新約聖書の読み方‥人はパンだけで生きるのではない

引き続き、読み方としては出来るだけ田川建三の「訳と註」を読んで考えて、友人と分かち合い、機会があれば聖書を読む集まりに出て、また考えるというようにしている。

で‥荒野での試練: イエズスは荒野で四十日四十夜、断食した、(そして「サタン=(悪魔?)」から石ころをパンに変えてみろとか、自分を拝めば見渡す限りの地方を与えてやろうとか言われた)話。
マルコ1章12-13節、(マタイ4章1-11節、ルカ4章1-13節)。

合気道の兄弟子から最近、宮本武蔵を読めと言われていたせいか、荒野で試練?、天よ我に艱難辛苦を与えたまえ⁇、イエズスも宮本武蔵みたいな英雄の一人だとでも言いたいのかと連想してしまった。

ここで田川建三にも出てくる、聖書の会でも言及された、申命記8章3節。
‥人はパンだけで生きるのではない。
出エジプト記に出てくる、奴隷がモーセに率いられて脱走し、食べ物もなく荒野を彷徨ったときに、神が一同に天からのパンを与えたというお話‥ただのパンではなく、人は神からの食べ物によって養われるのだ、と。

前の記事にも書いたけど、田川建三によると、マタイには旧約聖書の引用がやたら多くて、旧約聖書によって預言された事がイエズスにおいて実現した、だからイエズスは神のひとり子にして最終的な預言者としてこの世に来たという、イエズスの正統性を強調しているという。
この荒野での試練も、旧約聖書のあちこちが引用されているという。

うーん、人はパンのみにて‥のユダヤ人に与えられた預言者としての独自性よりも、イエズス≒宮本武蔵⁉︎みたいなベタな英雄譚という臭いがプンプンするぞ。

金持ちになりたいか?、社会を支配したいか?、強運をよびよせたいか?、それとも⁇、宮本武蔵は何を願って修行したのか⁇
別にそういう修行をイエズスはしなくていい気がするな。
マルコには書いてないし。
マタイとルカは、イエズスの正統性を言おうとして、スベった感じ。

どちらかというと田川建三がルカの「訳と註」で書いているように、イエズスが平静な状態でなく、霊的な?精神状態で荒野に連れていかれるという試練に遭ったというのがしっくりくる。
霊的な闇‥十字架の聖ヨハネだの、マザーテレサだの、血盟団事件の井上日召だのみたいに一時期そういうことがあるのかも?
あるいは沖縄のユタって、ユタになる前に急性精神病状態になるのだという。
シャーマンって、皆そうなのかな。
イエズスも一種のシャーマンだと理解するのも、ありかも知れない。病を癒して歩いたのだし。

あーシャーマン的なイエズスって、ちょっと私の好みではないが、そういう人だったのかなぁ‥。



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