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上國料萌衣さんは私の命の恩人です

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上國料萌衣さんは私の命の恩人です。
あんまり湿っぽい話を書きたいとは思いませんでした。
ですが、自分はなぜこんなに上國料萌衣さんのことを思い続けるのかと考えると、それは上國料萌衣さんに救われているからなんだという結論に思い至りました。
勝手に思っているだけです。
ですが、人生、思うように行かないことだらけなのが現実です。
それどころか、思いもよらないようなことが時として起こります。自分で望んだわけでなく、予見すらしていないようなことが起こります。それによって、人生設計と言ったら大げさかもしれませんが、これからこうしようという事柄が大きく狂わされることがあります。こんなハズジャナカッター♪と陽気に歌えたらいいんですが、それにしては重たい話になるのでやめておきます。でも、タイトルと書き出しにもあることはまったく持って真実です。本当にそう思っています。身の上話になってしまうかも知れませんが、まとめ切れていなかった上國料萌衣さんの卒業を控えた今の心境として少しづつ書き溜めていこうと思います。

散々呟いている話なのですが、私はアンジュルムというグループを知りませんでした。スマイレージのことも知りませんでした。ただ、視聴していた番組がきっかけでberryz工房と℃-ute、Juice=Juiceは知っていました。ハロプロってなんだか面白い子たちが所属しているんだなあ、そんな程度に聞きかじってはいました。
そして、LoVendoЯというグループのライブに行くようになりました。ロックってなんだという風情だったのですがとても面白くて魚住有希さんというギターリストの方を好きになりました。そしてその方が、アンジュルムというグループに曲を書いたと聞きました。アンジュルムって何?というスタンスだったのですが、その前身がスマイレージでと言われてもはてな?でした。しかし調べていくうちに順風満帆というわけではなかったグループなのかなと思っているところへ、今度新メンバーが入るという話を聞きました。
特に何か心にくるものがあったわけでなかったと思うのですが、私はなぜか上國料萌衣さんの加入特番を視聴して彼女のお披露目イベントのチケットを両部手にしていたのでした。
とても面白かったです。初めてヲタと会話をしました。ハロプロとはどういう所なのか、ペンライトはどうやって点けるのか、今後服装はどうしたらいいのか、懇切丁寧に教えていただきました。またぜひお会いしてみたいのですがあれ以来お会いできていません。
ともかく、アンジュルムが自分の真横の通路を通り過ぎていって、何がなんだかわからないままイベントが終わって渋谷O-EASTを後にしました。そして、アンジュルムとは、上國料萌衣とはいったいどんな子なんだ、そんな一心でコンサートやライブ、イベントにとにかく申し込みました。
初めてイベントではない彼女たちのライブパフォーマンスを見たのは田村めいめいの卒コンとなる武道館の九位一体でした。初めて武道館に足を踏み入れて、武道館と言えば聖地というか大きな玉ねぎの下でのイメージが強かっただけに意外と狭っこいんだなという印象でした。パフォーマンスは圧巻だったのですが私は上國料萌衣さんしかほぼ見ていませんでした。記憶もそこしかありません。
その後もライブ、コラボイベント、リリイベ、初めて遠征というものにも行きました。そしてそこで地元のヲタさんたちとの交友も生まれました。
行き始めた当時はライブ後握手して一言話すことができました。緊張しすぎてありがとうぐらいしか言えませんでしたがあの時のことは鮮明に覚えています。だって、映像や天空席くらいでしか見てなかった方が、眼の前にいて小さな手の柔らかさを感じているんですから。忘れようったって忘れられるわけがありません。
ミニーズ?。のフォトブックイベントも懐かしい思い出です。二言三言話せるのですが、かみちゃんと話した内容は鮮明に覚えています。その後に話したはずの熊井ちゃんと何を話したかはさっぱり覚えていません(笑)。
そんなこんなでライブ・コンサート・イベントに足繁く通い、ヲタ友も少しづつでき、ヲタ活って楽しいなあ~と満喫していたのですが、自らの状況が変わっていきました。

