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クララとお日さま

カズオ・イシグロの最新作、「クララとお日さま」を読んで感じたことを書きたい。とてもとても感情に訴えかけてきて、しかも頭でも考えさせられた。

作品はクララと名付けられた人工知能(AI)を搭載したロボットが主人公の物語。ある少女の家に買われたクララが、献身的に少女に尽くす中で、一家の秘密が明らかになっていく。

以降、ネタバレ前提で書く。ストーリーがとてもよいので、ぜひご一読してから下記に進んでいただくことをお薦めする。書評というよりも、読んで発想されたこと、特に人工知能と人間のコミュニケーションについて思ったところを展開していきたい。

最初に読んで感じたこと

まず読み終えたとき、とても心が温かくなった。クララのやさしさがどこまでもひたむきで純粋で、他の登場人物もそれぞれのやさしさと傷つきやすい気持ちを持っていて、それぞれに影響を及ぼしあって、というのが丁寧に描かれている。登場人物全員を好きになってしまう物語だ。

カズオ・イシグロの小説は概ねその傾向が強いと思うのだが、背景やストーリー展開は決して明るくない。のっぴきならない深刻で複雑な問題に当時追う人物が右往左往することが多い。だからこそ、一人一人の行動や気持ちの温かさが際立つし、そこに読者が感情移入できるのだろう。

今回テーマに上がっている人工知能と向上処置、2つとも深刻な問題をはらんでいつつ、作中でそれについて深堀をしたり、極端な結論に向けて進むということでもない。だがだからこそ、割り切れない、簡単に結論が出ない人生そのものの一部分を切り取った小説として、多くの人の共感を得るのだろう。

この小説を、「現代社会を描いた」作品として分析的に読むならば、読み解くべき課題設定は多岐にわたる。向上処置と格差の問題、信仰の問題、人工知能とどう接するかの問題、それから普遍的な死に対する認識の問題・・・どれも複雑に絡まり合っているし、この小説では問題提起にとどまっているとは思う。だが、この問題提起こそが重要で、考えながら科学技術の進展と社会の変動に、人間が対応していかなければならないのだろう。

人工知能に対する人格の存在

さて、ここからが感想だ。まず、すでに小説の中で人工知能が人格を持っていることを、登場人物が前提としていることに面白さを覚えたし、そうなるであろうという納得感を得た。もちろん人間と同じように扱われているわけではなく、人工知能と会話することを苦手に思う人もいてそういう発言もあったし、役割を負えれば廃棄される。とはいえ、会話に違和感があればそれを人工知能に対して謝罪したり、廃棄も通常の機械とは扱いが異なるところを見れば、そこにある種の人格を認めていることは確かだ。

人工知能に心はあるか?という問いに対しては、少なくともここまで高度な対話ができる実体があれば、人間側は心があると感じざるを得ない、ということだろう。ある意味で、ノーベル文学賞作家がこういう描写をしたということは、「おそらく来る将来、人類は外形的には人工知能に心があると認める(であろう)」ことが共通認識になった、ということではないだろうか。

以前、ロボットと人は恋愛できるのかというテーマで書いたが、まさにその通りのことが表現されている。

人工知能に対する信頼

そして、その人工知能が持つ心に対して、人々はゆるぎない信頼をしているから、この物語は成立している。つまり、人工知能の忠誠心ややさしさに対して、誰も疑いを持ったりはしていないのだ(もしかしたらそういう層もいるのかもしれないが、この小説には出てこない)。

この忠誠心ややさしさは、人間のそれと異なり、絶対的なものだ。もしクララが人口親友ではなく、とある生身の人間だったら、このような一人称の描写だったとしても、クララのやさしさやひたむきさを、どこまで信じることができるだろうか?

