ヰ世界情緒4周年:ファンでなし
届いてからそのまま棚の上に並べていたアルバム『運命』を取り出して、カバーアートのヰ世界情緒を眺めてからそっと蓋を開ける。
アクリルキーホルダー、トークイベントの抽選券と順番に取り出していくと目当てのものが顔を出した。アーティストによる寄稿文だ。それを丁寧に広げて最初から最後まで、5人のコメントを読み終えるとまた丁寧に折りたたんで全て元通りに箱の中に戻す。
グッズは取り出さない。抽選券の要項を読まない。本体であるCDに至っては再生する装置が部屋に存在しない。おそらくこのアルバムがまた開けられるのは相当に先のことだろう。
自分はそういうファンだ。現代の主流からはややズレている。
現代の主流とは何か? 主要コンテンツである楽曲が無料化した現代では活動の原資を支えるのはグッズであり、体験であり、認知であり、関係性であり、アーティストの内面だ。これらを手放しに楽しむことができる主流こそが作り手により祝福されたファンだ。
しかし、自分はそれらの半分以上に興味がない。楽曲は聴く。ライブも見る。ライブのBDも買う。パンフレットも読む。ラジオや配信も、たまには聴く。だがグッズのほとんどは欲しくならないし認知や関係性からは身をひいてしまう。歌から離れるに従って興味がなくなっていく。
なんというか、自分は『ヰ世界情緒』のファンであり、ヰ世界情緒のファンでないのだ。
愛されるのは作品か作り手か
人にはそれぞれ好きな作品があり、好きな作家があり、好きな人間がいる。そしてこれらはあまり区別されないことも多い。昔読んだ本にこんなエピソードが載っていた。
「私はこの画家の絵が苦手だった。彼が好んだふくよかな女性のモチーフが気に入らなかったからだ。しかし、彼の人生について学ぶ機会があり彼が素晴らしい人格者で人々から愛されていた人間であることを知ってからは彼の絵がすっかり好きになってしまった」
おそらく、これを多くの人は素敵なお話だと思うだろう。そうした感覚は人間として当然のことで、きっと自分も程度の差はあれ無意識のうちに絵の評価を上げてしまうに違いない。
一方で自分の頭の片隅にいる偏屈な幽霊は、苛立たしげな早口でこんなことを言ってくる。
「もし絵の評価が作家の人間性で180度変わるのなら、何も画家は頭をひねり汗を流して作品を描く必要はない。最初から彼がどんなに素晴らしい人間なのか並べ立てて人間力バトルでも好感度コンテストでもしてればいい。作品の内容が食玩についてるラムネの味くらいトリビアルなことならな。彼が畑違いの小説を書いたりバイオリンを演奏してもきっとファンは…」
現実として特定の分野においては作り手への好感度と作品を切り離すことは難しく、作り手への印象が作品に影響を与える心理はどうにもならない。だからこそ真面目に活動する作り手は丁寧な自己開示を提供し、ファンとパラソーシャル関係を構築し、自分の活動をみんなに応援してもらう。近代において作家のイメージ、物語、親近感、共感、コミュニティはキャンバスの外側に描かれるもう一つの作品群である。
そうした仕組みを当然のことだと頷きながらも、自分はどこか心の奥底で微妙に納得できていない。なるべく作品だけを見ようとする。作品のコンテキストや意図は理解しようとしても作り手自身に好感や親近感を持つことを無意識に避ける。物語や文脈はまぁ作品の一部分だ、だが親近感はどうだ。自分はそれらを避けることが好ましいとどこかで信じ込んでいる。客観的に考えれば作り手への親近感やパラソーシャルな愛着、ある種のアイドル的なサービスが作品自体の価値を損ねるわけではないとわかっているのにだ。
自分にとってはそれはヰ世界情緒も例外ではない。
他の作り手ならこんな努力はそもそも不要だが、親近感や共感を持たないようブレーキをかけている。だがどうにもブレーキの効きは悪いらしい。この制動距離がどこまで伸びてしまうのかは自分もわからない。誰か自分をマストへ縛り付けてくれ、オデュッセウスみたいに。
祝福されたファンと引っかき傷
冒頭にもあるように、自分は「祝福されたファン」という表現をたまに使う。作り手が想定する主流であり、供給される製品の大部分を楽しめて、「推す」と呼ばれる行為のできるファンたちのことだ。率直に自分の好きをファンレターやコメントで直接的に伝え、仲間たちと好きを共有し、面と向かって「一生推し続けます!」と言い切る彼・彼女らの姿は自分には少し眩しすぎる。