もともと実家に帰ってからの仕事は惰性でこなしているに過ぎずいつでもやめてやるくらいの気概でいました。安月給ですから当然貯金などありませんでした。給料はほとんどヲタ活にぶち込んでいたからです。
時は2020年、コロナ禍となりました。ちょうどその時、夜勤明けで運転をしていて自動車事故を起こし、保険の不備で多額の借金を背負うことになり、ヲタヲタしい生活をしているわけにもいかなくなりました。なんとかやりくりしつつヲタ活も続けていきたいと思っていたのですが、職場的に経営がうまくいかなくなり閑職となったため退職し、心機一転を図ろうと転職を試みましたがうまく行かず、様々な職を転々とする日々が続きました。いわゆるスキマバイトを繰り返す日々でした。
そんな日々を過ごしていたときに追い打ちをかけるように自分の不注意で両足の怪我をし、全治3ヶ月ということで仕事もままならなくなりました。なんとかリハビリを頑張り次の仕事に就きましたが、今度は以前から体調不良が続いていたのですがそれが顕著となり、てんかん症状で救急搬送されるようになり、脳神経外科に入院することになりました。テレビもなければ携帯もなく、外界から隔絶された日々を過ごしました。

変な模様の天井ばかり見つめる日々でした。それしかやることがありませんでした。もう何もかもがいやになりました。恨み言を言うわけではありませんがお見舞いなんてありませんから、ただ食事が来るのを待つという日々です。自分なんか消えてしまえばいいんだと本気で考えていました。
寝てばかりではトイレに行きたくても歩行が困難なので、少しづつリハビリが始まりました。手すりにつかまって歩くんですがなかなかうまくいきません。ボールを投げてみましょうというんですが腕が上がらないしあさっての方向にいってしまいます。情けなくなりました。
ある日、ふと考えました。もう自分は、かみちゃんに会ったりライブでペンラを振ることも、黒木先生のお店でお食事をいただくことももうかなわないのかな…と。
涙が止まりませんでした。その日だけではありませんでしたが一睡もできませんでした。そして考えました。それでいいのかと。ふざけんじゃねえ、俺はかみちゃんに支えられて今まで生きてきたんじゃねえか、おれが今こんな体たらくだなんてコメントかなんかで言えるか?絶対にかみちゃんのアンジュルムでのパフォーマンスをこの目で見るまでは絶対にあきらめたりなんかするもんか。這ってでもライブに行ってやる。そのためには仕事に復帰してかみちゃんと話す機会はなくてもあいつライブに来れたんだ!って見てもらうんだ!もうその一念でした。
おかげでリハビリの先生(前ここ似)から「回復が早いね」と言っていただけるほどまで身体を動かせるようになりました。

退院後、かみちゃんの卒業が発表されました。正直、そろそろだよなとは思っていました。でもそのためには自分が変わらずかみちゃんのファンであることを見てもらいたい、その一心でこれからも過ごしていくんだ、そう考えて日々を過ごしています。バースデーイベントに行くと、かみちゃんのソロ歌唱でボロ泣きしていました。コロナ禍の声が出せないバラードコンでもそうでした。きっと今後のイベントやコンサートにもし行けるとしたら(申し込んでるんですけど当たるかわからないんで)やっぱり泣き崩れると思います。それだけぼくはかみちゃんに救われているからです。もうこんな自分なんてどうでもいいやと思っていたけれど、よくない、おれはまたかみちゃんのてきとーなMCを聞いて笑いたいんだ。おれはかみちゃんの歌声を聞いてボロ泣きしたいんだ。だから前に進むんだと思えたから。文字通り、命の恩人なんだから。

また編集するかも知れませんが、ぼくのかみちゃんに対する思いをつらつらと書いてみました。ご覧いただきありがとうございます。卒コン、どこで開催かわかりませんが、一緒に泣きましょう。

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