北村透谷「日本文学史骨」明治文学管見 現代語訳
「日本文学史骨」は、北村透谷の思想を理解する上で、最も重要な評論の一つとされている。公表されたのは「人生に相渉るとは何の謂いぞ」と「内部生命論」にはさまれた期間(明治26年4、5月)で、雑誌「評論」に連載された。平易な言葉で、丁寧に議論をしようとしているので、透谷の思想を理解する上で有効である。雑誌掲載時の正式な題目は、「日本」の二文字は小字体で表わされていたが、ここではその形をとることができなかった。また、この評論は「明治文学管見」の名称で呼ばれることも多い。「明治文学管見」は、山路愛山が「明治文学史」の中で透谷を批判したことを意識してつけたのかもしれない。結局のところ連載は4回で中断して、書き上げられた部分を見ると「明治文学管見」と呼ばれるのも理解できる。
ここで明治期における「文学」という言葉について注釈を加えておこう。一般にこの時期の「文学」は、広義の文学を表す場合が多い。これは文芸に加えて、哲学・思想、歴史をも含むもので、現在の言葉では人文学(人文科学)に対応するものである。本評論も今の感覚では「日本文学史」というよりも「日本思想史」により近い内容になっているといえるだろう。なお、透谷は狭義の文学すなわち文芸について「純文学」という言葉も用いている。ただし今日では純文学は、芸術的な文芸あるいは「非大衆文学」というより狭い意味で用いられており、注意する必要がある。
この評論は、透谷が書きながら考え、考えながら書いたようすが手に取るように分かるもので、体系的に練り上げて書かれたものではない。その意味で、1章から順番に読んでいく必要はないのかもしれない。ここでは、いわば読書の手引きとして、各章のポイントを示すことにしよう。
〇 1章の前半のいわば「序言」では、人生相渉論争における自身の立場をいささか弁解的に述べている。後半はマシュー・アーノルドに拠りつつ、文学の快楽と実用について論じている。内容が抽象的な文学論であるうえに、透谷の体調のためか、議論がやや荒くなっていることは否めないように思われる。
〇 2章の前半は、生と死の問題から初め、精神の意義とその自由に及ぶ。この部分は後の「内部生命論」につながる内容である。後半は徳川期における思想の潮流の概観である。この部分は既発表の評論「徳川氏時代の平民的理想」の短い要約とも言えるだろう。
〇 3章の前半は、明治初期における思想の潮流の概観である。時代精神の現れとしての仮名垣魯文、成島柳北への厳しい評価には驚かされる。後半は明治の思想界を代表する福沢諭吉と中村敬宇の対比論である。早稲田出身の透谷は、三田の福沢翁に対して容赦がない。
〇 4章の前半は、徳川期の封建制度の族長制度的な特性について述べている。後半は、いわゆる国民の元気論によって明治の革命を説明している。この章の内容は、思想史研究の立場から高く評価されている。
この現代語訳の底本は、『明治思想集Ⅱ』(近代日本思想体系 31)、筑摩書房、1977年刊行に所収のものを用い、『北村透谷集』(日本現代文学全集 9)、講談社、増補改訂版、1970年5月刊行を参照した。
現代語訳 「日本文学史骨」
- 日本文学史要領 -
北村透谷 著 上河内岳夫 現代語訳
1. 快楽と実用 明治文学管見の1
明治文学もすでに二十六年の壮年となった。この歳月の間にどのような進歩があったのか、どのような退歩があったのか、どのような要素とどのような精神がこの文学の中に絡み合って、そうしてどのような現象を外面に提示したのか、これらを研究することが緊要である。そうして今日までいまだにこの範囲において史家としての技量を試みた者はおらず、ただ「国民新聞」の山路愛山が、その鋭利な観察をこの範囲に向けたことがあるのみである。私は彼の評論に満足できないところがあるにもかかわらず、その気鋭で大胆で、幾多の先輩を瞠目させる技量に驚く者である。私は浅学短才であり、あえてこの種の評論に立入るべき者ではないが、従来「白表女学雑誌」誌上で評論の業に従事した経緯があるので、少し見解を述べて、明治文学の梗概を研究したいという志がある。私は先に愛山君の文章を評論したことがあるので、この題目において再び戦いを挑もうという野心があるなどと思うならば、この上ない間違いである。このことは私が日本文学史骨を著すに当たって、あらかじめ読者に注意をお願いしたい一点である。
私はこれから日本文学史の一学生でいようと期する者で、もとよりこの文学史の舞台を独占としようという心掛けがあるわけではない。このように断るのは、かつてある人に誤解されたことがあるからである。私は学生として、誠実に研究すべきことを研究しようとするのであり、たとえどのような他人の攻撃にあうことがあっても、これに向かって必ずしも答弁するものではない。また容易に他人の所論を非難する等のことはないだろう。かつ美学及び純哲学において極めて初学の身で文学を論じるのであるから、その不都合なことが多いだろうことは、くれぐれも予め断っておくことである。加えて暇が少なく、書籍の便がなく、事実の蒐集が思うに任せないことばかりなので、独断的評論をなす方向に自然と傾きやすいことも、またあらかじめ了承することをお願いする。
特に山路愛山先生に対して一言すべきことがある。ここでこれを言うのは奇妙だと思う人があるだろうが、私は元来私がなした評論について親切な教示を望んでいたのに、愛山君は私の所論以外の事に向けて攻撃の位置に立たれ、満足な教示と見るべきものは少しもなかった。私は自ら受けた攻撃について云々する必要を認めなかったので、そのままに看過しておいた。もとより文学が事業であることは解釈という利刀を借りてこなくても分明なことで、文学が人生に関連することは何人といえども、これを疑わないであろう。愛山先生がもしこの二件を自らの新発見であると思うならば、私はそれがいいことか分らない。私は上の二件を非難したのではない。私が今日の文学のために、いささか真理を愛する心より、知交をかたじけなくする愛山君の所説を非難したのが、どうして向こう見ずな自負自傲の念よりなしたものになろうか。このことから私は愛山君の反反駁に答えることをしなかった。それなのにその他にも私の所論を非難しようとしてか、あるいは他にためにする所があってか、「人生に関連しなくてはならない」という論旨が明白に理解される論文で、しかも大家先生等の手になって出されたのを見るに至るとは思いがけないことである。