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高山樗牛「わがそでの記」現代語訳
高山樗牛は、明治期において極めて大きな影響力を持った評論家であった。その人気の要因として独特の感傷的な美文があった。時にそれは「散文詩」とも呼ばれ、特に若者からの大きな支持を得ていた。最も名高い随想が「わがそでの記」である。明治30年、『反省雑誌』[後の中央公論]に発表され、32年1月に刊行された『時代管見』に付録として収録された。
ここに書かれている事実は、明治28年、樗牛が25歳の年のことである。年譜によって「わがそでの記」の背景にある事実を追ってみよう(「日本現代文学全集 8 」(講談社刊)に所収の「高山樗牛年譜 改訂増補」、長谷川尚作成による)。
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
高山樗牛は、明治4年、山形県鶴岡市に生まれる。明治21年第二高等中学校に入学。明治26年、東京帝国大学文科大学哲学科に入学、読売新聞の募集に応じて「瀧口入道」を執筆。翌年、一等なしの二等に当選。年末弟が結核で死去。明治28年、9月『瀧口入道』を春陽堂から匿名で出版。11月文科大学生の日光遠足会に風邪をおして参加し、帰京後、悪化して気管支カタルで、東京大学の付属病院に入院。ベルツ博士の診察によって左肺尖に異常が認められる。転地療養を勧められ、熱海に移り、散歩・囲碁・大弓に時を過ごし、ハイネに読みふける。翌29年2月、大学病院の診断で今しばらくの暖地療養を勧められ、興津・大磯に転地する。さらに、3月には今後一両年の専念保養を要すると診断される。この間も森鷗外と論争するなど文学活動は継続していた。出席日数が少なかったものの、8月に大学を卒業。その後、第二高等学校教授として仙台に赴任。ただ翌30年3月には辞職して上京し、雑誌『太陽』の編集主幹に就任し、6月「日本主義を賛す」、8月「わがそでの記」を発表した。
その後のことも簡単に触れておこう。明治33年5月には、ドイツ、フランス、イタリアの三国に3年間留学することが内定した。これは夏目漱石のイギリス留学と同時期ということになる。ところが出発直前の8月に喀血し、結局翌34年に留学を辞退することになった。その後は東大講師になり、ニーチェの影響下に「美的生活を論ず」を、翌35年には「日蓮聖人とは如何なる人ぞ」を発表するが、結核が悪化して12月24日に死去、32歳であった。
「わがそでの記」に登場する姉崎嘲風(正治)、畔柳芥舟(都太郎)とは、大学の寄宿舎で同室であった。その後、姉崎は東大の初代宗教学教授となり、樗牛の没後には、樗牛全集の出版に編者として尽力した。畔柳は第一高等学校の英語教授となった。
この現代語訳では、底本として『高山樗牛集 姉崎嘲風集 笹川臨風集』(現代日本文学全集 第13篇)、改造社、昭和3年11月刊行などを用いた。
「わがそでの記」では、大きな段落の区切りに「空白の行」を用いている。ところが刊本によって空白行の設定について不統一が発生している。その原因は空白の行と改ページとが重なることによって、空白の行が消えることにあるようだ。本現代語訳では、いくつかの刊本を参照して段落を確定した上で、明確になるように「*」を用いて表示した。
現代語訳「わがそでの記」
ー 我が袖の記 ー
高山樗牛 著、上河内岳夫 現代語訳
もしも裏切られたら
より一層の信義を尽くせ
死ぬほど心が悲しければ
竪琴を手にしよう
[ハイネ「ロマンツェーロ」より]
世を憂きものとは誰が言い始めたことだろうか。想えば袖二つには包みかねた私の心は、嘆かわしいことに年を経て長い寝覚めの友となった。初夏の月がいとあわれな夜半、我ともなしに起き出して、すだれのつまを引き上げると、落ちるのは露か雨か。秋ならぬ風に桐一葉が散った。
