見出し画像

田山花袋「露骨なる描写」現代語訳

 尾崎紅葉の門下として作家の道に入った田山花袋が、評論「露骨なる描写」を発表したのは、明治37年、33歳の時で、西洋文学の影響のもとに写実主義、自然主義への道を模索していたときであった。この評論を執筆する契機となったのは、36年10月の尾崎紅葉の死であり、これによって田山花袋は古い考え方から開放され、新たな道に進む自由を得たのである。この評論が書かれた時には、友人島崎藤村はまだ詩人であった。藤村が自然主義の代表作である『破戒』を発表するのは明治39年、花袋自身が『蒲団』を発表して自然主義を代表する作家となるのは、明治40年のことである。

 なお、この評論は、明治39年11月に刊行された『美文作法』の附録として、そのままの形で収録されている。博文館は、当時、一般向けの作文法のシリーズ「通俗作文全書」(全24冊)を刊行しており、『美文作法』はその第3編として出版されたものである。(なお田山花袋は、このシリーズから『小説作法』(42年6月)も刊行している)。田山花袋は、この本の目的を「少年の文を学ぶものの参考書たるにある」としているが、美文の書き方を教える本の付録に、技巧の否定論である「露骨なる描写」を収めるのは、いかがなものかと思われるところである。

 この現代語訳の底本としては、『田山花袋集』(日本現代文学全集21、増補改訂版)、講談社、昭和55年5月刊行を用いた。『美文作法』については「定本花袋全集」第26巻、臨川書店、1995年6月刊行を参照した。段落の長さにばらつきが見られたので、読みやすさの観点から、短い段落を統合して段落の数を減らした。

現代語訳「露骨なる描写」

- 露骨な描写 ー                        

田山花袋 著、上河内岳夫 現代語訳

 近頃、文壇で技巧と言うことを説く者がある。技巧か、技巧か。私はすでに明治の文壇がいかに尊い犠牲をこのいわゆる技巧なるものに払ったかを嘆息する者の一人で、このいわゆる技巧を蹂躙じゅうりんするのでなければ、日本の文学はとても完全な発展をすることはできないと思う。

 技巧論者は言う、「近時の文壇を見ると紅露逍鷗[尾崎紅葉、幸田露伴、坪内逍遙、森鷗外]の諸大家はすでに沈黙して、後進のやからがいたずらに末流の文壇に跳梁ちょうりょうして、その文体の支離滅裂なこと、その文章が粗雑で乱暴なことは、とうてい美術鑑賞者の鑑賞に値するものではない」と。なるほどそれはそうかもしれない。紅葉先生の時代から比べると、文体の乱暴、文章の粗雑は、ほとんど驚かれるばかりであるかもしれない。けれども私は質問したい、「いわゆるその技巧が盛んであった時代に、果たして奔放で押さえることのできないような思想を発見することができたか、どうか」と。いわゆる技巧時代には、文章の妙はあるだろう、字句の豊富はあるだろう、思想の華麗はあるだろう、結構の妙や脚色の奇もあるだろう。けれどもいわゆる技巧時代には、天衣無縫で、雲が行き水が留まるような自然の趣を備えた渾円こんえん[真ん丸]な製作品を得ることができたかどうか。

 虚偽が卑しむべきことは誰もが知っている。文章と思想とが一致しない文字が、一笑にも値しないことは、識者がみな唱える所である。しかるに、今の技巧論者は、思いが伴わない文章を作り、心にもない虚偽を紙上に連ねて、それで「これは大文章である、美文である」と言おうとしているようである。今さら言わないでも分かったこと、文章は達意のみで、自分の思ったことさえ書くことができれば、それで満足である。拙かろうが、うまかろうが、自分の思ったことを書くことができたと信じ得られさえすれば、それで文章の能事は立派に終わるのである。何も難しい字句を連ねたり、色彩ある文字を拾い集めたりして、懊悩煩悶するには少しも当たらない。とはいえ、私は文章についてあらゆる術を排すると言うのではない。文章が思想と一致するまでの苦心は、充分にしなければならないのは知っている。けれど今の文壇における技巧論は確かにこれを言っているのではない。今の技巧論はあまりに今の文章が露骨に陥り、口にするまじきことを言い、筆に上すまじきことを書き、いわゆる美術鑑賞家の小さな胆を破るようなことをするのを憤慨して唱えられた議論である。