もしこのことが私の所説に対して、あるいは私の所説に動かされて、出されたものであるとするならば、私は至幸、至栄であることを感謝することに吝かではないであろう。そうではあるが、極めて不幸だと思うのは、私がこれらの文章に対して返報する権利がないことである。文学が人生に関連するものであることを私も信じている。恐らく天地の間に「文学は人生に関連すべきではない」と公言する愚人はいないだろう。ただし私が非難したのは、(1)世の役に立つという目的で、(2)英雄が剣を振るうように、(3)空の空を突こうとせずに、ある「的」を見て、(4)華文妙辞を退けて、しかして人生に関連しなければならないと論断したことである。ゆえに私は以上の条件を備えていない人生相渉論には、いかなる大家先生の所説であっても、これ対して答弁する権利はないのである。しかしながら私が自ら「山庵雑記」で言ったように、よしあし、真偽は容易に皮相な眼で判別すべきものではないのに、私の文章が粗雑であったため、あるいは意気が昂揚して書いたためか、これほどに誤読されるに至ったのは極めて残念なことと思う。それゆえに私は、不肖を顧みず浅薄をいとわず、これより「評論」紙上において、できるだけ誤読を免れるように明治文学の性質を論じる栄を得ようとする。こうするのは、もとより愛山君の所説を再び批評するためではないけれども、もし私が信じる所で君の教示を促すようなことがあれば、自ら寛大にして、これを示すことをお願いする。
私はまず明治文学の性質から始めよう。そうして明治文学の性質を知るためには、どのような主義がその中にあるかを見なければならない。純文学界にも、批評界にも、あるいは時事界にも、済々たる名士が羅列するのを見る。されど私は存命中の人を評論するのに、二つの面白くないことがあるのを慮るのである。その第一は、もし賞揚する時に諛言[お世辞]と誤解されないか、もし非難する時に詬評[罵倒]と思われないか、という恐れである。第二は、人間は感情の動物なので、よく言えば自らの主義、少なくても自家の私見に拘泥しないわけにはいかず、それゆえもし一つの私見と他の私見とが撞着した時に、近頃流行の罵詈評論に陥ることがあるかもしれないことである。こういうわけで私はわざわざ現存の大家に向かって直接の批評を加えないだろう。とは言うものの、もし私が要素を観察して行く道程で衝突することがあれば、避けられない場合として批評することがあるだろう。
私は「明治文学管見」の第一として、「快楽」(pleasure)と「実用」(utility)を論じよう。快楽と実用とが、美の要素であることは疑いがない。これには必ずしもプラトンを引くには及ばない。マシュー・アーノルドは「人生の批評としての詩においては、詩の理、詩の美の定法にかなうかぎりは、人生を慰め、人生を保つことができるのである」と言っている。文学が一方において、人生を批評するものであることは、私も疑わない。しかしながら、アーノルドの言うように、人生の批評としての詩は、また詩の理と詩の美とを兼ね備えていなければならない。私が文学を研究するには、単に人生の批評のみをするのではなく、詩の理と詩の美とを考究するのでなければならないだろう。
人生を慰めることから、快楽が詩の美において欠くべからざる要素であることを知ることができる。人生を保つことから、実用が詩の理において欠くべからざる要素であることを知るべきである。真に人生を慰め、真に人生を保つためには、真に人生を観察して人生を批評することのほかに、真に人生を通訳することもなくてはならない。人生を通訳するには、人生を知覚しなくてはならない。それゆえ天賦の詩才ある人は、人間の性質を明らかに認識する必要がある。そうでなければ天才は真正の狂人だけ、靴屋にもなれず秘書官にもなれぬ白痴だけである。
人生(life)ということは、人間が始まって以来の難問であり、哲学者の夢にもこの難問は到底解き尽くすことができないと、古人も言っていることである。もし社会的人生などのことになると、あるいは鋭利な観察家の晴れた目によって看破できることがあるかもしれないが、人生のバイタリティ(Vitality)になると、全能の神の他は全く知る者はないだろう。ゆえに詩人の一生は、黙示の度合に従って人生を研究するもので、感応の度合に従って人生を慰め、保つものにちがいない。
快楽と実用とは、主観においては美の要素であるといっても、客観においては美の結果である。内部では美を構成するものといっても、外部の現象では美の成果である。この二要素を論じるに先だって、私は「人生がなぜ美を必要とするか」について一言しなくてはならない。音楽はなぜ人生に必要であるか。絵画はなぜ人生に必要であるか。極めて些末な装飾品までも、なぜ人生に必要か。なぜ歌があるか。なぜ詩があるか。なぜ温柔な女性の美があるか。なぜ花の美があるか。なぜ山水の美があるか。これらは全て遊惰で放逸な人間の悪習を満足させるためにあるのか。もしそうであれば人生は、これら全ての美なしに、生存することができるだろう。しかるに昔から今まで、最も野蛮な種族が最も劣等な美の観念を持ち、最も進歩した種族が最も優等な美の観念を持っているのは、なぜだろうか。最も野蛮な種族にも、必ず何かにつけて美を求める気持ちがあることは、明白な社会学上の事実である。鳥の鳴き声を模倣し、美しい花を粗末な仕方で模写するなどのことは、極めて拙劣な人種にもあるのである。また、最も幼稚な乳児でも、美しい玩具を見てよく笑い、音楽の響に耳を澄ますことは、普通の事実である。このことを見れば文明という怪物が、人間を遊惰、放逸に駆り立てて初めて、美の必要性が生じたと見るのが偏見であることは、多言を要しなくても明らかである。美は実に人生の本能本性において、自然に願望するものであることは認められることである。このように美を願望するのは、人生の本能、人間性の本性においてそうであるということを知り得たならば、私は一歩を進めて「人生は快楽を必要とするかどうか」の一問を解かなければならない。
