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北村透谷「我牢獄」現代語訳
北村透谷が、明治26年6月に脱蝉子の署名で「女学雑誌」に発表した「我牢獄」の現代語訳である。
勝本勝一郎編集による岩波版「透谷全集」では、「我牢獄」は「星夜」「宿魂録」の2作品とともに「小説」に分類されている。この短い作品をジャンル分けするのは難しく、「断想」あるいは「評論」(ドナルド・キーン『日本文学史』)に分類されることもある。これを小説ととらえるならば「一人称による独白体小説」ということになるだろうが、私たちが通常考える小説とは大きく異なっている。透谷研究の第一人者とされる勝本勝一郞が「『我牢獄』は申すまでもなく統合失調症の心理の典型的な結晶のようなものです。」(『座談会 明治・大正文学史(1)』(岩波現代文庫、2000年1月)と発言していることを付け加えておく。
透谷自身が末尾の「著者付記」において明らかにしているように、「我牢獄」は旧作を改訂して成立したものである。「我牢獄」と内容的に関連があるのは明治22年4月に出版したが自信を失って破棄された『楚囚之詩』であるが、『楚囚之詩』が実際の牢獄にとらえられた者を描いているのに対して、「我牢獄」は現実社会そのものが牢獄であるという観点で書かれている点が異なっている。さらに24年8月に「国民之友」に掲載された露伴「風流悟」に基づく記述があることから、勝本勝一郎は旧作が書かれたのは24年の下半期ごろであると推定している(勝本勝一郎『透谷全集』第2巻解題による)。
この現代語訳の底本としては、小田切秀雄編集『北村透谷集』(「明治文学全集 29」、2013年1月、筑摩書房)に所収のものを用いました。あわせて坪内祐三他編集『島崎藤村・北村透谷』(「明治の文学 第16巻」、2002年、筑摩書房)に所収のものを参照し、その脚注の一部を現代語訳に利用させて頂きました。深く感謝を表します。
現代語訳「我牢獄」
― 我が牢獄 ―
北村透谷 著、上河内岳夫 現代語訳
もし私にいかなる罪があるかを問われたならば、私は答えることができないのである。けれども私は牢獄の中にいる。もし私を拘束し捕縛する者が誰であるかを問われたならば、私はこれを知らないと答える他はないだろう。私は生まれつき怯懦[臆病で気が弱いこと]で、強盗殺人の罪を犯すことができる勇猛さはない。豆粒ぐらいの大きさの昆虫を害っても我が心には重い傷を受けたように思うのに、法律の手で私を縛らせるようなこと[悪事]は、どうして私がなし得るところであろうか。政治上の罪は世間の人がうらやむところと聞くが、私はこれを喜ばない。一時の利害に拘泥して空しく抵抗することは、私のなし得ないところであるからである。私は知らない、私は悟らない、いかなる罪によって繋ぎ縛られる身となったかを。
しかし事実として、私は牢獄の中にいるのである。いまさらに歳の数を数えるのもうるさい。とにかく私は数尺の獄室に押し込められているのである。私が投じられた獄室は世間の常の獄室とは異なって、全く私を孤独で寂しいままに放置した。古代の獄吏も近世の看守も、我が獄室を守る者ではない。我が獄室の構造も大いに世間の監獄とは相違している。まず私が座る、否、座らされる所と言えば、天然の大きな石で、私を囲むには堅固な鉄塀があり、私を繋ぐには鋼鉄の連鎖があり、これに加えて東側の巌端には危うく倒れかかった石があって私を脅かし、西側の鉄窓には巨大な悪蛇を住まわせて私を怖れさせ、前面には猛虎の檻があって我が室内に向けて戸を開いてある。後面には彼のインド辺りにいるという毒蝮の尾の鈴が、絶え間なく我が耳に響いている。[訳注:透谷はここでコブラとガラガラヘビとを混同している]
私は生れながらにしてこの獄室にいるのではない。もしこの獄室を我が生涯の第二期とすることができるならば、私は確かにその一期を持っていたのである。その第一期においては私もありとあらゆる自由を持ち、行こうと思うところに行き、住みたいと思う所に住んでいたのである。私はこの第一期と第二期とが甚だ懸隔するものであることを知っている。すなわち一つは自由の世で、他は牢獄の世であるからである。けれどもこうも懸隔した移りゆきを私は知らなかったのであり、私を捕らえた者が誰であるのかを知らなかったのである。今にして思えば、夢と夢とが互いに接続するように、我が生涯の一期と二期とは不明瞭な中で移り変わったに違いない。私は今この獄室にいて、想いを現在に寄せることができない。もしこれをなすことがあれば、私は絶望の淵に臨んだ赤ん坊である。けれども私は先にあった世を記憶するが故に希望があり、第一期という名称は面白くない。これを故郷と呼ぼうか、そうだ故郷である。我が想いの注ぐところ、我が希望の湧くところ、我が最後をかけるところ、この故郷こそが、私に対して我が今日の牢獄を厭わせるものである。もし私に故郷がなかったならば、もし私にこの期待がなかったならば、私はこの獄室をもって金殿玉楼と思い込んでしまって、楽しい娑婆世界と歓呼しつつ、五十年の生涯は誠に安逸に過ぎるに違いない。