里だったら今は寝てしまっただろうに、疎ましい身の程であることよ。心も遠い田越の里[現逗子市]に、夕波千鳥があわれに鳴き渡り、物寂しい空に連れだって、峰の松風は心から共に行方も知らず、木深くも吹き合わすものだなあ。
それでは、残る灯火を掻き上げて[灯心をかきたてて灯を明るくして]、人には見えぬ我が袖の幾年を記せるだろうか。心がむずかしく縺れているので、大息のみがいや増したのである。
* * * * * *
おととしの暮れ、私は日光に遊んで病を得たので、月の間は床につき、年の半ばを旅に過ごした。かくして病は癒えた。
まことに病は親しむべき友ではなかった。沈みもだえた心に、人生はその憂鬱な一面をもって迫るのである。楽しい、光ある世界は私を去って、悲しく暗い天地が、たよりない身を包むのである。涙を隠した皮一重が、力なく薄れていくと、泣く音をまぎらわす笑いさえ心にまかせない。色があさましく衰えて、肉が落ち、骨張った顔に、微かにあやしい光を浮かべる様子は、やはりこれは美しいとは言い難かった。総じて人が疎み嫌う中で、限りなき二つの世を敵として戦う病める人の心は、真に憐れむべきものであることよ。
私は病にかかって、ここに真の人生を初めて見たのである。いたずらに波を立てる世の常にかけ離れて、ここに静かな寂しい真の世相を初めて見たのである。利に走り、名に憧れる連中のほかに、真の友情を尊ぶべきことを初めて覚えたのである。いたずらに過ごした幾年の偽り多く、罪深いことを想って、青春が移ろいやすく、勝事がとこしえでないことを初めて嘆いたのである。
こうして私は、家から離れ、私の恋しい人々から離れ、この黙想を友に、身独りで東海のほとりをさすらった。冬の初めだったので、風がいたく身にしみた。
相模の国府津の里[小田原市]に宿った一夜、私はあやしい思いに打たれて、小夜更けるまで泣き暮らした。波の音も松風も、私の耳には慣れたので、寂しいながらもあやしくは聞こえなかったが、いと肌寒い枕のもとに涙のみは熱かった。この夕べ、都にいる人にとて薄墨にあわれを籠めた長い文は、封じもせずにやり捨てられたが、私は今に至るまで、自らそれがなぜであるかを知らないのである。
夜深くして夢にその人を見た。月の光は氷のごとく冴えわたって、そよとの風の音もなく、死んだような天地の間に、私のその人は、私を眺めてたたずんでいた。されどその面は鉛のように青白く、手に持った薔薇の花は見る影もなく枯れしぼんでいた。
* * * * * *
熱海のふた月は、まことに楽しいあわれ深い冬の暮らしだった。
よそならば吹雪に閉じられて、日影もうすい冬の真中も、名にし負う暖地なので、東風吹く風も寒くはない。睦月初めの梅が香は、早くも春を告げ初めて、野辺の焼け跡が緑なすのは、人の心もときめく頃か。苫屋どもに岩海苔の香りがするのもおかしく、芦の家に心細く立ち上る煙ものどかであることよ。
海原を遠く見渡せば、相模、安房の山々、雲か霞の姿は面白く、大島の峰[三原山]に立つ煙が春風にたなびくのに、水や空とも分かちかねた。沖の小島と誰が読んだか[源実朝、箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ]、初島を渡り漕ぐ舟歌が、寄る浪ごとに聞こえるのも床しく、魚見が崎のこなたより、渚を伝って、砂白く松青きほとり、浜千鳥の群れ飛ぶ様も趣があることよ。後ろには日金、十国の山々を負って、前には天空海闊[空と海が広々としていること]の間に一湾の春を擁する伊豆諸島の風光は、筆にはなかなか及びがたい。
国府津の里に宿った次の日、私は病の養生のために、この地に客となった。
私には業があったが、今やこれを捨てた。私に友があったが、今やこれから離れた。されど行李[旅行用の荷物入れ]の内に一巻のハイネ集を収めてある。私の業はなおここにあり、私の友はなおここにある。されど「ハイネ」は私のためには不幸な友であった。