快楽は何のために人生に必要か。人生は快楽なしに生活できるものであろうか。ピューリタニズムの極端にまで登攀して見ても、唯利論の絶頂から眺めて見ても、人生は何事か快楽というものがなくては月日を送ることができないことは、常識という「活眼先生」に問うまでもなく、明白な事実である。快楽は、すなわち慰藉(consolation)である。人間生活の状態を詳細に見よ。蠢々と動き乱れて、何のおもしろみもなく、何のおかしみもないようだが、その実は、個々が特別の種類の快楽をもって、人々は異なる様子の慰藉を自分のものとしているのである。放蕩な快楽は飲宴好色である、着実な快楽は安居閑楽である、熱性ある快楽は忠孝仁義等の目的および希望である、誠実な快楽は家や生活を整理することにある。されどこれらは特異的な快楽を挙げただけで、もし一般的な快楽という時は美しいものによって耳目を楽しますことになる。最初に快楽を願望するのは、耳に音を聞き、目に物を見ることである。されど知情意(マインド)の発達するのに従って、この簡単な快楽では満足することができなくなるので、さらに道義の生命において快楽を願望するに至るのである。道義の生命において快楽を願望するに至る時は、単に自然の模倣をこととする美術では真正の満足を得られないのは必然の結果であり、創造的な天才の手になる美を愛好するに至るのもまた当然のなりゆきである。美は初めから同一で軽重増減があるものではないが、美術上は進歩すべきものであるのはこのためである。そうしてこの観点より推究する時は、最も進歩した道義の生命を有する者が、最も健全で最も円満な美を願望すると判断することは難しくない。そうして社会進歩の大法によりこれを論じる時は、最も完全な道義の生命を有する国民が最も進歩した有様にあることは、明白な事実である。したがってまた最も円満な快楽を有し最も完全な美を願望する人種が、最も進歩した国家を形成することは、容易に見られることである
私はさらに「道義的生命が快楽に関連する関係」について一言しなくてはならない。道義(モラル、moral)という字を用いるには、宗教および哲学に訴えて、その字義を解釈することが大切であろう。されど私は序言で断ったように、(平民的という言葉を用いることができるとすれば)なるべく平民的に、雑誌評論らしい普通の諒解に打ち任せて、この字を用いるのである。人生は、物質的に進歩すると同時に、道義も進歩するものである。物質的世界の広まり行くと共に道義的世界も広まり行くものである。ゆえにその必要とする快楽においてもまた、単に耳目を喜ばすだけでは足りないようになるのである。加えて知情意の発達と共に、各種各様の思想を生じるがゆえに、その必要とする快楽も彼らの発達した知情意を満足させる程のものでなければならない。このために道義的人生に関連すべき適当な快楽なくしては、道義自身も枯れて、人生自身も必ずや味のないものになってしまう。ここにおいて、道義の生命の中心である霊魂をもって、美の表現の中心である宇宙の真美を味わうという必要が起こるのである。宇宙の真美は、あるいは荘厳(サブライム)と言い、あるいは美(ビユーティフル)と言い、審美学者が孜々として討究しつつある問題であり、容易に議論に参入できるものではない。ただし、私は「人生に相渉るとは何の謂ぞ」と題する一文の中でその一端を論じたことがあるので、ついて読まれんことをお願いする。
これから「快楽と実用との相関」について一言しよう。「快楽」と「実用」とは特殊なもので、極めて密接な関係があるものである。実用を離れた快楽は、絶対的に全然ないと断言してもよいだろう。快楽の別の意味は慰藉であることは前にも言った。慰藉ということは、孤立した立脚点の上に立つものではなく、何ものかに双対するものである。エデンの園に住む始祖には、慰藉というものは必要ではなかった。必要になるのは人間に苦痛があってからのことである。ゆえに「なぜ人生に苦痛があるか」という一問を解くことをやめることができないのが分かる。曰く「欲(パッション)という魔物が、人生の中にあるからである」。全ての罪、全ての悪、全ての過失は欲があるがゆえに存在する。そうして罪、悪、過失等の形を示していない内部の人生において、欲と正義とが互いに戦いつつあることは、いやしくも人生を観察するのに欠くべからざる要点である。この戦争が人生の霊魂に与えるけがは、すなわち我々が道義の生命において感じる苦痛である。この血痕、この紅涙こそは、古昔より人間の特性を染めるものでなかったことはない。それゆえに、必要上から「慰藉」というものが生じてきて、美しいものをもって欲を柔らかにし、その毒刃を鈍くするようにやむを得ずなったのである。そうではあるが、すでに必要という以上は、慰藉もまた、多少は実用の物ではないわけではない。
試みに、「梅花と桜花との比較」という一例を挙げてこれを説明しよう。梅花と桜花とは東洋詩人の最も愛好するものである。梅花は、その花においては単に慰藉の用に当てるべきのみであるが、その果実は実用のものとなるのである。このように固有性において慰藉物であるものが、付属性において実用品であることがある。これと反対の例をも見よ。桜花は果実を結ばないので、単に慰藉の用に供するだけかと問われると、貴人の庭園には必ずなくてはならないものになっていることからすれば、幾分かは実用の性質をも備えているのである。これと同じく家具家材の実用品と共に、ある種類の装飾品もまた多少実用の性質があるのである。屏風は実用品であるが、白紙の屏風を見ることがないのはなぜだろうか。装飾と実用とが互いに密接するのは、このことで見ることができる。
これから「実用の起原」について一言しよう。この問題は至難なものである。しかし極めて雑駁に、極めて独断的にこれを解くと、前に「快楽」の起原について言ったように、人間は欲の動物であるがゆえに、その欲と調和した度合において、自家の満足を得るため意と肉とを適宜に満足させるために、必要とする器物もしくは無形物を願い求めるという性質があること、これが実用の起原である。そうして人文の進歩の度合に応じて「実用」もまた進歩するものであることは、前に言ったのと同じ理法にて明白である。人文の進歩とは、物質的人生と道義的人生との両像において進歩したものであるので、「実用」もその最初においては、単に物質的な需要を満たすので十分であったものが、追々に、道義的な需要を満たすようになることは当然の順序である。他の側面より見る時は、野蛮人と開化人との区別は、道義性の発達しているのと否とにあると言ってもいいだろう。ここで道義的人生に関連する文学は、人間の道義性を満足させる程のものでなくてはならないことは、認められるだろう。
