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チラシ裏

※文章内に暴力を含みます



このnoteは筆者の思考を書き出し、切り捨てる事を目的としている。
憂いの篩だと思ってもらえればいい。

このnoteは以下の項目により構成される。


SNSはゴミカスである

もとよりゴミカスではあったが、イーロンマスクのおかげで随分とまあ気持ち悪くなった。SNSは負の感情をアルゴリズムに乗せてバラまくし、住民もそれに慣れてオラついてきたと感じる。利便性が消え失せてなお、インフラとして形を成しているのはツイッターの規模と継続によるものなのだろうか。

主語を整理する。

おれは、SNSはゴミカスであることを受け入れ、自身の領域をひどく侵されない限りゴミカスであることに文句を垂れない。また、自身で線引きした領域の外を流れる情報について、反応しない。

自分の中で、領域(自身の所掌)という概念がある。
自分が領域にあたると線引きしたコンテンツについては、好きなように発言・投稿するし、他者の投稿にも反応する。領域内であれば「情報の正誤」や「自身の理解度」をノーコスト・ノータイムで判断できるし、結果生じるリスクも飲み込むことができるからだ。

以下に具体例を記す。
例として不適切であるという意見は受け付けない。

騎手:藤岡康太について
情報は正確に理解できていた。かつ、自分の領域内で重なるところがあった(書き記したいことがあった)ため、投稿を行った。

騎手:角田大河について
情報が錯綜しており、正誤について判断するのにコストが生じていたことや、状況が裏返る可能性(リスク)もあったことから静観を決めた。(一切の反応を行わなかった)

なお、どちらもSNS以外では思いを吐き出し、自身の考えを他者と共有していたことを記す。これについては後述の「喫煙所」で掘り下げる。

「コスト」「リスク」など、今どきの若者とくくられて一般化されそうなフレーズを用いたが、更に言えば「ノータイム」でそれを判断することを筆者は意識している。

見方を変えれば、ノータイムで判断できないもの、コストとリスクの査定を瞬時に行えないものは領域外に流していると言える。これが傍観である。情報を受け取るが、正誤を判断せず、ただ文字情報として流す。何か気になれば、相応の手間をかけて拾い上げ、EEZでしばらく寝かすことになる。

大体、SNSで刺激的なコンテンツが流れてきた場合、数日でも寝かせれば見かけの皮が剥がれて正誤の判断がいくらか楽になる。リスクを踏んで正誤の分からない(あるいは、正誤と二極化することすらできない)コンテンツに飛びつく必要性(…見合う価値、理由)は無いと考えている。

好奇心と活字欲であらゆるトピックを流し見するが、そのほとんどに反応しない理由が以上の通りだ。

憎悪の反射

SNSはゴミカスであるが、これは人がゴミカスであるが故の現象である。
他者の怒りを共有する者。自ら意見せず、他者の意見を共有する者。正誤の分からない(あるいは、正誤と二極化する事すらできない)情報を反射的に拡散する者。自身と無関係の事について首を突っ込み、意見する者。

おれは、上述の事象について「ダサい」と感じる。

火種をぼかしたコミュニティ内の騒動、お気持ち投稿に嫌気が刺して、前項の尖った思想に行きついた次第だが、その中で育まれた価値観がこうだ。

おれは、憎悪の反射に加担しない。SNSがゴミカスであること、人がゴミカスであることは、ゴミカスの一員として負の感情を広げる理由には成り得ない。

ただし、自身の領域をひどく侵された場合はそれなりに文句を垂れる。
>即ち今書いているnoteを意味する。

正の感情とは
>アーテルアストレアの馬房動画

喫煙所

人と話すこと。知り得た情報に所感を述べること。意見を交わすこと。
感情ベースに物を申すこと。正誤を判断せず、その場限りの話題として
消費すること。好き放題くっちゃべろうが、その責任は発生しないと同意があること。

コロナ禍の時代、対面での交流が減ったコミュニティが殺伐としはじめ、
小集団化と対立を引き起こした光景を見て、「友人と(ディスコードでも何でも)喋れば消化できそうなお気持ちを、なぜSNSに書き記して負の連鎖を広げるのか」と考えた。
この思想、発声器官を使った喋りを至上とする価値観は今も変わらない。人と喋ってる方が精神に健全であり、大体これで解決できる。と考える。

