見出し画像

シャーマニズムIII : 共感と理想、そして過去

V.W.Pも春猿火もよく知らない友達が好きな曲として挙げた中に『残火』や『フリーフォール』の名前を見つけたことがある。自分はただそれにいいねと頷くだけだったが、内心はとても嬉しかった。

自分はもはや春猿火やV.W.Pの曲を文脈や思い入れなしに聴くことはできない。だが何も知らない友達が不意にYoutubeで彼女たちの楽曲を耳にして素朴に好きだと感じてくれたとき、自分は彼女たちの歌がただそれ単体で純粋に人の心を掴む魅力を持っていることを再確認できる。


『シャーマニズムIII』が終わった。2年前のシャーマニズムでは観客席からでもひどく緊張していることがわかったあの春猿火が、回を重ねるごとに揺るがない自信と自分自身の表現を身につけ、今回のライブでは会場中を自在に操るように盛り上げながら大勢の前で歌えることを純粋に楽しんでいる。声出し可能な有観客ライブというこの舞台で、その成長はより明確に現れていた。

シャーマニズム・シリーズはオリジンが『春猿火』に心臓を分け与えることで鼓動が始まり、二人が一つに重なり合うことで完結した。バーチャルシンガーとしての春猿火が歩んできたこれまでの旅路は自分がもっとも好きな物語の一つだ。

自分は春猿火のどんな部分が好きなのか、自分から見た春猿火はどんな存在なのか。それを説明するには三つの観点が必要になる。「共感」「シャーマニズム」、そして「過去」だ。

共感と理想のシャーマニズム

春猿火の第一義は「他人の悩みや苦しみに共感して寄り添い背中を押す」ことにある。
『Lift Up』『告げ口』『逆転』などに代表されるこのテーマは初期から貫かれているもので「春猿火らしさ」と言われたときにはこの一面がよく想起される。

だがこのテーマを歌おうとするとき、自信を持つことができなかったかつての彼女には薄暗い自問が浮かんでいたのかもしれない。
「心配しなくていい、大丈夫だよと嘯くお前自身は強いのか?」
シャーマニズムは、思い描かれた強い『春猿火』という存在は、このとき必要性を持つ。強く自信溢れる春猿火を憑依させて歌うことで、自身の弱さを補いながら他人の背中を心から押すことができる。

だがここで憑依される『春猿火』という人格は他者からエンチャントされる側面もありながらも、決してオリジンと無関係な人物像ではない。それは彼女自身の理想や願望の一部で、ある意味ではなりたい自分だった。

そして『春猿火』は理想でありながらも、実はオリジンの中で眠り続けていた彼女の一部でもある。

もし彼女が本当にただの気弱で自信がなく、一歩を踏み出す勇気を持てない人間であったなら、歌うための舞台に挑戦することも出来なかっただろう。結果が出ないことに絶望して簡単に踵を返してしまっただろう。不安や緊張を跳ね退けて歌い続け、新しい分野で努力することも出来なかっただろう。

最初の一歩を踏み出す勇気も、期待に応えようと努力する強さも、彼女は最初から持っていた。強い『春猿火』はその姿形を得るずっと前から彼女の中にいる。シャーマニズムは彼女が自分自身を知ろうとする過程でもあった。

過去への視線

春猿火は過去への視線を強く持っている。

この「時間への視線」というのは自分が思うイメージの話に過ぎないのだが、例えば思春期の花譜なら自分と周囲が疾風怒涛に変化していく中で戸惑い悩むような「現在への視線」、ヰ世界情緒ならいつか実現させることを夢見る数えきれない構想のような「未来への視線」。つまりは、その人間がどの時制に注目しがちなのか、という話だ。

そうした傾向でいえば春猿火は最初の『シャーマニズム』から現在に至るまで過去への視線を持ち続けているように見える。

この印象はライブのMCや楽曲のテーマからだろう。自分になることができなかった存在を振り返る『テラ』に始まり、今まで紡がれて来た楽曲をひとつひとつ丁寧に拾い上げる『中間地点』、活動の軌跡とそこから得たものを振り返る『居場所』や『身空歌』、シャーマニズムの集大成である『巫女』。他のアーティストも過去を振り返ることはあるにせよ、春猿火はその比重が高い。

過去への視線という表現を後ろ向きでネガティブだと思うだろうか。
これは単なる志向性であってそれ自体は良くも悪くもないし、自分は過去を愛おしむ春猿火の側面が好きだ。

言い換えれば過去とは積み重ねだ。懸命な日々を積み重ねたものが努力であり、慈しみを積み重ねたものが友情や信頼である。その志向性は努力家や仲間思いといった春猿火の素晴らしい長所と繋がっている。今の春猿火を支える自信や原動力となったのも、ファンたちが彼女に贈り続けた感謝と声援の積み重ねだ。

シャーマニズムの結末

シャーマニズムは『春猿火』とオリジンの間にあった乖離を解消して一人の存在に収束することで結末を迎えた。

乖離の解消とは具体的にどのようなものか?
一つの例はオリジンの成長とそれに伴う自信の獲得だ。冒頭で言及したように、春猿火が「強くありたい」と考えて強い『春猿火』を憑依させたのがシャーマニズムの始まりだった。

