「心配」という言葉を考えてみた
心配すること、心配されること。
生きていれば、悲しいことにも苦しいことにも、必ず出会ってしまいます。すると、心配で心配でたまらなくなる。もちろん、楽しいこと、嬉しいことにもたくさん出会うはずですが。
さて。自分が悲しくてたまらない時、苦しくてたまらない時、誰かがその思いに気づいてくれることがありますよね。そんな時にかけられる言葉に「大丈夫?」というのがあります。
この「大丈夫?」という言葉は、相手が自分を心配してくれているからこその言葉でしょう。逆の立場になった時には、自分も相手のことが心配な気持ちから「大丈夫?」という言葉をかけることもあるはず。
でも不思議なことに、自分で自分に感じる「心配」って、ネガティブなイメージが強くありませんか?
少なくとも、卑屈で気にしいな「私」にとっては、そんなふうに捉えられます。
▼「私」について
そこで今回は、この「心配」という言葉を、自分なりに掘り下げていこうと思います。
「心配」の意味を辞書に聞いてみた
辞書によると「心配」とは「心配りをしてお世話すること」「心に引っかかって悩んだり、不安に思ってしまうこと」という意味だそうです。
とりあえず、一つ目の「心配りをしてお世話すること」という意味の「心配」は、自分が大丈夫ではない時、それに気づいてくれた誰かがかけてくれる「大丈夫?」という言葉に繋がる意味かな?と思います。
そして二つ目の「心に引っかかって悩んだり、不安に思ってしまうこと」という意味の「心配」は、自分自身の内なる問題に対して「どうしよう……」とか「今の自分は大丈夫じゃない……」と苦しんでいる状態にあることを指すのかな?と思いました。
もうちょっと深く掘り下げたいので「心配」という言葉を分解して、考えてみます。
心配の「心」とは
「心」って、目に見えないものですよね。でも、目には見えないのに、私たちに大きな影響を与えます。
嬉しいことがあれば、ウキウキしたりワクワクしたり、ときめきで心は弾みます。けれど、悲しいことがあれば、まるで鉛(なまり)でものっけられてるんじゃないか?と思うほど、胸を圧迫されるような息苦しさを感じます。
でも、自分の心すら自分で見て確認することはできないのに、自分以外の誰かの心を理解するなんて、到底無理な話です。
理解しようと歩み寄ることはできても、自分の心が感じることを正確に人に伝えることはできないし、その逆もそうですよね。理解してあげたいと思っても、完璧にその気持ちを理解することは、どう頑張っても難しいと思います。
どうして?それは、感じ方は人それぞれだからです。
▼以前、そのことについて綴りました。
目に見えないからこそ、自分のものであっても、それが他の誰かのものだとしたら余計に「心」というものは難しい。
心配の「配」とは
それでは、心配の「配」ってなんだろう?と考えてみます。
辞書さんが教えてくれたように、心配という言葉には「心配りをしてお世話すること」という意味があります。つまりは、自分の感情や思いの全部が詰まった心を、誰かのために使ってあげることを言っているのだと思います。
誰も彼も、本当は自分のことで精一杯!という時はあります。というか、生活をするにも、仕事をするにも、人間関係をうまくやっていくのにも、エネルギーを使いますよね。人に気を使わなければならない場面が、それぞれどうしてもありますから。
でも、その中でも、自分の心を悲しんでいる・苦しんでいる人のために使う=自分の心の一部分に、その相手を受け入れてあげられるよう、スペースを作るということなんじゃないでしょうか?
「私」なりの解釈
自分が抱える不安などのマイナスイメージがある「心配」は、捉えようによってはポジティブな言葉かもしれないと思いました。
心配りができるという意味を、自分に与えてあげる。
そうすると「自分の心の内にあるものから目を背けるのではなく、真正面から向かい合っていること」ってな感じになるんじゃないかな?と。
自分の中の不安や焦りに対して、真剣に向かい合っている。
それってすごくないですか?だって「別にいいや〜」と、考えることを放棄して、逃げを選んでもいいんです。
なのに、逃げないという選択をしている。本当は怖いことなのに、そわそわ落ち着かなくなってしまうのに「解決したい」と思うから「心配」するってことなら、めっちゃえらい!
こんなふうに考えてみると「心配」って、そう悪いことでもないのかもしれない。
▼普段はTwitterにいます。双極性障害とライティングについてのツイート多め