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大学という組織について(2)ホントの様なウソの様な、しかしウソ

今回の話は大学に限らず、アカデミア全体的に言えたことですが、私の表現では「ホントの様なウソの様な、しかしウソ」と呼んでいる事象があります。データの扱い方についてです。

勿論、特にとある事件を境として文科省やら日本学術振興会が口を酸っぱく言っている様に、またeAprinなど研究倫理講習も研究者において必須となる中において、「ホントの様なウソの様な、しかしウソ」なデータが存在することを沢山見てきました。

科学が科学であるための要件として、人によっても定義が異なるでしょうが大体論理性・客観性(定量性)・実証性・再現性といった要素が挙げられると思います。科学の要件というだけあって、これらの要素を全て満たして「科学」と呼べる様になるわけです。

例えば不適切なデータの切り方であったり「意図的な」データの操作は、これは100%不正と云えることと思います。しかし、意図的でない場合は一気に事態がグレーになると感じています(意図的でなくとも、研究倫理的には本当はアウトなのでしょうけど)。

例えば、「収率がX%である」をウリとしている技術Aがあるとします。では「収率がX%である」という所に、実証性・再現性は担保されているでしょうか?
かんりにん1号は生物を専門としていますが、菌や細胞を使った実験による定量値は勿論ゆらぎがあります。だからこそ統計的処理をして妥当性を確かめるわけですが、そもそも「収率がX%である」というデータを供出した「定量法」自体に「穴」があった場合がこれが厄介です。
例えば「収率がX%である」とする目的物質について、生物に作らせる場合は、目的物質は何かの中間産物(最終代謝産物ではない)であることも多く、また目的物質が揮発性を有するものだったりすると、当然のことながらその定量値(収率)はかなり流動的(ブレが大きい)であると予想されます。この流動性こそが、この種のバイオマス関係の研究に良く見られる「穴」とかんりにん1号は感じます。

まぁ当然のことながら、実験者本人は「ウソではない」と主張すると思います。確かにウソはついていない様子です。
しかし、定量値のブレ問題はこの手の研究を行うのであれば、必須の問題と考えます。例えば、ブレを出来るだけ小さくするような生産系・定量系を考案することで、再現性を担保する。ブレが大きいことは覚悟の上で、n数を増やして実証性・再現性を担保する、などなど。
実験者がこの様に「定量性」について余程慎重に扱わない限り、「ウソ?」なデータが出てくることは必至のことと思います。
「ウソ?」なデータに立脚して更なる実験を行ったところで、それこそウソの上塗りになるだけです。

どんな実験者も完璧ではありませんし、「慎重な姿勢」を貫くというのは、自分を疑うということでもあり、厳しいことかもしれません。
本来であれば研究者たるもの、自分を疑う(=客観視する)ということこそ職業観として当然有するべきであり、この職業観がなければその研究結果は「確固たる技術」にはなり得ません。到底、研究者として呼べる対象ではありません。

この種の、研究者にとって必要な「慎重な姿勢」というのも一種の日頃のトレーニングの賜物と考えており、これを怠っている研究者個人、または研究グループにこの種の「ウソ?」データが多くある様に思います。

この種の「ウソ?」は直ぐに見抜くことは、かんりにん1号も出来ません。
定量法についてつまびやかに詳細を聞いている内に、漸く何かおかしいぞ?と気付くことが殆どです。
じゃあ何かおかしいぞ?って思ったとしても、次にその疑義をちゃんと相手に伝えられますか?という話になる。
そりゃ大半の相手はウソつきって言われた様な感覚になるでしょうから、ムキになって反論してくるでしょうね…。恐らくきちんとサイエンスにおいて必要となる批判的な精神で論理的なディスカッションの応じることが出来る研究者は、残念ながらほんの僅かな様な気がします。

私自身、「ウソ?」に対しては嫌悪感がありますし、また自分が実施者だったとしても慎重な態度を崩さない様にとは思っています。
そりゃ、その結果が「ホント」であれば素晴らしいですよ。
「ウソ?」は何の役にも立ちませんし、その種の「ウソ?」も依然として横行している様な気がします。
「ウソ?」を見抜くのも、その人の能力と思います。その能力は上記の様に自分一人では磨けるものでもないことが殆どです。
「ホントの様なウソの様な、しかしウソ」を防ぐには、コミュニティーとして「ウソ?」見抜くだけの能力をお互いに高め得る関係にあることが必要だと思いますし、そうでない組織があるのであれば、「ウソ?」だらけに陥ってしまうのではないか?と思う次第です。

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