これより「道義的な人生の実用」とは何かという疑問に移ろう。その第一は、人間を正当な知識に進めるもの、すなわち学理である。その第二は、人間を正当な道念に進めるもの、すなわち倫理であり、その第三は、人間を正当な地位に進めるもの、すなわち美である。このように概説してきた所から、私は、快楽と実用との上において私が詩と呼ぶものの位置を瞥見することができる。快楽すなわち慰藉は、道義的人生に欠くべからざるものであると共に、実用もまた道義的人生に欠くべからざるものであることを見た。ただし慰藉は主として道義的人生に関連する性質を持ち、実用は客観においては物質的人生に関連するものの、前言したように、到底主観においては道義的人生にまで達しなければならないものである(このことについては、恐らく詳論を要するであろう)。私は、快楽と実用の性質について、およびこの二者が人生と関連する関係について、粗略な解釈をなしとげたのである。
これから「快楽と実用とが文学に関係するところはどこか」に進もう。快楽と実用とは、文学の両翼であり、双輪であり、これなしに鳥は飛ぶことができず、車は走ることができない。されど快楽と実用とは、文学の本体ではないのである。快楽と実用とは、美の目的(aim)であり、美の結果(effect)であり、美の功用(use)である。「美」の本体は快楽と実用とではない。これとともに、詩の広い範囲においても、快楽と実用とは、その目的、その結果、その功用に過ぎず、他に詩の本能があることは疑うことができない事実であると思われる。もし事物の真価を論じるのに、その目的、その結果、その功用のみを標準とする時は、種々なる誤謬を生ずるに至るだろう。本能、本性と合せて、その結果、その功用、その目的を観察するのでなければ、私はそれでいいかどうか分からない。ゆえに文学を評論するには、少なくともその本能、本性に立ち入って、その後に功用、結果、目的等の審判者に諮問しなければならない。
快楽と実用とが、詩が兼ね備えなければならない二大要素であることは疑うまでもない。されど詩が必ず、この二大要素に対して隷属すべき位置に立たねばならないとするのは、大きな誤謬である。私が日本文学史を研究するに当たって、第一に観察すべきことは、どのような主義、どのような批評眼、どのような理論が、主要な位置を占有しつつあるかにある。そうして私は不幸にも、「世益主義」(世道人心の利益になるべきだという論)、「勧懲主義」(善を勧め、悪を懲らしめるべきだという論)、及び「目的主義」(何か目的を置いて、これに対して云々すべきだという論)などが、古来より最も多く主要な位置に立っているのを見出すのである。このようにして、神聖な文学を実用と快楽に隷属させているのである。我が国の文運が、今日まで憐れむべき位置にあったのは、いかにもその通りである。
私は次号において、[1]徳川時代の文学に「快楽」と「実用」との二大区分があること、[2]平民文学、貴族文学の区別があること、[3]倫理と実用との関係、等のことを論じて、追々に明治文学の真相をうかがうことを期す。(病床にあって筆を取った。字句が最も未熟であること、諒承をお願いしたい。)
(明治二十六年四月八日 「評論」一号)
2. 精神の自由 明治文学管見の2
自然万物を支配する法則の中で、生と死は必ず動かすベからざる大法である。およそ生があれば必ず死がある。死は必ず生を追ってくる。人間は「生」という流れに浮かんで「死」という海に漂着する者で、その行程も甚だ長くはない。しかるに人間の一生は「生」より「死」にまで旅することをもって、最後の運命と定めてはならないものがあるようだ。人間の一生は旅である。されど「生」という駅は「死」という駅に隣接するもので、この小時間の旅によって万事休することはできないのである。生の前は夢であり、生の後もまた夢である。私は生の前を知ることはできず、また死の後を知ることはできない。されどもわずかに現在の「生」をうかがい知ることはできるのである。現在の「生」は夢で、「生」の後が目覚めになるかどうか、私はこれをも知ることができない。
私が明らかに知ることができる一つの事がある。それは、現在の「生」は有限であることに他ならない。されどその有限なのは人間の精神(スピリット)ではなく、人間の物質である。世界は意味なくして成立するものではない。必ず何ごとかの希望を蓄えて進みつつあるのである。そうでなければ全ての文明も、全ての化育も、虚偽のものであるにちがいない。世界の希望は人間の希望である。何を人間の希望というのか。曰く「個の有限の中にあって、彼の無限の目的に適合することである」と。有限は取り囲まれた内にあってその中心に注ぎ、無限は方向以外に自由である。有限は引力によって結びあい、無限は自在であることから孤立することができる。そうして人間は実に有限と無限との中間に彷徨する者で、肉によっては限られ、霊においては放たれる者である。人間に善悪正邪があるのは、結局のところ内界において有限と無限との戦争があるからである。統一(unity)を求めるものは物質である。調和を求めるものは物質である。そうして精神になると初めから自由なものであって、初めから単独で存在するものである。
人間は活動する。そうして活動と言うものは「我」を巡って歩むもので、「我」を離れる時は万籟[全ての物音]が静止するものである。自己の「我」は生存を競うものであり、法の「我」は真理に赴くものである。されど人間の種族は、生存を競うほかに活動を起こすことは稀である。愛国もしくは犠牲等の高尚な名の下にも、究極のところ生存を競うという意味がある。人は何ごとかを求める者であり、人は必ず情を離れない者であり、人は自己を愛する者である。倫理道徳を守る前に人間は必ず自己の意欲の召使いであるものである。このように意の世界において人間は幽囚された位置に立つものである。