おれは、人と喋れば大体消化することができる。SNSにわざわざ投稿するほどの「何か」は残らない。

今書いているnoteは
>断片的ではあるが友人に話している。思考整理を兼ねて書いている。

リソースについて

分析、補足を重ねてきた通り、「領域外のコンテンツに自分のリソースを用いてわざわざ反応することは無益である」と考えるのが筆者の思想だ。

リソースとは時間だろうか
>精神的、抽象的な側面もあるが、突き詰めればそう。時間だ。

リソースの使い方は人次第だろうか
>そう。おれはこうこうこういう使い方ないし管理を意識してますよ、という個の思想に過ぎない。

そもそもリソース管理(時間管理)の概念を用いてSNSとかいうスクリーンタイム最上位のアプリを泳ぐのは自己矛盾のちゃんちゃらおかしい思想である。でもやめらんねえんだ。SNSは。

生成AI

>筆者の領域に関わりがある分野であり、生成AIに対するスタンスを示す理由は足りている。

ただ、上述の筆者の思想、価値観を記さないと、意味を成さないんすよ。

生成AIを容認するか
>結論:これについて意見することが出来ない。

生成AIを巡る議論が厄介なのは、整理すべき情報が膨大なところだ。
まずもって2020年のGPT-3(OpenAI)から、2023年のGPT-4(同)にかけての遷移を今一度改める必要がある。この3年間、そして更なる1年間で情報量は爆発的に増え、更新されているが、おれは端々をかじった程度で全体像を掴めてすらいない。

これは、ツイッターで140文字程度に要約された、他者をどうこうしようと意図して発信・拡散するメッセージなんぞによって、おれが理解・判断を行う情報ではない。もっと時間を使うべきコンテンツなんだ。

情報を収集し、対立する意見を読み、生成AIの分野そのものを自己の領域に加える(自分である程度の判断がつく)ところまで、やるべきなんだ。
加えて、それを更新しなきゃいけない。要は一度手をつけたら、(=それについてその後も継続して言及する以上は)最新の情報に基づいて論じるべきだろう。

>生成AIを巡る意見の対立 において、時間軸の異なる(両者の前提からして噛み合っていない)不毛な議論を少なからず見かけている。

容認する者、反対する者、その対立構造、誤った情報、人格攻撃、拡散、憎悪の増幅、その他今起こっていることについて、まずは自分で整理し、判断する。それをすっ飛ばして、咀嚼もせずに他者の意見や情報をベースに自論を振りかざすのは、おれの思想に反する。

で、それをおれが出来るかどうかっちゅうことだ。
結論から行くとできない。足りねえよ。熱意も時間も。

正面から生成AIについて議論を交わしている方々の熱意は凄い。
容認か反対かを問わず、おれはリスペクトしている。
とりわけ、建設的な議論を成そうと情報を整理し、お互いを刺激しない言葉を選びながら、意見を綴る方々は本当に凄い。

こんなにグチャグチャで、SNSのゴミカスなところを最大限に発揮されて混沌と化した場所で、この議論を前に進めようと自らのリソースを使う方々を、誰であれバカにすることはできない。

それでもなお、おれが警戒し、バカにし、敵と見なすのが「負の感情に訴え」扇動する輩である。
著名だとか、知識があるとか、当事者だからとか、関係ねえんだよ。感情面で人を動かそうとする輩は、本人が意図しているかどうかに関わらずカスと考える。SNSのゴミカスなところを活用してそれをやられちゃ、おれは拒絶する他ないんだよ。

それを拡散している(動かされている)人々は可哀想だな、とも思う。

>何も意見せず、行動しないおれの方が可哀想であり、少なくとも何かを変えようとして他者の意見だろうが乗っかっている人の方がマシではないだろうか?
>そうだね。

自己分析をする。

おれは、SNS上での情報収集(入力)と反応(出力)を「領域」という思想で管理・制限して、他者と口頭で適当にくっちゃべる行為(出力の代替)によって帳尻を合わせてきた。

その結果、「自分の領域外についてはSNSでは意見しない」「意見するなら、自分で判断できるレベルまで情報を収集する」という習慣がつき、生成AIについて意見するハードルが異常なほど上がってしまった(=情報収集に要するコストが莫大なため)