私は我が天地を数尺の大きさと見なすのである。けれども数尺と計算することも人間の業に他ならず、これを数万尺と計算するのも同じく人間の業である。要するに天地の広狭は心の広狭によって決まっているものである。それなのに怪しいことには、私は天地を数尺の広さとして、己が座るところを牢獄と認めている。そう牢獄である。人間の形をした獄吏は来なくても、折々に見舞い来る者、これは一種の獄吏に他ならない。名誉がこれであり、権勢がこれであり、富貴がこれであり、栄達がこれである。これらのものが、私に対する異様な獄吏である。
彼らは私に対しては獄吏と見えるけれども、ある一部の人には天使のように見えるのである。彼らが人々を折檻する時に、人々は無上の快楽を感じるのである。我が眼が曇っているのか彼らの眼が見えないのか、これを判断する者は誰であるのか。
デンマークの狂気の王子[ハムレット]を通じてシェイクスピアが歌ったような、私は天と地との間を這い回る一人の痴れ者である。崇重な儀容をなし、威厳ある容貌を備えて、よく談じ、よく解し、よく泣き、よく笑っても、人間はついに何の戯れ言であろうかと疑っている。そうだ、我が五十年の生涯に万物の霊長として誇るべき日は幾日あるだろうか。私は私を低くするのではなく、私自ら私を高くしようとするのでもない。ただ我が自我をいかに荘厳に飾らせるとしても、ずっと自らを欺くことは忍びないのである。
私はいかに禅僧のように悟ってのけようと試みようとも、我が心宮を観察することが深甚になればなるほど、私はとうてい悟ってのけることができないことを知る。風流の道も私を誘惑することはあるが、私を、心魂をゆだねて、趣味と称する魔力に妖しいほど魅了されることに、甘んじさせない。常に言っている。人間はいかにいかなる高尚の度に達しても、結局のところある種の偶像に愚弄されるのに過ぎない。悟ると言っても、悟ることができないが故に悟るのである。もし悟るということを全然悟らないということに比べると、多少は平静で落ち着いた妙味があるけれども、これも一種の段階にすぎない。人間は結局は、多く話さなければ多く黙り、多く泣かなければ多く笑い、一つの偶像につかなければ他の偶像を礼拝する、一人の獄吏にむち打ちされなければ他の獄吏のむち打ちに会う。これもやむを得ないことで、獄吏と天使とを識別することができない盲目の眼をどうすればいいのか。
不思議なことに、私は我が天地を牢獄と観念するとともに、我が霊魂の半塊を牢獄の外に置くような心地がすることがある。牢獄の外に三千ないし三万の世界があるとしても、私には差別はない。私は我が牢獄以外を我が故郷と呼ぶが故に、我が想いの趣くところは広々と開けた一大世界だけである。そうしてこの大世界に私は我が悲恋を集中すべきものを持っている。捕らわれるこの獄室に入ってから、すべての記憶は霧散し去り、己の生年をさえ忘れ果てたにもかかわらず、私は一人の忘れることができない者がある。単に忘れることができないのみならず、数学的乗数をもって追々に広がって行っても消えることはない。木の葉は年々歳々改まっていくはずだが、我が悲恋は改まることはなく、いよいよ茂るだけである。大河の水は時々刻々に流れ去るけれども、我が悲恋は淀み淀んで満々たる大洋をなすだけである。不思議というべきは我が恋である。
もし我が想中に立ち入って我が恋う人の姿を尋ねれば、私は誤った報道をなすだろうから、言わないこと言わないことである。雷音洞主が[幸田露伴が「風流悟」で]言ったように、私は彼女の三百幾つと数えるどの骨を愛すると言うのではない、どの皮をよいと言うのではない、面白いと言うのではない、楽しいと言うのではない。私は白状する、我が彼女と対面した第一回の会合において、我が霊魂はその半分を失って彼女の中に入り、彼女の霊魂の半分は断たれて我が中に入り、私は彼女の半分と我が半分とを持ち、彼女も我が半分と彼女の半分とを持つこととなったのである。けれども彼女は彼女の半分と私の半分とをもって彼女の霊魂となすことはできず、私もまた我が半分と彼女の半分とをもって、我が霊魂となすことができない。この半分に切った二つの霊魂が合一するのでなければ、彼女も私も円成[円満に成就]した霊魂を持つとは言いがたいでであろう。それなのに私は思いがけず何者かの手に捕らえられて狭苦しい牢獄の中にあり、もし彼女を私とともにこの牢獄の中にあるようにさせるならば、この牢獄も牢獄ではなくなるだろう。否、彼女とは言わない、前にも言ったように私が彼女を愛するのはその骨ではなく、その皮ではなく、その魂であるので、私はその魂をこの牢獄の中でなんとか得たいと思うだけである。