人生はこのように多恨であり、多方である。されど世界とともに存在し、世界とともに進歩する思想は、羅針盤なしに航行するものではないと思われる。私は夢を疑う、されど夢というものは全く人間を離れたものではない。私は想像力を訝る、されど想像力というものは全く虚妄なものではない。私は理想を怪しむ、されど理想というものは全く人間と無関係なものではない。夢や、想像力や、理想や、これらのものは、スフィンクスに属する妖術の種類ではなく、何ごとかを私に教え、何ものかを私に黙示し、私を水上の浮き草のように波のまにまに漂流するものではないことを示すようである。そのうえに私は自ら顧みて己れを見る時に、何の希望もなく、何の目的もなく、在来の倫理に唯々諾々とし、在来の道徳を墨守し、何ごとかの事業にはまって一生を終ることをもって、自ら甘んじることができないものがあるようだ。怪しむべきはこのことである。
倫理道徳は人間を縛り付ける墨縄に過ぎないのであろうか。真人、至人の高大な事業は、境遇と周辺と場所とによって生ずるにとどまるのか。人間の窮達[困窮と栄達]、消長は、機会(チャンス)というものの勝手なふるまいに一任するものなのか。私は承諾することができない。別に精神というものがあり、人間の覚醒はすなわち精神の覚醒である。人間の睡眠はすなわち精神の睡眠である。倫理道徳は、人間を盲目にさせるものではなく、人間の精神に訴えるものでなかったことはない。高尚な事業は境遇等によって(絶対的に)生じるものではなく、精神の霊動に基づくものでなければならない。人間の窮達は機会が独断すべきものではなく、精神の動静に起因するものでなければならない。精神は自ら存するものである。精神は自ら知るものである。精神は自ら動くものである。されど精神の自存、自知、自動は、人間の内にのみ限るべきではない。これとあい照応するものは他界にあり、他界の精神は人間の精神を動かすことができるのである。されどこれは人間の精神の覚醒の度合に応じるものであるだろう。それゆえ人間を記録する歴史は、精神の動静を記録するものにならなくてはならない。物質の変遷は精神に次いで来るものであるがゆえに、これをいい加減にすべきだと言うわけではないが、真正の歴史の目的は、人間の精神を研究することにあるにちがいない。人生は実に無辺である、しかも意味のない無辺ではなく、結局のところ精神の自由のために砂漠を旅するものである。希望はここにあり、進歩はここに兆すのである。これがなければ全てのことはみな虚偽である。
文学は人間と無限とを研究する一種の事業である。事業としてはそうである。そうしてその起因する所は、現在の「生」において人間が自らの満足を充たそうとする欲望をふさぐためにあるのだろう。文学は快楽を人生に備えるものである。文学は保全を人生に補うものである。されど歴史の上で文学を研究するには、それを人生の鏡として、それを人生の欲望と満足の影像として見ないわけにはいかない。人生は文学史の中に、その骨格を留めるものである。その宗教も、その哲学も、文学史の中に散漫な形で残るものである。その欲望も、その満足も、文学史の上に覆うことのできない事実となるのである。そうして私は、その欲望よりも、その満足よりも、その状態よりも、第一に人生の精神を知らなくてはならない。私は観察というものを甚だ重視すべきことを認める。されど状態(ステート)を観察するに先だって、赤裸々な精神を見なくてはならない、認識しなくてはならない。しかる後にその精神の活動を観察しなくてはならない。
精神は永遠に一つである。されど人生は有限であり、有限なものの中にあって無限なものの趣を変える。東洋の最大不幸は、初めより今に至るまで、精神の自由を知らなかったことである。されどこれは東洋の政治的な組織上に言うのみであり、その宗教上においては大きな区別がある。初めから全く精神の自由を知らず、かつ求めない国は、必ず退歩する国、必ず歴史の外に消える国である。政治と隔絶した宗教に向かって精神の自由を求めるのは、国民が政治を離れる兆しである。宗教が、もし政治と関連することがなければ、その国の思想は必ず一方には極端な虚想派を、もう一方には極端な実際派を生じるにちがいない。私は他日、日本文学と国体との関係を言う時において、このことを評論するだろう。今はただ、日本の政治的組織は、一人の自由を許すといっても衆人の自由を認めず、そうして日本の宗教的組織は主観的に精神の自由を許すといっても、社会とは関係のない人生においてこの自由を享有することができるだけで、公共の自由というものは、これ以上成立することがなかったということだけを断わっておこう。
ここで私は読者を促して前号の主題に戻ることをお願いする必要がある。人間は精神をもって生命の原素とするものである、されど人間生活の需要は慰藉と保全とに過ぎることはない。文学もその直接の目的はこの二つのものを他にすることはできない。文学の種類は多々あるが、この直接の目的に外れたものは文学ではないのである。そうして何を最もこの目的にかなうものとすべきかは、この本題の対象外にある。
徳川時代の文学の真相は、その時代を論じるに当たって詳らかに研究するべきである。されど私はすでに逆方向の道から私の研究を始めたのであり、極めて粗雑に明治文学の本体を知ることが、私の今日の主題である。父を知らないで子をよく知ることは稀である。このことから私は、今日は甚だ乱雑な研究法で、徳川文学が明治文学に伝えた性質の一、二を観察したいと思う。
文学の最初は自然の発生であり、人に声があり、人に目があるのと同時に、文学は発生すべきものである。しかしその発達は、人生の時期に伴うがゆえに長く育てるものである。よく人生を楽しませ、よく人生に功があるものは、人間に連れて進歩すべき文学である。このことから一国民の文学は、その時代を出ることができないのである。時代の精神は文学を覆うものである。人は周囲によって生活する。その声も、その目も、周囲を離れることは断じてないと言っても間違いないだろう。
徳川氏の前には文学は仏門の手に属していた。そうして仏門が人間を離れたことが、当時の文学が人間を離れた大きな原因となっていた。徳川氏が覇業を建てると、時あたかも中国において儒教哲学が勃興していたので、文学の力を僧侶の手から奪い取ると同時に、儒教趣味を満潮のように注ぎ込んだ。しかるに徳川氏の覇業は、性質の革命ではなく形体の革命にとどまったがゆえ、それに従って起った文学の革命も、僧侶の手から儒者の手に渡っただけで、その性質は依然として国民の半分に向けるべきものであった。疑いもなく文学はこの時代において復興した、しかもその復興は仏教と儒教との入れ代わりに過ぎず、要するに高等民種である武士に応用させるべきものであるに過ぎなかった。これに加えて徳川氏は文学をその政治に裨益させることに没頭した、それゆえ儒教もまた一種の徳川的儒教と化してしまい、風化を補い世道を益して、徳川氏の時代に適うべきものでなければ、文学として世に尊ばれるべからずという状態となった。すなわち徳川氏の時代にあっては、高等民種(武士)の文学が、甚だ倫理の範囲に縛られて、その範囲内で成長した主因である。