こんな思想をこじらせてしまった以上、他者の意見にホイホイと乗っかるのは自己のプライドが許さず、かといって自己のリソースを割いてまで生成AIについて情報収集・追っかけることもできない状況に陥った。

自己のプライド▼

これは、ツイッターで140文字程度に要約された、他者をどうこうしようと意図して発信・拡散するメッセージなんぞによって、おれが理解・判断を行う情報ではない。もっと時間を使うべきコンテンツなんだ。

かわいそう!むなしくなってきた。

AIを問わずキショいクリエイター共について

おれにも出力物の好き嫌いはある。
ウマで言えば、イナゴの描くエロだったり浅すぎてチャプチャプしたトレウマ創作だったり、LINEのトーク画面でキャラの口調で喋るやつだったり、カスメだかMDだか知んないがR18の3DCGを支部に投稿してくるやつだったり、綺麗だけどキャラ知らなさそう…な絵だったり
キリないがそんなところだ。常々キショいと思っている。

しばしトゲつきで振り回されている言論を引用すれば、ブルアカや他の二次創作でエロ勝てなかったクリエイター共が、ウマでせこせことキショいファン層の承認を稼いでいると言える。

で、生成AIユーザーの出力するコンテンツってこことよく被るんだよな。というか、ファン層が同じなんだろうか。好きなキャラだから、で無限に回覧していくタイプの層とか、性的に誇張されたコンテンツを主として楽しむ層が、そのまま自己が求めるもの、承認されると考えたものを出しているという印象を受ける。

なんでこんなに舌が回るのか。自分の領域内だからだろうな。
補足するとすれば、おれはウマ娘のゲームが出て爆発的にヒットしたタイミングで、友人と共有用のDMをネチネチと動かしていた過去がある。
「地雷裁判所」というDMで、投稿物を独断と偏見でジャッジしていき、埋もれている逸材を探し回るなどの陰湿な活動に勤しんでいた。だから、多少自信と責任を持って上記の文章を書き殴っているわけだ。

>2022年末頃まで 現在は閉廷中
>コパノリッキーなど、一部のキャラは判決がいささか緩かった。
>生成AIの出力物はそもそも共有すらされなかった(存在しなかった)
>逸材…裁判員の両名が最も「良い」二次創作をやっていると結論づけたピプーコリコリコリなど。

好き放題言いよる

以上のお気持ち暴力文で、主観に基づく怪しい情報を記した。

生成AIについて、筆者は自身の意見を「これについて意見することが出来ない」とボカし、その上で「結論を出せない理由」をたらたらと書き記した。

これから予防線を張りまくった後出しジャンケンを行う。いくぞ~~~!

・特定の絵柄を出力する行為
 >アウトやろ。絵柄の主(あるいは権利者)が拒否している状況下なら、そ の意向が尊重されてしかるべきと考える。
・悪意を持って権益を脅かす生成AIモデルの活用
 >倫理的に受け付けない。アウト。
・自身の成果物が学習されること
 >不適切な手法での収集には嫌悪感を覚える。

この他の議題について、ここでは論じない。

最後に

おれは初めて刷ったイラスト集のタイトルに「Paraphrase: The Works」という言葉を選び、次のように記している。

表題について
paraphrase: 言い換え、意訳

根本的に、自分は他者の成した物を都合よくパラフレーズして描いていると考えている。学習のシステムとして、本来の語学学習や論考の出力に役立つのは当然と言えるが、「どのように」パラフレーズするかを考える創作力が少しづつ身に付いてきたと感じる。

好きなものを好きなように描けるのは楽しい。

補足すると、上記の「学習」とはAI生成のそれではなく、大学における学びのスタイルを差している。おれは国際関係学を専攻する学生だったが、他言語で書かれた論文を引っ張ってきては、自分の言葉で要約し、言い換えれるように咀嚼する、というサイクルで論考をまとめていた。

今後も変わらず好きなものを好きなように描くが、環境作りにも目を向けてしかるべきなのだろうか。ツイッターを辞める事はないが、このゴミカスで育まれた思想をこじらせすぎたのは改善したいと考えている。

随分と前にミスキーを味見しにいったように、ブルースカイも味見してみようと思う。上述の思想に柔軟性を持たせたい思いもあり、色々とやり方を変えてアップデートを重ねていく方針にした。海外圏との情報収集・交流なんかも試してみたい。

おわり。

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