 美術鑑賞家、この人たちの言う所にしたがえば、文章はあくまでも綺麗でなければならない。思想はあくまでも審美学の示す所にしたがわなければならない。自然を自然のままに書くことは甚だしい誤謬で、いかなる事でも、理想化すなわちメッキせずに書いてはならないと言うのである。これは随分久しい昔からの勢力で、クラシシズム[古典主義]はもちろん、ロマンチシズム[ロマン主義]も全くこれによって行動し、19世紀の後半期までは、このメッキ文学でなければほとんど文学ではないようにまで思われたのである。けれども19世紀の革新以降の西洋文学は、果たしてどうであろうか。そのメッキ文学がめちゃめちゃに破壊されてしまって、「何ごとも露骨でなければならない、何ごとも真相でなければならない、何ごとも自然でなければならない」と言う叫び声が大陸の文学の至る所に行き渡って、その思潮は疾風が枯葉を巻くような勢いで、まさにロマンチシズムを蹂躙してしまったではないか。「血にあらずんば汗」、これが新しい革新派が大声で叫ぶ所であったではないか。

 虚言だと思うならば、イプセンを見よ、トルストイを見よ、ゾラを見よ、ドストエフスキーを見よ。その作中にいかに驚くべき血と汗とが込められているか。ことにドストエフスキーの『罪と罰』のごときは、技巧論者が見て胆を潰すような作で、その何事をも隠さない大胆で露骨な描写は、文章の綺麗を求め、思想のメッキしたのを望む技巧者たちが、夢にも見ることができないものである。また、イプセンにしてもそうである。その多くの戯曲の中に爪の垢ほども飾ったような、作ったような所はない。まず、例として『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を引こう。このページのどこに技巧をもてあそび、結構を作った所があるであろうか。私は、ただただ自然な一事実が痛切に我々の精神に響いてくるより他に、さらに何らの脚色をも思想をも見出さないのである。否、私の血と汗とは直ちに巻中の人物の血と汗とに触れて、淋漓りんりとして血と汗がともに滴るような感を覚えるのである。また、『野鴨』を見よ。その性情の発展の順序、その遺伝的な罪悪の消長、いかにそこに新しい痛切な思想が我々に迫るのをを覚えることか。

 また、イタリアの新勇将ガブリエーレ・ダヌンツィオを読んでご覧なさい。あるいはその文章の技巧のみを見て、「さすがは文章家だ」と喜ぶ人もあるかもしれないが、私の見る所は全くこれと観察を異にしている。ダヌンツィオの書物を読んで、痛切なあるものを感じるのは、決してその文章が技巧であるからばかりではなく、その描写が、あくまでも大胆に、あくまでも露骨に、あくまでもむ所がないからである。すなわち、彼もまた19世紀末の革新派の潮流に浴した一人であるからである。ことに、その作『罪なき者』のごときに至っては、露骨も露骨、大胆も大胆、ほとんど読者が戦慄するのを禁じ得ないようにさせるものがある。否、こればかりではない。19世紀末の革新派の思潮に浴した者は、誰とてこの影響をこうむらない者はなく、ドイツなどでもヴィルデンブルッフ、パウル・ハイゼなどの老成なメッキ文学と相対して、ハウプトマン、ズーダーマン、ハルベ、ホルツなどの諸作家が新しい旗幟[自然主義のこと]を掲げているさまは、実に目覚ましい光景である。