されど倫理という実用で、文学の命運を縮めるのは詩神が許さないところである。ここで俳諧がにわかに成熟するということがあり、さらにまた戯曲や小説等の発生があった。戦乱がやんで泰平が来る時、文運が必ず伸びて育つべき理由がある。されどその理由を別にして徳川時代の初期を見る時に、一方において実用の文学が大いに奨励される間に、他方において単に快楽の目的に応じる文学が勃興したことを見なくてはならない。武士は倫理に捉われており、そうして平民は自由な意志に誘はれて放縦な文学を形成した。ここに至って平民的思想というものが、初めて文学という明鏡の上に照り出したことがあり、これは日本文学史に特筆しなくてはならない文学上の大革命である。
私は平民的思想の変遷をここで詳論しない。ただ読者の記憶をお願いしたい。このように発達してきた平民的思想は、人間の精神が自由を追求する一表象であり、その帰着するところは、倫理と言はず放縦と言はず、実用と言はず快楽と言はず、最後の目的である精神の自由を望んで駆け出た最初の思想の自由で、しまいには思想界の大革命を起すに至らなければ止まらないのである。
維新の革命が政治の現象界において古習を打破したことは、衆目の公認するところである。しかし私はむしろ思想界の内において、遙かに偉大な大革命を成し遂げたことを信じたいと思う。武士と平民とを一団の国民となしたのは、実にこの革命である。長く東洋の社会組織に付帯していた階級の縄を切ったのが、この革命である。そうして思想の歴史を考究する順序から言うと、私はこの大革命を単に政治上の活動より生じたものとは認めることができない。自然の理法が最大の勢力である。平民は自ら成長して思想上においては、もはや旧組織の下に黙従することができない程に進んでいた。明治の革命は武士の剣鎗でなったように見えるけれど、その実は思想の自動が多くを占めていたのである。
明治文学はこのような大革命に伴って起こり、その変化は著しく、その希望は大である。精神の自由を欲求するのは人間性の大法であり、最後に到着すべきところは、各個人の自由あるのみである。政治上の組織においては、今日いまだこの目的の半ばを得ただけである。しかし思想界には抑制がない。これより日本人民が行きたいと思う希望はどこにあるだろうか。今日において旧組織の遺物である忠君愛国などの岐路に迷う学者は何と愚かなことだろう。刮目して百年の後を見ていただきたい。
(明治二十六年四月二十二日 「評論」二号)
3. 変遷の時代 明治文学管見の3
徳川氏の幕政は、空しく三百年の業を遺して、残灯はもろくも消えた。天皇親政の曙光がようやく昇って、大勢がにわかに一変し、事々物々その相を改めないものはない。加えて物質的文明の輸入は堤が決壊するように、上は政治の機関から下は万民の生活状態に至るまで、千枝万葉ことごとくその色を変えてしまった。
旧世界の預言者である頼山陽、梁川星巌、貝原益軒、安井息軒等の巨人は、あるいはすでに墳墓の中に眠り、あるいは時勢の怒濤に押し流されて、暁の明星の光は薄くなった。そうして横井小楠、佐久間象山、藤田東湖、吉田松陰等の改革的な偉人も、また相次いで歴史の巻中に没し去り、長剣を帯びて天下を遍歴した昨日の浪人のみが、時運の歓迎する所となって、政治の枢機を握った。すでに大小の列藩の官職を解き、続いて武士の帯刀を禁じ、士族と平民との名義上の区別は置いたけれど、天下同一の義務と同一の権利とを享有し、等しく君主の徳の下に沐浴することとなった。
文学は泰平の賜物である。戦乱の時代にあって、文学は必ず活動世界を離れた場所に逃れ隠れるものである。足利氏の末世が、すなわちそうであった。そうではあるが維新の戦乱は甚だ長くはなかった。足利氏の末路において文学の庇護者であった仏教は、この時になると既にその活力を失って、再び文学の庇護者としての名誉を担うことができなかった。文学はかえって活動世界の従僕となって、勤王家、慷慨家等の名士をして、その政治上の事業に付帯させるようになった。ここで一言すべきことがある。私は文学をいつの時代においても、必ず政治から隔離しなければならないと論じる者ではない。文学は時代の鏡であり、国民の精神の反映である。それゆえ天下の人民が朝夕を安ずることができない時に当たって、超然と身を脱して心を虚界に注ぐべきであるとする者ではない。結局のところ詩人、文人は、その原素においては兵馬の人と異なることはなく、これを詩人に形作り、これを兵士に形作るのは、時代のみである。国民は常に活動を欲するものであり、国民は常にその巨人を造るのである。国民は常にその巨人によってその精神を吐くものである。国民は常にその精神を吐いて、盛衰の運を迎えるものである。精神の枯れる時、巨人の隠れる時、活動の消える時、国民はすでに衰亡の兆しを示すものである。それゆえ巨人は必ず国民の被造者であって、そうしてさらにまた国民の造物者でないことはない。国家に事件が多ければ、必ず天下をよく処理する人が起こるのである。国家に徳が乏しければ、必ず聖浄な君子が世に立つのである。国家が安逸ならば、必ず彼の一国の公園とも言われるような詩文の人が起こるのである。もしこのことがなければ国家は半ば死んでいるのであり、人心は半ば眠っているのであり、希望が全くないありさまに近いのである。読者よ、誤解してはならない、私は偏狭な理論を頑守する者ではない。私は国民ができるだけ自由にその精神を発揮させることを希望する者である。宗教に、哲学に、また文学に、国民は常にその耳を傾けているのである。そうして「時代」という第二の造化翁[造物者]は国民を率いて、その被造物である巨人の説教を聞かさせるのである。