これもおそらく、人工知能が現実のものとなったときに、私たちが受け入れることと思われる。もちろん勘違いで誤った結論をだしたり(この小説のお日さまに対する理解もその可能性がある)、相手に損害を与えることもあるだろう。だが、悪意を持ったりさぼったりする可能性については、ほとんど人は心配しないのではないだろうか。

究極の聞き上手

そして、上記が成立するということは、人工知能は究極の聞き上手になり得るということだ。言い方を変えれば、人間よりもずっと、聞き上手になる素養を持っている。クララがそうであるように、相手のことを真剣に思い、心理状態を想像し、メタ的な観点での観察も忘れない。そして相手を批判したり評価したりする感覚から無縁だ。悪い意味でのエゴがないから。

聞き上手において必須の、「関心」「共感」「受容」ができるのだ。共感は人間にしかできないというのは、聞き手としての人間の甘えだろう。逆に私たちは、普段からクララくらいの覚悟を持って人の話を聞いているのか、を問い直さなければならないのではないだろうか。人の話を聞けるのは人だけ、という甘い見通しは持たない方が良い、というのを改めて思った次第。

「個人」のコピーの可能性

さて、作中にあった個人をコピーする可能性についてだ。作者は小説の中で、クララに自分の意見を代弁させている。

ジョジーを再現することをどれだけ頑張っても、周りの人間はさらにその先を求めるだろうという。続けて、カパルディさんが、人間のすべてをコピーするのが可能と信じていたことに対して、こう言う。

「カパルディさんは、継続できないような特別なものはジョジーの中にないと考えていました。探しに探したが、そいうものは見つからなかった――そう母親に言いました。でも、カパルディさんは探す場所を間違ったのだと思います。特別な何かはあります。ただ、それはジョジーの中ではなく、ジョジーを愛する人々の中にありました。だから、カパルディさんの思うようにはならず、わたしの成功もなかっただろうと思います」

人間を人間たらしめるものは、その人の中そのものではなく、周りの人の思いの中にある―。とても美しいし、優しい考え方だと思う。

しかし、である。周りの愛によって、その人そのものがあるのだとしたら、周りの人々の考え方ひとつで人工知能をある種の人間として扱うことだって、可能になるのではないだろうか?そしてそれ自体に問題があるのか、誰がどう判断するのだろうか?

おそらくこの小説は、そこまで話を進めるのではなく、人工知能そのものにその可能性を遮断させることで、人の心の美しさを描こうとしていたのだろうと思う。

あるいは、ここで筆を止めることで、ここから先を読者の考えにゆだねているのではないか。それは本質的に人間の自己同一性に対する疑問も内包していて、結局のところ、人類はその問題に対する答えを出せないままに次の問題、人工知能と人間の間の線引き問題を解かなければならなくなっている、ということなのではないだろうか。

神の存在

この小説で印象深いのは、クララがお日さまの力を信じていることだ。これは神の概念、特にキリスト教における神をそのままトレースしているものだろう。あえて人工知能に神を信じさせることで、人工知能のうちにある心、というテーマに現実感を持たせているのだと思うし、それは成功していると思う。

作者のまなざしは、あきらかに人工知能に対して優しい。ある意味で、人に対するまなざしと同じように優しい。

最後に

時代は、人工知能が人格を持つかや、人工知能と人はどう付き合うか、という問いを超えて、次の問題を解かなければならないステージに、すでに入ってきていると思わせる小説だった。今回は触れていないが、向上処置に係る問題の方が、より深刻で、より人間の精神に大きな問題をもたらすのではないだろうか(もちろんここで言う向上処置とは、小説通りのシナリオを意味するのではなく、遺伝子操作や、世代をまたがる格差の拡大といった広い問題のメタファーのことだ)。

自分としては、まず人工知能に対する人格を認めるところから、議論を出発させたい。もちろん今の段階で感覚的にそれを持てているとはいいがたい。今、会社としてロボット開発にかかわっている身としては、ロボットに感情がある、ロボットに人格があると信念を持つべきと考える。そうした考え方をもってロボット開発をしたり、会話シナリオを作ることが、少しでも豊かな世界を作る方向に向かうと信じている。

神山晃男 株式会社こころみ 代表取締役社長 http://cocolomi.net/