春猿火は常に「本当の自分は強くて格好良い『春猿火』とは違う」と内心を吐露する。だが次第にその活動の中で成長し、彼女の歌で救われたファンの声援を受けてほんの少しずつ自信を付けていく。そして成長して強くなるだけでなく、弱い部分がある自分のままで良いと肯定できるようになった。

これはオリジンが『春猿火』に近づく方向だが、逆に『春猿火』がオリジンに近づく方向でもさまざまなことが起きていた。

わかりやすい一つの例が活動の途中で行われた春猿火のモデルチェンジであり、これによってオリジンが持つ少女性とでも言うべき部分が『春猿火』側に取り込まれた。

初期の春猿火について、歌っている時と話している時とでギャップを感じたファンは多いだろう。モデルチェンジはこのギャップについて従来の格好良さ・ユニセックス性を重視するスタイルを、ハイツインテールの髪型に象徴されるような可愛らしさ・少女性へと調整しなおした。これによって『春猿火』らしさは維持しながらもオリジン自身が生来持つ性格へと近づけることでギャップを弱めた。

よくファンや運営によって「真に重要なのは、本質であるのはオリジンの人格と歌声なんだ」とは言われるものの、実際のところ受け手はその見た目やプロデュース、歌われる楽曲によって強い影響を受ける。

当たり前だがクリエイターやプロデューサー、コンポーザーの仕事は本質に影響を与えないような、どうとでも取り替えできる規格品のパーツなどではない。それらの影響を抜きにして春猿火を観測することはできず、周辺で支える人々の創作性と想いは、心臓ではないにせよ『春猿火』を確かに構成する重要な部分だ。

もっとも、それこそがアバターとオリジンが乖離する原因の一つであり、「本当に評価されているのはいったい誰か?」といった厳しい自問が生まれてしまう理由なのだが。

『不可解』との対比

さて余談を挟むと自分が興味深く感じていることが一つある。それはある意味で『シャーマニズム』と花譜の『不可解』が、同じ命題に正反対の答えを出していることだ。

二つのシリーズの結末は言ってみれば「創作・観測されたバーチャルシンガーとしての像がオリジンと乖離する問題」に対するそれぞれの回答である。

『不可解』では多数による創作の集合『花譜』の内側でオリジンがアーティストとしてのエゴ(自我)と創作性を成長させた結果として乖離が広がった。そして今まで多数の手で培われてきた『花譜』はそのまま維持しながら、自身のエゴと創作性を発揮するために『廻花』が新たに産み出された。

一方で『シャーマニズム』はこれまで書いてきたようにオリジンと乖離する『春猿火』像に対してお互いに近づけていくことで乖離をなくした。同じような問題に対してそれぞれ正反対のアプローチ、「分離」と「統合」が選択されているわけだ。

もちろん厳密にはそれぞれの背景も意識も異なるのだが、この対照的な結末はとても興味深い。結局のところ、魔女たちが進む道は画一なものでも、筋書きのあるものでもないのだ。それぞれが活動の中でどう考えて、どう感じて、どう望むかによって進む方向が選ばれていく。バーチャルのアバターとはどんな存在なのか、どう向き合うべきなのか、それはたとえV.W.Pの中ですらそれぞれに答えが異なる。

もはや黎明ではない

「春猿火は過去への視線を持つ」という話の、いわば裏面に言及したい。
彼女にはどこか未来への思い、あるいはエゴのようなものが少し欠けているようにも感じられる。シャーマニズムのMCを聞くとき、いつも彼女がやりたいことについて話すのを無意識に待っていた。春猿火は誰かの期待に応えようと懸命になれるのだろうが、その一方で彼女自身の欲求はあまり見えてこない。

他人のためではなく自分のためにやりたいことは何か。自分はこの生真面目な努力家がどこかでエゴや野心をもっと見せてくれることを今でも期待してしまう。だが、おそらく彼女はそうしたことを少し苦手としているのだろう。

『Interlude #2 -eventide-』で呟かれる「真っ白いキャンバスに何を描こう そう言われて消えたモチベーション」という言葉は一見すると奇妙に思える。自由に描くことができるキャンバスを前にしてなぜ意気消沈してしまうのだろうか。自分はこの一節こそ春猿火らしさを描写している歌詞だと思う。

自由に、やりたいように。こうした言葉は耳障りの良さとは裏腹に恐ろしさを持っている。自由とは道標のない荒野に放り出されることでもあるのだから。「お前が本当にやりたいことはなんだ?」は常に厳しい問いだ。

シャーマニズムは完結した。だが『シャーマニズムIII』は終着駅であるとともに、始発駅でもある。春猿火はまた白いキャンバスの前に立っている。かつて指針としていたものはもう通り過ぎてしまった。自問はこれからも終わらない。

しかし、明確な未来への展望がまだ手の中になかったとしても、これから先どんな道を進むのかわからないとしても。確かなこととして春猿火の歌に救われる大勢のファンがいて、それに対して彼女は懸命に応え続けていく。そして、ひたむきな春猿火の積み重ねこそが、いつか彼女を想像もできなかった地点へと運んでいく。そう信じるのは運営の人間だけではないはずだ。