如何なる星の下に生まれたのだろう、私は世にも心弱い者であることよ。暗がりに焦がれる私の胸は、風にも雨にも心して、はかない思いを凝らすのである。花は採るべく、月は望むべし。私の思いには形がないのをいかにすべきか。恋か、ない。望みか、ない。あわれ「ハイネ」は、私のためにそれを語った。
私は、まさない[不都合な]人に物のあわれを知り初めた。思えば葉末の露の本当にはかない終わりであった。月影のまどかな望みも、かつてはその中に写ったが、風そよぐ夜明けの野辺に跡もなく、百夜の肘の端書きに、君が命と嘆いたのも、思えばあだな夢であった。こうして、私の心はとこしえに癒えることがないように傷つけられた。私はこの思いを誰に語るべきか。月の夕べ、雨の朝、私は「ハイネ」を抱いて共に泣いたこと、いくたびか。
かの麗しい風景に会うごとに、私は帰らぬ昔をしのぶのである。山の形、水の姿は、私の心にささやいて、私は言いがたいあわれを覚えるのである。人知れず絞る袂に、私はどれほどその思いを包んだのか。ああ、魚見が崎よ、錦の浦よ、私は汝のために幾つの涙の痕跡をしるしたのか。
月の明るい一夜、私はひとり波打ち際にたたずんだ。浜千鳥の声は絶えて、浦風が澄む磯馴れ松、浪の音のみがとても冴えている。夢のような水煙は、山の端を白く閉じ込めて、空には星の影はまれである。私は岸辺の松にうちもたれて、故郷を遠く思いかえした。
想えば遙かにも来たものだなあ。我が父母に別れ、我が兄弟に背いて、私は独り、何のためにこの地を漂泊するのか。我が命を分けた弟は、私に先立って死に、私を愛した姉上も、また帰らぬように行ってしまわれ、私が誓っていた人は、永くに私に背いた。私は何のために独りこの世にとどまるのか。山は青く、水は白く、幾千万のこの大塊に、人が生まれるのは何の因縁だろうか。花は飛び葉は落ち、風は吹き鳥はなく。会うのは因縁か、別れるのは応報か、いずれ終わりは同じ流転の世に、人は何を望んでの五十年の命であるのか。
月が冴え、波は静かで、真にしめやかな夕べであった。おろかな私はなすこともなく、小夜更けるまで、立ち尽くしていた。
また別の夕べ、私は「ハイネ」を携えて磯辺の小高い丘に登った。夕日は山の彼方に傾いて、半天の雲は残んの光に色づいていた。大島山の夕煙は、薄紫にたなびいて、山水水色、入日とともに黒みゆくにつれ、目もはるかな帆影の空に入るのを、我が心は行方知れずになったように、うっとりとして見つめていた。我が手は思わず「ハイネ」に触れて、私が愛で読んでいる「望みなき人」は開かれた。
想えば、望みや、恋は、望みなく残りなく破れ果てて、私は、海に情なく打ち寄せた屍のように、この荒れすさんだ、冷ややかな磯辺に横たわった。我が前には海原があり、我が後には苦しみと悲しみとがあり、かの悩ましげに覚束なく空を行く雲は、我が一生にも似ていることだ。浪が寄るのを見、鳥が鳴くのを聞くと、さすがに過ぎてしまった年が忍ばれて、忘れてしまった夢が今更に繰り返されるのである。静かなれ浪よ、鳥よ、我がこの世の命は早くもすでに往ってしまったのを知らないのか。私は書物をとじて顔を覆った。
見渡せば、日は名残なく暮れ果てて、里には灯火が輝いた。山も島も限りなく小さく遠い心地がして、脚下に響く浪の砕ける音も、程はるかに聞こえ、身はようやくこの世に離れて、奈落の底に沈むだろうと思えた。私は心細さに耐えることができず、急いで帰って、着物をひき被って伏した。
熱海に行ってから数日が過ぎて、私は「ハイネ」のほかに、旧知の人を得た。都の我が友の姉崎嘲風が尋ねてきた。
