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恩送り(鹿児島編4)

恩送り(鹿児島編3)の続き。3を読んでいない方は3から読んでね。
恩送り(鹿児島編1)
恩送り(鹿児島編2)
恩送り(鹿児島編3)
(写真は2020年の大晦日。大阪港から志布志港に向かうフェリー乗船前)

さて沖永良部島にやってきたカミジマ兄弟。まず頼れる人は松原さんしかいません。1人暮らしのお宅に居候生活を開始。
毎朝、仕事に出かけるご主人様を見送ることも無く、ひたすら眠っている二人。そんな無礼者も笑って許してくれるご主人様。
晩御飯を用意するのが使命。しかしそれも時々。

そんな日々をダラダラ過ごしていたわけではありません。
せっかく連れてきてもらった沖永良部島。
しかもここに来る条件は「島の小学生に夢を語る」です。

ただ、それはその場所がセッティングされないと出来ないわけでいきなりそこらへんを歩いている小学生を捕まえて語るわけにもいかず。松原さんの交渉にかかっていたわけです。
結論から言ってしまうと「島の小学生に夢を語る」機会はありませんでした。まぁいくら島だと言ってもそこは公務。大人の事情もあったんだと思います。

「じゃーお前らは何をしてたんだ?島に来て居候してたんが良い出会いか?」

と、お思いの方もいらっしゃるでしょう。そんなわけではございません。
しっかりこの島でも路上ライブを決行したのです。そこにも出会いの数々がありました。


島に着いて数日、松原さんに連れられ島の子供達に本物を見せたいと言う先生方の集まりのようなものに我々も顔を出し近々開催される「マジックショー」の設営準備(はさみで切ったりするだけでしたけど)を手伝い始めました。
そこで出会った女性が(仮称)田中さんと言う幼稚園の先生。我々の母よりは若いけど我々の中では「エラブの母」的な存在になっていくわけですが何をしてくれたかと言うと、まーそれはとにかくカミジマ兄弟のマネージャーみたいなもんですよ。歌う場所とか時間とか送り迎えとか飯用意してくれたりとか。

「あんたらどこで歌うの?」

「あのクレープ屋さんの前なら歌わしてくれるって言ってるから挨拶行くよ」

「明日は何時に行くね?」

「何時まで歌うの?」

「あんたら松原さんとこじゃロクなもん食わせてもらえてないでしょ?これ食べなさい」

そんな言葉を今でも覚えてます。
一つ一つの言葉に温もりがありました。

さてここのブログのタイトル「恩送り」
実はこの言葉を知ったのは最近ですがその言葉よりもその精神を教えてくれたのがこの田中さんでした。
彼女は祖母にその精神を学んだそうです。
我々になぜそんなに優しくしてくれるのか、私の抱いていた疑問を解決してくれたのがその精神でした。

「島に来た人は厚くおもてなしをする。そうすると自分たちの子供や島の人たちが外へ出て行った時に必ず暖かく迎えてもらえる」

自分に返ってくる事を期待しているわけではなく、島の事、子孫の事を。
そんな気持ちが田中さんの心に受け継がれているのだ。
「恩送り」って言葉は知らなかったけどその時、自分もそういう人間でありたいと思ったのは確かだ。

話が核心を突きすぎて話の流れがそれてしまった・・・


そんなわけで我々兄弟は島に唯一あったクレープ屋さんの前で歌う事になった。
定休日の月曜日以外、島にいる間はほぼ毎日そこで歌った。クレープ屋さんのお姉さん達もすごく暖かくて毎日クレープとコーヒーをおごってくれたし時々ビールもいただいた。その代わりに我々はお姉さんのリクエストの浜田省吾も歌った。

島のクレープ屋さんには噂を聞きつけた高校生達が来てくれるようになって毎日わいわい楽しく歌った。
リクエストを受けても歌えない歌ばかりでしたがそれでも常連になってくれる子達もいたなぁ。皆、元気にやっているだろうか。


歌い終わると我々は我が家のように松原宅に帰り毎晩酒を呑んだ。
島の居酒屋にもよくつれてってもらったしそんな場所でも歌わせてもらった。突然のヨソモノをどの人達も暖かく迎えてくれた。酒を呑みにつれてってくれる人、ご祝儀をくれる人、手段は違えど温もりは変わらなかった。

とにかく色んな人に出会ったし歌ったししゃべった。
もちろんダラダラもした。20日近く滞在したのだから。

さて、ちょっと仕事をサボりすぎたのでまたしてもここらで。
次回がこの出会いのシメかな。次回へ続く。
恩送り(鹿児島編5)

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