明治初期の思想は、実に第二の混沌であった。どうして混沌というのか。見よ、従来の紀綱は完全に弛緩していたのではないのか。見よ、天下の人心は、全ての旧世界の指導者を失って、ついて聞くべき者を持たなかったのではないか。見よ、儒教道徳の大半は西洋の新しい空気に出会って、露玉が朝日にはかなく消えるようになったのではないか。しかしこの混沌は原始の混沌のようにはならず、速やかに他の組織を生み出そうとする混沌である。速やかに他の時代に入ろうとする混沌である。そうしてこの混沌の中にあって、外には格別の異状を知らせないが、内には明らかに二つの大潮流が逆巻き上がって、一つは東より、一つは西より、必ずある所で衝突すべき方向を指して進行しつつあるのを見るのである。
私に、この互いに敵視する二大潮流を観察させよ。極めて分かりやすい名称で言うと、その一は東洋思想であり、その二は西洋思想である。しかしこの二つの思想の内部の精神を検討すると、その一は公共的の自由を経験と学理とによって確認し、かつ握取する「共和思想」である。そうしてその二は、長上者の個人的な自由のみを承認して、国家公共の独立の自由を知らず、経験上にも学理上にも国家には中心となって立つべきものがあることを知っているけれども、各個人の自己に各自の中心があることを認めない「族長制度的思想」である。
明治の革命はすでに貴族と平民との堅い壁を打破した。政治上で既にこのようになれば、国民内部の生命である「思想」もまた、迅速に政治革命の跡を追跡した。この時に横合いより国民の思想を刺激し、頭を挙げて前面を眺めさせたものがあった。それが何かと言うと西洋思想に伴って来た(むしろ西洋思想を抱いて来た)物質的文明である。
福沢諭吉氏の『西洋事情』は、寒村僻地まで行き渡ったと聞いた。されど西洋の文物を説教するものは、西洋の機械用具の声であった。一般の驚異はおのずから崇敬の念を起させたのである。文武の官省は洋人を招聘して改革の道を講じ、留学生の多数は重用されて一国の要路に登ることになった。そうして政府は積年の閉鎖の夢を破って、外交はようやく緒につくようになった。各国の商人は各開港場に来て珍奇実用の器物を売り、チョンマゲは頑固という新しい熟語の愚弄するところとなり、洋服は名誉ある官人の着用するところとなった。天下をあげて物質的文明の輸入に狂奔させて、全ての主観的思想は、古いものは混沌の中に長夜の眠りをむさぼり、新しいものは春草が未だ萌え出るに及ばず、モーゼなきイスラエル人となって荒野の中をさすらって、静かに運命が一転するのを待っている。
このような変遷の時代にあっては、国民の多数は全ての預言者の声を聞かないのである。そうして思想の世界における大小の預言者もまた、国民を動かすのに足りるような主義の上に立つことができなかった。このことから思想界にもし勢力の最も大きなものがあれば、それは国民に向かって極めて平易な教理を説く預言者であろう。再言すれば、あえて国民を率いてある所にまで達しようとする的な預言者は、このような時代に願うことはできない。巧みに国民の趨向に投じ、詳らかにその傾向に従って、ある意味で言えば国民の機嫌を取ることを主眼とする的な思想家よりも、多くを得ることができない。ここで私は小説戯文界において、仮名垣魯文翁の名前を無視することはできない。さらに高品な戯文家としては成島柳北翁を推さなくてはならない。まさしく仮名垣魯文翁のような者は徳川時代の戯作者の後を踏襲して、そうしてこの混沌時代にあって放縦を極めただけである。柳北翁になると純然たる混沌時代の産物であり、天下の道義を嘲弄し、世道人心を放擲して、うろたえる風流に身を持ち崩した者である。私はあえて魯文、柳北の二翁を詰責するものではない。ただこのような混沌の時代にあって、指揮者を持たない国民の思想に一致すべきものは、悲しくもこのような種類の文学であることを明言するだけである。
眼を一方に転ずれば、彼の三田の福沢諭吉翁が着々と思想界における領地を広げていくのを見る。文人としての彼は孜孜として物質的知識の進歩を助けた。彼は西洋の文物に心酔した者ではないとしても、西洋の外観的文明を確かに伝道すべきものと信じていたと思われる。教師としての彼は、実用経済の道を開いて、人材の源泉を作って社会各般の重要な業務に応ずべき用意を厳重に行った。ゆえに西洋文明の思想界における密雲[人材]は、一度は彼の上に集まってそうして後に八方に散っていった。彼は実に平民に対する預言者の張本人である。前号にも言ったように、維新の革命は古今未曾有の革命であり、精神の自由を公共的に振分けようとする革命であったので、この際において最も多く時代に求められるべき者は、この目的にかなう者である。それゆえその第一着として三田翁は皇天の召に応じた者なのである。されど私が福沢翁を崇拝する者と誤解してはならない。私は公平に歴史を研究しようとする者である。この場合において、感情は私の友とするものではない。私は福沢翁を明治において初めて平民間に伝道した預言者であると認めるが、彼を完全な預言者であると言うのではない。私は、福沢翁に「純然たる時代の驕児[わがままな子]」という名称を贈るのをはばからない。彼は旧世界に生れながら、徹頭徹尾、旧世界を投げ捨てた人である。彼は新世界において広大な領地を有するけれど、その指の一本すらも旧世界の中に置かなかった。彼は平穏な大改革家である。しかるに彼の改革はどちらかと言えば外部の改革であって、国民の理想を先導した者ではない。
この時代に福沢氏とあい対して一方の思想界を占領した者は、中村敬宇先生である。敬宇先生は改革家ではなく適用家である。静和な保守家で、しかも西洋の文物を注入することに力を尽くした人である。彼の中には東西の文明が狭い意味において互いに調和しつつあるのである。彼は儒教、道教をその末路で救ったのとともに、一方においては西洋の化育を適用したのである。彼はその儒教的な中国思想をもってスマイルスの『自助論』を崇敬した。彼においては正直な採択があって熱心な事業はなく、温和な崇敬があって執着な崇拝はない。彼を明治の革命の迷子にしなかったのは、この適用、この採択、この崇敬があったからである。漢学思想を主眼とする多くの学者の中で抜きん出てよく革命の気運に馴致し、明治の思想の建設にあずかって大功をあげたのは、実にこのような特性があったからである。改革家としての敬宇先生は無論偉大な人物ではないが、保守家としての敬宇先生は、少なくとも思想界の一偉人である。旧世界と新世界とは彼の中にあって希有な調和を保つことができたのである。