嘲風は京都の人で、私とともに大学に入って、哲学を修めた。彼は宗教哲学に志し、私は美学と文明史に力をいれた。彼の穎脱の才をもって、私の魯鈍の質に配したのは、もとより相応しくなかった。されど嘲風は私を知り、私はまた嘲風を知り、私は彼において百年の知己を得たのであった。そのころの彼は、今の私と同じく妻がなかった。されば山巓水涯に、憂いをゆるめて精神を養うことにおいて、彼と私とは多くその行をともにしていた。私が病んで床にあると、彼は朝夕に私を気に掛けてくれた。私が旅に病の養生をすると、彼は三亭[三つの旅宿]の路を遠いともしないで、私を訪ねた。私が嘲風に負うところ、何をもって答えようか。
嘲風が来て、私は、「ハイネ」に背くこと幾日であったか。嘲風は私にために学校のことを言わなかった。私は嘲風のために煙霞を説明した。月の夕べ、伊豆山の古堂で詩歌を口ずさみ、花の朝は茂木氏の山荘[熱海梅園]を訪れた。都では得がたい楽しみであった。
嘲風はグリルパルツェルの悲劇「サッポー」の一巻を携えていた。
熱海より南のかた、錦の浦をつたって網代の港に連なる所の一角を魚見が崎と名づけている。一段と高くそびえて海抜は百丈、断崖は直に下って斧で削ったかのようである。ある日の夕べ、私は嘲風と共にここに上って、サッポーを読む。この女性詩人が入水したと伝えられるレウカスの岩は、この魚見が崎のそばに似ているのではないかと思ったからである。
ああ、サッポーよ。汝が逝った日の幾千年後に、私がいることを汝は知っているだろうか。レスボスのことは、年月が経ったままで知らないが、私は汝の名を聞けば新しい哀れを覚えるのである。世に女性の哀れは多いけれども、思いはいずれひとつの魂にうつる恋路の影であるとか。己も人も知り得ぬ思いに心が破れて、一山おろしに跡もない東岱前後の煙[火葬の煙]と立ち昇る、かよわい人の数は、あわれ、何人の罪であるのか。思えばままならぬ世であることよ。偽りの多い世であることよ。
ああ、サッポー、汝は類いなき詩人であった。その奏でる琴には現世ならぬ響きを宿し、その歌う歌には天上の声があった。ヘラスの人々は、汝を詩神の列に加えてオリュンポスの社に祭った。されどその最後の幸は汝にはなかった。
サッポーは人の子であった。人の子として恋というものに憧れた。まことなき人は彼女を愛し、まことなき愛は彼女を悩ませた。あわれ彼女が望んだ幸福は、人間のものではなかった。かつてまことを誓っていた人を抱けば、胸に蛇があって彼女を死ぬように咬んだ。不信が充ち、虚偽がみなぎる世に、彼女は泣いて悲しんだが時はすでに遅かった。青年ファーオンは彼女を欺き、女奴隷メリッタは彼女を裏切った。
彼女はすなわち夜叉となって匕首をとった。彼女は人の子であったからである。されど事を果たさなかった。瞋恚の炎[激しい怒り]が胸に燃えて、彼女がついに悪魔となろうとするとき、天上の光が彼女の胸に輝いて、彼女はこの世の人ではなかった。かくて彼女の最後の跡は、レウカスの岩頭に残った。
ああ偽信が天をひたすこの濁世に、私はますますサッポーを悲しむ情に堪えないのである。サッポーが逝って幾千年、星は移って物は代わったけれども、世の偽りは今もなお昔のようである。しないほうがいいのは、恋であるなあ。
世に苦しいことは沢山あるが、神にかけて望みをおいたその人が、まさなくも卑しい性を表すのを見るほど苦しいことはないだろうなあ。我が恋人の偽りを見るよりは、むしろ我が身が死ぬ方が、いかにはるかに幸せであるだろうか。サッポーの死は遅かった。
日は西に傾いて、海面は広く輝きわたる。私は思いに沈んで、崖の上に座した。見渡す限りの彼方から、静かに緩やかなうねりが岩近く打ち寄せるさまは、私に一種の厳かな感情を起こさせた。何処よりともなく、我が耳に近くささやく者がある。立って脚底を見下ろせば、名にし負う魚見が崎の深淵は、暗々として大蛇が口を開いているようである。私は慄然として書物を落としたのである。
