内気でよかったと思える一つのこと
どの世界でも内気であることが評価される例というのはあまり多くない。
大人になればなるほどその傾向は強まり、企業はコミュニケーション能力が高い人材を評価し、そして採用していく。
その人材の他の能力が高くなかったとしても、コミュニケーション能力によって、コミュニケーション能力の低いが仕事ができる人材よりも評価されるというのはよくある話だ。
幼い頃から、内気な人というのは損をするという実感を誰もが学んでくる。
そしてそれが内気なことはダメなことだという考えにまで発展し、人とのコミュニケーションが苦手な人は大きく悩むことになる。
僕も根っからの内気な人間だ。もしかしたら生まれた時点で遺伝子にそう組み込まれていたのではないかと思うほどだ。
いつから自分はこんなに内気なのだろうかと考え、父に尋ねた事がある。
「あのさ、俺っていつから人と関わる事が苦手だったの?」
父は昔の記憶を探ろうとしているのか、顔を上に向けて10秒ほど考え答えた。
「少なくとも幼稚園の年少の頃にはこいつは人と関わるのが苦手なんだなぁと思ったよ」
幼稚園の年少の頃か…….当時の記憶が全く残っていないなと思い、そしてどうして父がそう思ったのか気になり、そう考えるに至った経緯についてさらに聞いてみた。
「幼稚園は休み時間になると皆んな友達と外に出て一緒にボールで遊んだり、鬼ごっこしたりするだろ?けどお前の場合は、休み時間の間ずっと一人教室で蛇口のところに行っては手を洗い、そして洗い終わって席に戻ったかと思うとまたすぐ蛇口のところに手を洗いに行ったり、そういう一人で必死に空き時間を潰している姿を見てそう思ったんだよ」と言われた。
こんな悲しい答えは他にあるだろうか。確かにそう言われると幼稚園でも小学校でも休み時間の度に教室をうろちょろしたりして時間を潰していた気がする。
教室で一人じっと座って待つことはできなかった。学生時代に内気な経験をした人は理解してくれると思うが、友達がいないくせに周囲のクラスメイトに友達が居なくて暇そうにしていると思われるのがすごく恥ずかしいことだと思ってしまうのだ。
だから、じっと席に座っているのではなく、あれこれとうろちょろして
「自分は全く友達が居ない時間に困っていない」と必死のアピールをする。誰も気にしてやいないのに。
僕はそんな具合だから、人と関わることに関しては苦労もしてきたし、傷ついたことも多くある。
けど、内気であることを憎んだりはしない。内気な人は人の表情や声のトーンから感情を読み取る能力が高い。
だからこそ人が不機嫌になると即座に感じ取り、それに傷つく。話すときも、相手を不機嫌にさせないようにと表情や声の調子などを伺いながらの自信がない状態で喋り、コミュニケーションに苦手意識を持ってしまう。
そういう風に苦労してきた側面も多いけれど、結果的には内気でよかったと感じている。
感情が読み取る能力が高いからこそ、人が困っているときに気づくことができるのだから。
人が困っているような表情をしていたり、困ったような状況に置かれていると感じたら助けるようにしている。
それは自分の時間だったりを使ったりするため、無駄だと思うような人もいるかもしれないけれど、人が喜んでくれるというのは何ものにも代え難いものだ。