能にしたのはアイドル業界で前提とされる異性愛規範である。
彼らは「女性」らしくも「男性」らしくもあり、またそのどちらでもない。衣装も露出は少なく体の線をカバーしている。アイドルの「主流」においては、「女性らしさ」や「男らしさ」を特徴とすることが多いが、彼らはそれを強調していないと言える。
アイドルはしばしばファンに対して擬似恋人のようなイメージ付けが行われる。例えばAKB48の「恋愛禁止」は、本来ルールではないが、ルールとして広く知られているであろう。アイドルファンではない人を含めて広く、アイドルに恋愛は御法度である、という認識を生み出している。この「ルール」が異性愛規範に基づいていることは言うまでもない(ちなみに二丁目の魁カミングアウトはこのルールを採用していない)。二丁目の魁カミングアウトのメンバーはゲイである、このことは共演する女性アイドルのファンやスタッフにとって、彼らが親しくなってもデートの心配をしたり嫉妬したりする必要はなくなることを意味した。これはプロデューサーであるミキティー本物の戦略と思われる(バイセクシャル男性がメンバーオーディションに応募することを厳しく禁じている)。
ここでいくつか疑問が浮かび上がる。なぜアイドルに「彼氏」がいてはいけないのか。「彼女」であればいいのか。そもそもすべての女性アイドルは 「女性」なのか。目の前にいるそのアイドルの性別は何に依拠するのか。アイドル世界でジェンダーやセクシュアリティは問題にはならないかもしれないが、それは無視されているに等しいのではないだろうか。二丁目の魁カミングアウトは、必然的に異性愛とジェンダーアイデンティティへの疑問を生む。意図していたかどうかは別として、「ゲイアイドル」という新しいアイドル分野を作ろうとする彼らの試みは、アイドル業界の背後にある性別や異性愛の規範に疑問を投げかける。

Mana Kamioka(2020) ”Gender Trouble in Japanese Popular Music Culture? The Case of 'Female Idol' from 'Gay Town’”

ここで検討したのは、「性別」に対する無頓着さとでも言えるだろうか。「性別」と「性的指向」の間に関係がないわけではもちろんないが、「性的指向」が「性別」を決定づけると考えるような、つまりここでは性的マイノリティであれば「性別」は曖昧、または異性愛規範における「男性」や「女性」に当てはまらないという、配慮にかける帰結なのではないかと考える。

つまり、もう少し補足すると、ここでジェンダーやセクシュアリティーが無視されているというのは、アイドルとは全員異性愛シスジェンダーで、ファンも<大部分>はシスヘテロ、という前提が築かれていることを意味する。この前提からアイドルを好きになることは疑似恋愛と見做され、アイドルの恋愛が「禁止」される。
しかし、ここに同性のファンの存在が認められるとこの前提は崩れてしまう。「同性ファン」の存在は目に見えて明らかなので、ここに何らかの理由付けをされた結果、「同性のファンは同性愛者かもしれない」という答えが唐突に導き出される(上でファンの<大部分>と書いたのはその為である)。ここには憧憬や友情、母性/父性など他にも様々な理由付けがなされるが、それはあくまで「同性ファン」の存在を説明するための表面的な言葉に過ぎない。
そしてその「同性ファン」の数が増加することで「アイドルの域を出た」というような「評価」がなされていくのではないだろうか。

アイドル世界に限らず、SOGIへの関心のなさ、または無意識の決めつけがこうした構造を見えにくくしていく。

今回、志保さんは「白鳥白鳥」というゲイ男性としてのアイドル像を継続することが難しくなったということを語っていて、そこにはアイドルとしてアイドルを演じることの難しさも仄めかされている(「演じる」に対してネガティブなイメージを抱かれることもあるが、少なからず芸能活動には常に上演要素が伴う。これについては香月孝史『乃木坂46のドラマトゥルギー 演じる身体/フィクション/静かな成熟』(2020)に詳しい)。

「演じ」てはいても、背後には上演者の存在があり、そこには彼らのジェンダーアイデンティティも影響する。アイドルというエンターテイメントにおいて上演者の存在は常に透けて見えていて、その二重三重にも重なるレイヤーが魅力にもなっているのである。
それは魅力であると同時に「アイドルを続けるという困難ーきまるモッコリ脱退に寄せて」で触れたアイドルの消耗にもつながっていく。アイドルの身体は有限であるが、表面のアイドル像が先行していくことでその有限性、身体が見えにくくされていく。そこに生じる解離は上演者の身体を蝕むことになりうるのである。
さらに「男性」アイドルを演じるという上で受けるまなざしの負担は、ここで述べたアイドルの身体の消耗と繋がるとはいえ別の問題でもある。

アイドルが誰であるのか、ということはとても重要だ。それに無頓着であってはならないと筆者自身は感じている。
個人的なことを言えば、自分は性愛の対象となる人の性別や性的指向にはこだわりがない、と自覚している。しかし、それは、今回の文脈、背景に引き付けてかなり二元論的な物言いになってしまうが、志保さんがゲイであろうとなかろうと、女性であろうと男性であろうと好きですよ、ということではないと思っている。事実、志保さんにとって女性であることはアイデンティティである。それを「気にしない」として「好きですよ」と伝えることは私にとっては違和感がある。
アイドルが演じる表面にだけ目を向けて楽しむこともできるだろう。そこに紡ぎ出される作品やパフォーマンスと演者を過剰に結びつける必要は絶対ではない。しかし、一つの楽しみとしてアイドルのパーソナリティに目を向けることはスタンダードになっているし、演じる側の目線に立てばどのように受容されるのかということはコントロールの範囲にない。観客の無頓着なまなざしは、アイドルの身体そのものを消耗していく。そこに期待されるものと自分との距離が生まれるような状況があれば、納得してパフォーマンスを提供することも難しくなるだろうと志保さんの事例に思いを馳せた。

しかし、こうした演者自身の救いとしてもアイドルパフォーマンスは機能することがあるかもしれないと考える。
志保さんは「ゲイアイドル」に希望を見出したとも語っている。そして、活動の中で気づいたその違和感や、結論は演者のパーソナリティを享受するアイドルという形態だったからこそとも言えるのではないだろうか。

「白鳥白鳥」は美しく、たおやかで優しいアイドルだ。
それは力強い歌声、細部にこだわるパフォーマンス、計算されながらも時にぐちゃぐちゃに崩れる表情、それを作り出し、演じる人があってこそのものであったと思う。そこに透けている「中の人」を含めて大変魅力だ。それは今日も変わらない。
形は変わるが今後もクリエイターとして志保さんの作り出す作品は、私たちに届いていく。それも「白鳥白鳥」と同様に魅力的であろうと思う。

白鳥白鳥さん、今日も大好きです。

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