空には三日月の光があった。私は天を仰いで久しい間嘆息した。これより私は永くサッポーを読まなかった。
* * * * * *
私はかつて友である詩人に問うたことには、あなたが麗しい言葉で歌い読んだかの美しい乙女は、どうしているか。あなたの眼にどうして光がないのか。友の答えはまことに哀れであった。
いやいや、かの光は人の信と共に消えてしまった。胸に炎が消えたので、歌った歌は還らぬ恋の灰であるよ。彼はサッポーではなかった。
* * * * * *
十国峠に登って眺め見おろすのは、こよなく壮快な遊びであった。この峠は箱根から天城に連なるいわゆる富士火山脈の一峰で、頂に登れば関の東西から伊豆の沖にかけて、十国五島を眺めることができると言われている。ある日の空が晴れ渡ったので、私は嘲風とここに遊んだ。
山頂は熱海から五十丁を出ないので、すごく高いとは言いがたい。されど相模、駿河の二州にまたがって、北は足柄、箱根、富士より、南は天城、函南より大島、三宅の山々に臨み、西は江の浦、静浦を眼下に見おろし、名にし負う田子の浦つたいに清見が関より三保の松原にかけて、遙かに遠江の御前崎に至るまで、東は真鶴崎の向こう、小田原、国府津、こゆるぎの磯辺にそって、江の島、鎌倉の山々から、田越、三崎の果てに至るまで、相模灘を包んで、かすかに安房、上総の山並みを望む。形も物もその壮大さは並ぶものがない。
ことに美しいのは、江の浦より清水に至るまでの田子の浦の景色であることよ。富士の裾野を縫う小松原の濃い緑が蒲原、興津を渡って、淡い紫に薄れていく様などは、心ゆくばかりにうれしく、天つ乙女[天女]が天下ったのだろう三保の松原が、春霞に霞むのが、この世ならず見えるのも床しい。仰げば高い富士の嶺の千古の姿は、言うもおろかである。ああ、誰が作り上げたのであろうか自然の美しさよ。どうして人のみがこのように汚れているのだろうか。
箱根の一峰に雲が起った。初めは膚寸の大きさだったが、谷が開けて風が加わってようやく広がり、はては八峰の全面を覆って、にわかに西の方にたなびいた。愛鷹の峰にかかる頃、富士おろしに逆らったのか、雲行きは、たちまち天に向かって剣抜万丈、二山の間に白雲の壁が築かれた。その頂は、山風に散じて満天を覆い、もうもうとして咫尺をわきまえなかった[近くも視界がきかなかった]。私は衣の襟をあわせて、長い間、ひとみを凝らしていた。嘲風はつえを振るって天を画して、三度快哉を叫んだ。しばらくして空が晴れて、箱根の高山、富岳の清容はもとのようである。満天の雲霧がどこに行ったのかを私は知らない。
ああ天地には風雲が多い、人間はどうして涙を流すことがしきりなのだろうか。
* * * * * *
嘲風は私と二旬[二十日]いて、彼は事があって都に帰り、私はまた「ハイネ」と残った。
私の隣室に少女がいて、旅窓のつれづれを慰めようと、私に水仙の花を送ってくれた。私は器に水を差して、朝夕にこれを養っていたが、幾日もたたずに萎んでしまった。
水仙の花よ、水仙の花よ、なぜしぼんでしまったのか。私の志が足りなかったからか。長く思うことが残っているからか。
おお愚かや、思いの根に生えればこそ、色も香りもあるのだ。どうして移り気な人の手に養われるだろうか。どうして移り気な人のために形作るだろうか。
水仙の花よ、水仙の花よ、世は濁り、人はけがれている。長く生い栄えるべき野辺には、この世ならぬ露があるだろうか。私には恨みがあり、人には笑いがある。世には恥なるものはない。神の御国が遠いので悔い改める術を知らない。ああ私は汝に似合うのだろうか。
哀れな水仙の花は、声なくして終にしぼみ果てた。
* * * * * *
弥生の初め、私は熱海を去って、清見が関の古跡[静岡市清水区清見寺]を訪れた。