福沢翁と敬宇先生とは新旧二大潮流の最も見やすい標本である。私は極めて粗略な評論をもってこの二偉人から去ることにしよう。ここに至って私は眼を転じて、政治界の変遷を観察しなくてはならない。
(明治二十六年五月六日 「評論」三号)
4. 政治上の変遷 明治文学管見の4
族長制度の真相は蜘蛛の巣である。その中心にその制度に適する全ての精神を集めるのである。そうして数百、数千の細流が、その中心から出て金環の周囲を綴り、そうしてまた再びその金環より中心に帰り注ぐものなのである。
このような真相を我が封建制度の上にも、私は同様に認めるのである。欧州各国の歴史が一度経過した封建制度と我が封建制度との根本の相違は、おそらくこの点にあるだろう。されど最も多く族長制度的な封建を完成したのは、これを徳川氏に見るのみである。足利氏は終始事件が多く、制度としては見るべき所は何もなく、北条氏は実権を保有したにせよ、その状態はあたかも番頭が主家にかわって処理するようだったのである。源氏になると極めて規模がなく、極めて経綸がないもので、藤原氏のような者はしばらく主家を横領した手代にすぎない。藤原氏の時代には政権の一部分は、なお皇室に属していた。源氏北条氏の時代には、政権はすでに大方が武家に帰属したと言っても、なお文学、宗教等は王室の周辺に集まっていた。下って徳川氏の時代になると雄大な規模で、政治も宗教も文学も、ことごとくその統一権力の下に集められた。徳川氏は封建制度を完成した。その「完成」とは、すなわちことごとく日本社会に当てはめたもので、再言すれば日本種族の精神がその制度において「満足」を見出すほどに完備したのである。
徳川氏は封建としては、このように完備した制度を建設した。ゆえに徳川氏の衰亡は、すなわち封建制度の衰亡にならざるを得なかった。日本の民権は、徳川氏において全ての封建制度の経験を積み、そうして徳川氏の失敗において、全ての封建政府の失敗を見た。天皇御親政は、すなわちその結果である。
徳川氏の失敗は、封建制度の墜落となった。明治の革命は二つの側面を持っており、その第一は御親政、その第二は連合体の統治者である。さらに詳説すれば、一方においては武将の統御に打ち勝った王室の権力があり、他方においては一団体の統治が乱れて連合した勢力の勝利があった。征服者として天下を治めた武断的政府は徳川氏をもって終わりを告げ、広い意味において国民の世論の第一の勝利を見た。そうしてこれを促したのは外交問題であったことを忘れてはならない。
およそ外交問題ほど国民の元気を煥発するものはないのである。これがなければ放縦懶惰、安逸虚礼等に流れて、覚束ない運命に陥るものである。徳川氏が天下に臨むと、法制は厳密で注意は極めて周到であり、このことで三百年の政権はほとんど王室の尊厳をさえ奪おうとするほどであった。しかるにあのように脆くも倒れたのは、よし腐敗が大に中に生じたことがあるにせよ、私は主としてこれを外交に帰せざるを得ない。そうして外交についても、おそらく国民の元気が、突然これに対して興起したことを、徳川氏の根底を突き崩した第一因としなければならない。
国民の精神は、外交によって覚醒した。その結果として尊王攘夷論を天下に弥漫させたのである。多数の浪人を、孤剣三尺、東西に漂遊させた。幕府衰亡の顚末は、福地桜痴居士の精細な叙述[『幕府衰亡論』]によって、その実況を知悉するのに十分である。私はこれを詳論するいとまはない。ただ私が読者に確かめておきたいのは、このように覚醒した国民の精神は、ただ徳川氏を倒しただけではなく、従来の組織を粉砕し、従来の制度を撃破し尽くすのでなければ、満足することができなかったことである。
明治政府は国民の精神の相手として成立した。国民の精神は、明治政府においてその満足を遂げ、ここまできて外交の問題もひとまず終局した。明治六、七年までは連合した勢力の結託は強固で、もっぱら破壊的な事業に力を注いでいた。しかし明治政府の最初の連合体は、むしろ破壊的な連合組織であり、破壊すべき目的の狭まっていくとともに、建設すべき事業において互いに撞着する所が出てきた。ここで征韓論の大破綻があり、佐賀の乱、西南戦争等は、おそらくその結果であるだろう。これから連合体から単一体に赴こうとする傾向に基づいて、政府部内の全ての競争が起った。全ての専制政体において同様のことがあり、私は明治政府だけを疑わしく思うわけではないのである。
私の眼を一転して、我が国の歴史において空前絶後である一つの主義の萌芽を観察させよ。すなわち民権という名をもって起こった個人的精神である。この精神を尋ねる時、私は奇しくもその発現を革命の主因であった精神の発動に帰さなくてはいけない数多くの理由を見出すのである。それは革命の成功とともに一旦は沈静したが、それは沈静ではなく潜伏であった。革命が成立するまでは、皇室に対して国家に対して起こった精神の動作であった。すでにこの目的を達した後は、どのような形でその動作を表すだろうか。
国民はすでに政治上は旧制度を打破して、万民はともに国民としての権利と義務を担っている。この「権利」と「義務」は、おのずから発達してきた。権利と義務の発達は、すなわち個人的精神の発達である。才能のある者を登用して政府の重要な政務を処理することとなった。そうして才能のない者といっても、一村一町が独立した権利と義務の舞台となって、個人的自由を享有するものとなった。富の勢力がすぐに立ち上がった。能力(アビリティー)の栄光はようやく現われてきた。必要は政府を促がして、法律の輸入をさせたのである。これを要するに個人的な精神は長大足の進歩で、狭い意味における国家的精神の領地を掠め去った。国民の自由を保護する武器として、言論集会出版等の勢力が、ようやく世に顕在化した。政府は未だにこれらの新傾向にどのように当たるべきかを知らないのである。明治政府はひたすら連合より単一に赴くことに意を鋭くしている。西南戦争はいささかはその目的を達したとはいえ、なお各種の異分子で互いに憎悪する者が政府部内に盤踞しているので、表面は堅固な組織のようであるが、その実は極めて不安定な国体であると言わざるを得ない。
(明治二十六年五月二十日 「評論」四号)
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