 ひるがえってわが文壇を見ると、紅露逍鷗の時代は、少なくとも老成文学の時代であった。その証拠には、審美の議論もなかなか盛んであったし、理想小説・観念小説のもくろみもしばしば繰り返されたし、文章の一字一句も容易におろそかにされなかった。否、文士は多く文章の妙をもって世に知られ、結構が優れたことをもって人に称賛された。その結果として我々は果たしてどんな作品を得たかと言うと、多くは白粉おしろいがたくさんの文章、でなければ卑怯小心の描写で充たされた理想小説、でなければわざと事件、性格を誇大に描いて、人を強いて面白味を覚えさせるメッキ小説である。そうかと言って、今の文壇が非常に優れたものを産出したと言うのではない。否、その作品はかえって老成時代より完成していないかもしれない。けれど私は、今の文壇は西洋革新派の奉じる「露骨な描写」と言うことについては、大いに得る所があると思う。それは「どういう作者を指すか」と問われるなら、私は、[小杉]天外君、[小栗]風葉君、[柳川]春葉君([泉]鏡花君は、明治文壇の異彩で、この思潮からは、遠く独立していると思う)、[徳田]秋声君、[広津]柳浪君、[川上]眉山君、[後藤]宙外君、その他の諸君の作品に、間接あるいは直接に充分に現れていると答える。であるから、私の考えでは、この露骨な写実、大胆な描写、すなわち技巧論者が見て「粗雑だ、支離滅裂だ」とする所のものは、かえってわが文壇の進歩でもあり、また生命でもあるので、これを悪いという批評家はよほど時代遅れではあるまいかと、私は思う。

 あるいは言うかもしれない、「露骨な描写が、なぜ技巧と相伴うことができないのか」と。その訳は、露骨な描写は技巧と相まって、いよいよその妙を極めはしないかと言うのである。けれど私は信じる、「露骨な描写をあえてすればあえてするほど、いわゆる技巧とはいよいよ乖離して行くものであろう」と。なぜかと言うと、事がいよいよ俗であれば文はいよいよ俗になり、様子がいよいよ露骨であれば文がいよいよ露骨になるのは、自然の勢いであるからである。

 私は明治の文壇が久しい間、いわゆる文章、いわゆる技巧なるものに支配されて、充分な発達をすることができないことを甚だ遺憾に思った一人である。文士がいずれも文章に苦心し、文体に煩悶した結果、果ては、[饗庭]篁村調とか、紅葉調とか、露伴調とか、鷗外調とか言う、一種特別な形式に陥って、自ら自分の筆を束縛して、新しい思想を持ちながら、しかしその一端をもその筆にのぼすことができず、空しく文章の奴隷になっている者が多いのを見もし、試験もして、少なからず遺憾に思ったのである。したがって、この文章の束縛を脱して多少新しい方向に進み、奔放な思想をも描くことができるようになったのを喜ばしくも頼もしくも思ったのである。しかるに今思いがけず、再び技巧論がここかしこに起こるのを聞いては、私は黙ってはいられない。まして技巧論は単に技術の上のみの論ではなく、確かに今の思考、認識の上にも関係しているのであるから、これは一つ諸君の議論をも詳しく聞いて、大いに研究する価値が充分にある。

 つぎに、この頃、姉崎博士[姉崎嘲風]などの手によって、新ロマンチシズムと言うことが盛んに唱道されて、ワーグナーの楽劇などもだんだんわが文壇に紹介されつつあるようだが、この傾向も私が今まで言った「露骨な描写」と言うことと大きな関係があるので、日本の新ロマンチシズムも今少し自然主義と交渉する所があってもよい。けれどあまり露骨を振り回すと、また、技巧論者から「粗雑だ、支離滅裂だ」などと言われるから、ひとまずこれでやめます。

(明治37年2月、『太陽』)

いいなと思ったら応援しよう!