新約聖書の読み方

私は教会に通うのは勘弁さんと思っているけど、聖書は時々読む。
そして子どもの時に教会に通っていたときとは、聖書の読み方が変わった。

日曜日に両親に連れられてミサに行き、神父の説教を聞く。
内容は身近な話題や今の世界のことを、その日の聖書朗読の箇所に引きつけて話すというものだった。
それ以外で聖書を読むことは殆どなかったので、あまり何も考えずに聞いていた。

教会に行かなくなったのと、本屋で聖書についての本を探すようになったのは同時期かも知れない。
どうして教会には行かなくなったのに聖書を読むのを止めなかったかって、何かしら人生の指針が欲しかったのかも。
どんな宗教でもよかったかも知れないけど、キリスト教徒の両親のもとで育って文化的な基礎はそこにあるんじゃないかなぁと思うから、他に手を出さなかったのかも。
そして見つけた本は、教会で教えられた(と少なくとも自分は思っていた)聖書の読み方とは違っていて、そっちの方が自分には納得がいった。

例えば、こういう本だ。
田川建三: 書物としての新約聖書
加藤隆: 新約聖書はなぜギリシャ語で書かれたか
バート・アーマン: 捏造された聖書

どこが教会での教えと違っていたか?
教会(の教えの私なりの理解) → 新約聖書の全体が、そのまま受け入れるべき有難い教えである。
上記の本(の私なりの理解) → 新約聖書の各部分を書いたそれぞれの人が、自分(たち)の人間的な思いによっていろんな事を書いてて、更に後世の私たちに伝わるまでに、部分的に散逸したり、編集が施されたり、写し間違えたり書き替えたりしているので、新約聖書から何を読みとるべきかには注意を要する。

教会 → 四つの福音書は、書かれた視点が異なるだけで相互に矛盾はない。
上記の本 → 特に田川建三の本を読むと、マルコと、マタイ、ルカの間にはイエズスをどんな存在だと捉えるか、イエズスの言動の意味というか意義をどう捉えるかに大きな違いがあり、もちろん相矛盾している。

これだけ違うと、どれかが正しくて、それと合わない内容は間違い=事実ではないと思う。
私の目的は人生の指針にすることであるから、事実と違うのでは困る。
事実と違っても真理だということもあり得るかもだけど、どうだろう?
事実と違って、ついうっかりでなく何らかの作為があったとしたら‥上記の本にはそう書かれている‥それが真理を示すとは、私には思えない。

今のところ、私の新約聖書を読むための拠り所は田川建三だけど、私は聖書の研究者でもないし、田川建三の書いていることが正しいか、間違っているか、自分が判断できる確信はない。
それでも田川建三の、新約聖書の訳と註を参照しながら、少しずつ読んでいっている。

付き合ってくれる仲間がなかなか見つからないので、時には教会関係の聖書の会にお邪魔する。
講釈を一方的に聞く会だと、子どもの頃に聞かされた教会の教えである確率ほぼ100%なので、そんな会でなく各自の思いを自由に話せる場を選んでんいるのだけど、それでも私が話すと顰蹙をかうことが圧倒的に多い‥気がする。

こういうやり方が最善なのかは分からないけど、自分なりに新約聖書を人生に役立てていっている気もしている。
しかし、繰り返すと、同じ方向性で読む仲間がなかなかいないのが、いかにも辛い。

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