ただ、しばらく彼・彼女ら一人ひとりを眺めていて気がついたこともある。自分ははじめ祝福されたファンは自分と違って「推す」ということに葛藤や不安など何もないのだろうと思っていた。きっと彼らにとっては常識で、当たり前にできることなのだと。
しかし、実のところ、そうとばかりも言えないらしい。
「自分なんかに推しと対話する資格なんてあるんだろうか」
「こんな拙くて支離滅裂で恥ずかしいファンレター、本当に出していいのかな」
「自分はファンアートを描くこともできないし、上手く言葉にもできなくて、推しに何も返せてなくて」
「前に進み続けて活躍していく推しに比べて、自分はずっと何も出来ていなくてただ停滞していて」
自分が祝福されたファンと気軽に呼んでいる人たちの中にも当然ながら悩みがあり、葛藤があり、不安がある。それでも行動や言葉に表せるのはただそれを振り切る勇気と熱量があるからだ。少しでも何かを成したいと願うからだ。
アーティストとの関係性に限らないが、何かに入れ込めばいずれ「楽しい」だけではなくなる。感動と同時に引っかき傷も出来ていく。それは祝福されたファンですら例外ではない。
自分はその引っかき傷もそれはそれで良いものだと思う。楽しいだけというのは、つまらないものだ。矛盾しているだろうか? ちょうどヰ世界情緒が「ダーク」という、一般的にはネガティブとされるものの中に安らぎや鎮痛剤を見出した話と少し似ているかもしれない。しばらく治らない引っかき傷をつけていってくれ。
ピークはどこに
前の周年noteでは「どんなものもいずれ終わる」ことに言及した。今回はその前にある段階について言及しよう。すなわち「どんなものにもピークが存在する」という話だ。いや、いつも素直に祝うべき節目に一休禅師のような話題を展開していることに少しは躊躇もあるのだが。
念のため明確な表現を使っておこう。ここでいうピークは「自分自身にとってのピーク」だ。アーティスト活動のピークではない。混同してしまう人間も多いがこれらは明確に異なる。
いまどんなに好きなものであっても、それに全てを注いでいても、その情熱がピークを過ぎたと感じる瞬間がいつかはやってくる。子供のころからの趣味、掛け替えのない恋人、ライフワークである仕事、そして好きなアーティストでもだ。永遠に熱量が高まり続けるわけではない。
もちろん、ピークを過ぎたとしても途端に熱が失われることもない。「歳月は情熱の炎を消し去り、温もりに変える」のだ。
だが、次第に情熱が高まっていく時期の人間にとって、いつかこの情熱が失われ始める時が来るという予感は言いようもなく憂鬱で、どうしようもなく痛ましい。その予感に耐え切れず「時間よ止まれ、お前は美しい」と叫びたくなった時はもう情熱のピークだ。
おそらく自分の持つヰ世界情緒やV.W.Pへの熱は微妙なバランスで成り立っている。活動方針が少し違えば、時代が少し違えば、おそらく今まで好きになった無数のアーティストと同じようにただ曲を聞くだけの関係で終わっていたに違いない。もし、初期からアイドル的な側面が押されていたら。もし、バーチャルなアーティストという存在が普及しきった時代だったら。今と同じ状況にはなっていない。
だから変化が顕在化する大きなライブの前はいつも少し陰鬱だ。アーティストは変化し成長していく。運営方針も変わっていく。それらをコントロールすることはできないし、すべきでもない。変化が自分にとって心地よいものかどうかはわからない。いや、主流からズレているからにはそうでない可能性の方が高い。かといってアーティストが変化することをやめて自己模倣に陥ったとしてもやはり熱は薄れていく。
自分は惰性で追いかけていくことも、薄れていく熱をアーティストへの親近感やコミュニティでの社交などで補うことも避けたい。だからアーティストと合わなくなってきたら素直に離れていく。いつかどこかのタイミングで目が離れ、耳が離れ、心が離れる。今の自分はそれを思うと本当に憂鬱だ。
しかし、だ。本当に重要なのはそういうことじゃない。
いつか情熱が薄れていくだろうが、それは今日ではない。
少なくとも今だけは、忖度でも惰性でもない確信をもってこう言えることを楽しもう。ヰ世界情緒とその作品が好きだ。