
北村透谷「「平和」発行之辞」現代語訳
キリスト教普連土会系の日本平和会が、明治25年3月15日に創刊した雑誌「平和」の第1号に掲載された「「平和」発行之辞」の現代語訳である。無署名であるが「平和」の編集長である北村透谷が執筆したものである。なお、フレンド会は内部の呼称であり、一般にはクエーカー教徒として知られている。透谷自身はクエーカー教徒ではないが、キリスト教宣教師の通訳および翻訳の仕事をしていたことからクエーカー教徒とのつながりがあり、日本平和会の創設に加わり、その文章力を買われて雑誌「平和」の編集長に抜擢された。
北村透谷は日本初の反戦平和雑誌の編集長であるが、その反戦平和活動は長く埋もれてきて、現在でも広く知られているとは言いがたい状況にある。その理由は、第一に文学関係者にとって、透谷の反戦平和活動は関心の対象外であったこと。たとえば最初の全集を編集した島崎藤村は、その活動は知っていたが、内容については関心を示さなかった。第二に透谷が自殺したため、キリスト教関係者からは透谷の仕事はタブー視され、外部に発信されなかったことによる。それが知られるようになったのは第2次大戦後のことで、岩波版の透谷全集を編集した勝本清一郎の貢献が大きい。
この現代語訳の底本としては、『透谷全集』第一巻(昭和25年、岩波書店)所収のものによった。
現代語訳「「平和」発行之辞」
北村透谷 著 上河内岳夫 現代語訳
過日、明治22年の秋に、少数の有志が会して平和会というものを組織した。それ以来同志を糾合して、相共にこの問題を研究してきたが、時機がようやく到来し、ここに一つの小雑誌を刊行して我が同胞に見えるという栄誉を得たことを感謝する。
「平和」の文字は甚だ新しい。キリスト教以外に対してはさらに斬新である。加えて世間の視聴をそびやかせるのには、都合のよくない道徳上の問題である。しかしながらおよそ宗教が世の中にある限りは、人が良心(コンシェンス[conscience])の世界から離れない限りは、私たちは「平和」というものが、必須で遠大な問題であることを信じる。私たちはいやしくもキリストの立教[立てられた教義]の下にあって「四海みな兄弟」という真理を奉じ、この大理を破って国々が傷つけあうのを、人類の恥辱はこれより甚だしいことはないと信じる。私たちは言う、キリストの立教の下にあると。しかしながら私たちは、どうして偏狭に自ら甘んじるだろうか。およそ道義を唱え、良心を尊ぶ者は、釈迦でもあれ儒者でもあれ、私たちはどうして喜んで袂を連ねないことがあろうか[行動をともにする]。私たちは政論家として、もしくは経世家として、この問題を唱道する者ではなく、最も濃厚な、最も着実な宗教家として、よく世の中の道理力と人の良心とを相手にすることによって、私たちの天職を尽そうとするのである。
そもそも、平和は私たちの最後の理想である。墳墓の他に、私たちを安心させるものがついにないとすれば、私たちは終わってしまうだろう。しかしながらいやしくも円満な最後の天地を念じて、私たちの理想となし得る限りは、「平和」の揺籠がついに再び私たちを心静かに眠らせるだろうと信じる。人と人との間、国と国との間における猜疑・欺瞞が、もし今日の通りで終わるとすれば、宗教の目的はどこにあるのだろうか。強者が弱者の肉を食らい、弱者はついに滅びざるを得ないという道理が、転々して長く人間界を制するならば、人間が霊長である所をどこに求めるのだろうか。キリスト、仏陀、孔聖[孔子の尊称]、誰か人類が戦いあい、傷つけあうことを禁じない者がいるだろうか。
その上、そもそも凶器の横暴な脅威が人倫をみだし、天地を暗くすることが久しい。特にヨーロッパにおいてそうであるとする。甘妙な宗教の光明も暗憺たる黒雲におおわれて、天上の悪魔が幕の上で大笑いするかに思われる。今や往年のナポレオンはいないけれども、武器の進歩は日々に新たであり、他のナポレオンを指呼のうちに[すぐに]作ることができるだろう。それによって全ヨーロッパを猛炎にゆだねることは容易である。これからの戦争は人種の戦争が最も多いだろう。「鏖戦[敵を皆殺しにするまで戦うこと]また鏖戦、都市を荒野に変えるまでは終わらない」と某政治家は言った。私たちが、平和の君を世の中に紹介することは、どうして偶然であろうか。
今や「平和」という一人の子供が、世の中に出た。前途は茫々としていて、行路が険しいことは知り尽くしている。大喝して迷霧を払うことは、私たちの願う所ではない。一点の導火となって世の中の識者を動かすことこそが、私たちが心から自らの任務とするところである。更に言うと、私たちは宗教と併行し、道心と相連なって私たちの希望を達したいと期待している。戦争は政治家の罪ではなくして、人類の良心が曇ることによって起こることを記憶されよ。幸に世の中の識者が来たって、私たちに教えよ。私たちを心配を言う人たらしめることなかれ。私たちは漁師を求めつつある[訳注:イエスの「人間をとる漁師にしよう」という言葉による]。私たちを空言の者とならしめることなかれ。天下に誰か隣人を愛することを願わない者があるだろうか。
(明治25年3月)