松風が遠く吹き合わせて、波の音も微かな物思いがまさる夕べであった。私はひとり宿を立ち出て、三保の松原に遊ぶ。入り日の影は雲にのみ残って、月は未だ上らず。田子の浦の浦曲の夕なぎに、千鳥の声もいとまれである。江尻、清水をはや過ぎて、龍華寺の輪塔を右手に見る。袂に寒い山おろしに、入相の鐘を吹き送って、早春のあわれがひとしお深い。三保に辿り着いた頃は、月がようやく上り、清見潟の水煙は関路はるかにたてこめて、富士の高嶺に雪の色が白い。見渡せば一帯の松林は、木深くも生い茂っていることよ。木立が震える月の明かりに、残る雪の色がさえて、森の下道は杳として、霞に落ちる影もない。波の音はだんだんと近く、私は羽衣の松に添って立った。
羽衣の松は、私が年久しく思い焦がれていたものであった。さあそれでは今宵は月とともに立ち明かそうではないか。
松は早く枯れて、幹の破れたのが残った。その下にゆかりを誌した碑があったが、月の光がおぼろで、見えず分からなかった。あわれ波の音と松風のみが、今も昔に変わらなかったのだろう。
私は夜もすがら松の木陰で泣き暮らした。それがなぜであるかを覚えなかった。頼りなき身でただ一人、駿河の三保の松原に泣き明かすと思うと、私は涙の流れるのを忍ぶことができなかった。私が泣いたとしても、誰が哀れと見るだろうか。私が笑ったとしても、誰が楽しいと見るだろうか。広い天地の間に、我が胸の琴は群れを離れた雁が音の、類いなく寂しい響きがするのである。私はただこう思って思わず号泣した。
思う昔、私にも天つ乙女があった。されどその乙女は真がある者ではなかった。こうして空しい思いに我が胸は破られ、癒えることがないように傷つけられた。数多の幸いは、帰えらざるように私を去った。
月は半天に上って、地には人の気配すらない。ああ月よ、永久にその歩みを止めてくれ。永久の夜が、この世界を覆い包んでくれ。風よ、吹け。波よ、くだけよ。松はその響きを鳴らしてくれ。こうして人間の声を天籟[自然の音]の中に埋め尽くしてくれ。
夜は静かで、我が声は遠く松原の彼方に響き渡った。されども月に映る我が影はひとつであった。
この夜、夢に天女を見たが、彼は羽を持たなかった。その白い百合のような指で私の胸を押さえたとき、私は言葉なく泣きくずれて、このまま露となって溶けてくれと願った。されど我が耳にささやく彼の言葉は、私を呪うものであった。覚めて後、私は天女の名を問わなかったことを悔やんだ。
清見が関の幾夜はこのような思いに明けたのであった。弥生も半ば過ぎて、花やこの世の楽しい時を、私はまたあてのない旅に憂き身をやつした。あるいは静浦のほとりをさすらって、桜が島[未詳]の遺韻を尋ね、あるいは伊豆の山に分け入って、修善寺に薄幸な将軍[源頼家]の墓を訪れ、行き行きて卯月の初め、湘南に入って田越の里に客となった。ああ、私はどこに我が満足の地を求めるべきだろうか。
嘲風、芥舟が、都から来て訪問する。私はまた「ハイネ」の他に友を得た。薄暮、潮流に乗じて海に漕ぎ出す。嘲風が艪をとって立ち、私は舳先に寄りかかって「ハイネ」を読む、芥舟は船べりをたたいてこれに和す。されど三人の感じるところが、同一であり得るだろうか。
* * * * * *
半年の漂泊に病は癒えたけれども、我が心の傷はいつしか新しい痛みを感じ始めた。私は努めて笑った。人はその笑いがどれほど苦しいかを知らないのである。
飛陽はつなぎがたく、流光はささえがたい。嘲風は、佳偶[よい連れ合い]を迎えて部屋に欄の香りが匂っている。私は残灯に向かって、孤影蕭然として今もなお「ハイネ」を読む。
さびしくわたしはこの[恋の]苦しみを訴へる
夜のふところに抱かれて
いそいそしてゐる人を避け
喜びの笑ふところも逃げずにゐられない
さびしくわたしの涙は流れてゐる
いつも靜かに流れてゐる
しかも燃える心のあこがれは
涙でさへも消しはせぬ
[生田春月訳(『ハイネ詩集』より)]
初夏のしめやかな夕べ、相模の田越の里にて
(明治30年6月、『反省会雑誌』)