日光を遮断する鉄塀は等しく彼女をも私から隔離して、雁の便りが通うべき空もない。夢というものが本当に頼むべきものならば、私は彼女とともに語る時がないわけではない。けれどもその夢も、はかないことに初めに私をたぶらかして、後には恐ろしい悪蛇が私を巻き締めることに終ることが多い。眠りを甘きものと昔の人は言ったけれど、私は眠りの中に熱汗を浴びることがある。ある時は、我が手で露の玉に潤う花の頭をうち破る夢を見、またある時は、春に後れて独りぼっちで飛んできた雌蝶の羽を我が杖の先で打ち落すこともある。かつて乱暴であったものを、彼女に会ってから和らげられた我が心も、たびたびの夢に虎が伏す野に迷い、獅子が吼える洞に投げられてから、再び荒れに荒れて我ながらあさましい心となった。眠りはこのように私には頼むことができないものとなったけれども、もし現の味気ないことに比べれば、欺かれるだけでも慰められる時間があるのである。
現における我が悲恋は、雪風が凛々と身に染みるような冬の野に、葉が落ち枝が折れた枯木がひとり立つよりも、激しいものだろう。そうだ、私はすでに冬の寒さに慣れた。慣れたと言うのではないけれど、私はこれを恐れる心を失ったのである。夏の熱さにも私は我が腸を沸かすようなことはなくなったのである。ただ我が九腸[腸の全体]を裂いてまた裂くものは、我が恋である。恋ゆえに悶えるのではない、牢獄のために悶えるのである。私は籠の中にあることを苦しむよりも、我が半魂の行方のために血涙を絞るのである。雷音洞主の風流は、恋愛をもって牢獄を造り、己がここに入って、その後にここを出たのである。けれども我が不風流は、牢獄の中に捕らえ繋がれて、その後に恋愛のために苦しむのである。我が牢獄は、私を殺すために設けられた。私もまた我が牢獄で死ぬことを憂いとはしないけれども、私を死ぬことができないようにするもの、それはすなわち恋愛である。そうして彼は私を生きさせることをもせず、空しく私を彼のデンマークの狂気の王子のように「我が母が私を生まなければ」と打ち託つようにさせるだけだ。
春が来たと感じられ、我が獄室からへだてること数歩の地に、ウグイスが来鳴くことがあって、我が耳を奪い、我が魂を奪い、私をしばらく故郷に帰って恋人の家に行ったという思いにさせた。その声を我が恋人の声と思って聴く時に、恋人の姿が我が前にあり、一笑して私を悩殺する昔日の色香は見えず、愁涙[憂え悲しむ涙]が青い頬に流れて、紅の血涙がとめどもなく流れるのを見るだけである。
軒端の数分の間隙からくぐり入るのは、世間の人が「嫦娥」とか渾名するという天女[月]であるけれども、我が意中の人の音信を伝え入れることをしないので、私は振り返って見ることもない。どこの庭に植えた花であろうか、折にふれては妙なる香りを風がもって来ることもあるが、我が恋う人の魂をここに呼び出す香りではないので、何の必要もない。気まぐれもののコウモリ風情が我が寂寥の調を破ろうとしてもぐり入ることもあるが、つかまえるには竿がない。たとえつかまえても我が自由は彼の自由を奪うことによって回復できるものではない。まして我が恋人の姿を、この見苦しい半獣半鳥[コウモリ]からうつし出すことを望めないことは言うまでもない。
このようなものが我が牢獄であり、このようなものが我が恋愛である。世間は私に対して害を加えず、私も世間に対して害を加えないのに、私はこのように籠囚の身となった。私は今無言であり、膝を折って柱にもたれ、歯を咬んで、眼をつぶりつつある。知覚は私を離れようとし、死の針は私の後に来て、機会をうかがっている。「死」は近づいてきた、けれどもこの時の死は、生よりも楽しいのである。我が生きている間の「明」よりも、今死する際の「薄闇」は私にとってありがたい。暗黒!、暗黒!、私が行くところはあずかり知らない。死もまた眠りの一種であるかも知れない、「眠り」ならば夢の一つも見ない眠りであってくれ。おさらばだ、おさらばだ。
(著者付記)
透谷庵主は、透谷橋[数寄屋橋]外の町住まいにあきて、近頃高輪の閑地に新しい庵を結んだ。樹はかすかで水は清く、もっとも浄念を養うのに便利である。たまたま「女学雑誌」の拡張に際して、主筆氏の許すところとなって、旧作を改訂して紙上に載せることとする。これはその第一である。もし全篇が佶屈聱牙[文章が堅苦しく難解で読みにくいこと]で、意義もまた了解しがたいところが多いことになると、私の文藻に乏しい[文才がない]ことの罪として、深くはお責めにならないことを願う。たた篇中の思想の頑癖になると、あるいは今日の私の思想とは異なるところであり、友人諸君は幸にして私のためにひどく憂うことがないように。
(明治26年6月、「白表女学雑誌」、第320号)