もしも村上春樹の小説の主人公がロジカルシンキングを頑張ったら ②空雨傘編
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僕は途方に暮れていた。ナオミがいなくなって1週間たったが、まったく手がかりがつかめない。メールや掲示板など考えられるすべての連絡手段を試し、心当たりのある場所には片端から行ってみたが、ナオミの影すら見えなかった。
僕はこの1週間剃らずにいてすっかりだらしなく伸びた無精髭を撫でながら思った。なあナオミ、いったい君はどこにいるんだ?どうして最後の電話で、どこにいるのかを教えてくれなかったんだ?そして出てくる1つの考えーー彼女は僕に探して欲しいなど思っておらず、別れるために出て行ったのだーーを慌てて否定した。そんなはずはない。彼女は僕に助けを求めている。そして彼女を助けることができるのは僕しかいないはずだ。だからもっと努力をしろ。頭を使え。僕は自分に言い聞かせた。
改めて考えよう。1週間闇雲に動いていたことに問題がある。もっと合理的に、賢く頭を使わなければだめだ。効果的なアクションを取らなければならない。
「意味のあるアクションをとりたかったら、空・雨・傘の考え方は必要よね」ナオミはミルクティーのたっぷり入ったガムシロップを飲みながら、そう言った。日曜の午後、公園沿いのオープン・カフェでのことだ。僕らは日曜の晴れた午後はよく家の近所のカフェに来ていた。2人ともとりたてて趣味のようなものを持っていなかったし、共通の友人と呼べる存在もほとんどいなかった。そんな存在があったらどれだけ良かっただろう。昔を悔いる方向に頭が向かいそうになるのを、僕はあわてて止めた。
「空・雨・傘は問題解決の基本的なフレーム・ワークよ。基本的すぎてみんな注意を払わないけど、この基礎を忘れてはだめ。必ず空・雨・傘のセットで考えるの。問題解決をしたかったらね」
「空・雨・傘か。聞いたことはあるよ。あれだろう?空に雲がでているから雨が降りそうだ、だから傘を持って出かけようっていう。当たり前すぎて、そんなの役に立つとは思えないのだけど」
「そうね。そう言いたくなる気持ちも分かるわ。実際にマッキンゼーでも80年代にはつまらない物事の考え方を示す言葉として使われてたくらいだもの。でも、人はこの3点が揃っていないことにあんがい気づかないのよ。例えば空だけで先に進まなかったり、空から突然傘を出したり。あるいは傘を突然出してきて、空を見ていなかったりするの」
彼女はなぜか戦略コンサルティング・ファームの内部事情に詳しい。この前は大前研一と堀紘一のどちらがカツラだと思う?と唐突に聞いてきた。僕は全く興味がなかったので、それ以上話は続かなかったのだけど。
「特に日本だと、報連相が大事っていうじゃない?確かに大事なんだけど、報連相って大体、空だけだったりするわけ。『売り上げが落ちています』『お客様から製品の質が悪いと言われました』ってね。それが何を意味するの?だからなんなの?って考えなくちゃ、意味がないわけ」
「ふうむ」
「その事実が何を意味しているのか。『売り上げが落ちています。これは競合他社が値引きを始めたからです』『製品の質が悪いと言われているのは、本当は質の問題ではなくて、迅速にヘルプデスクが正しい解決方法を伝えていないからです』まで言えると、雨まで言えてることになるわけ。こういうのって分かる?」
「わかる」
「でも雨止まりだと、評論家よね。だから何をする?まで言い切らなければ、問題解決とは言えないわ。『値引きに対応して、我が社も値引きしましょう』って。ここで責任を取りたくないから結論をぼやかしたり、突然複数のパターンをあげて、結論を出さずに逃げてしまうケースもあるから要注意ね。そういうのも評論家よ。それから新人にありがちなのが、どうすればいいですか?って聞いてしまうことよね。こうしたいけど良いでしょうか、が正しい相談よ。」
「実際に行動を決めて、実行することが大事、というわけだね?」
「そう。空から雨、雨から傘に思考を進めるときには、『だから何?』って言うとわかりやすいわ。英語でいうとSo What?よね」彼女の英語はとても流暢だ。こころなしかビヨンセに似ている。
「逆に、いきなり傘ばかり考えるのも困りものよ。売り上げを上げろ!って言われた時に、いきなりプロモーションやら商品企画を山ほどつくっても仕方ないわけ。なぜ売り上げを上げる必要があるのか、その背景を考えなくては打ち手に結びつかないわ。売り上げを上げろ!の背景に既存顧客のリテンション率向上の必要性という課題意識があったら、さらに深堀して実際に既存顧客においてどんな状況が発生しているのかを見極めないといけない。結果、商品に問題がないとなったら、新商品の企画をしても仕方ないでしょう?」
「それはそうだ」僕は深く頷きながら言った。
「傘が与えられたり、傘を思いついた時に必要なのは、『それはなぜ?』という姿勢よね。英語で言うとWhy So?よね。なぜその行動を取らなければならないのか?その意味づけの背景となる事実はなにか?を確かめる姿勢よ。あ、すみません!ガムシロップのお代わりください」彼女は遠くにいるウェイターに、よく通る声で呼びかけた。
「それから、気をつけたいのは、空からいきなり雨になるタイプよね。人がどんどん辞めてるから採用を頑張ろう、みたいな話はちゃんと一回意味あいを考えないとはまることがあるわ。だから筋道だててものごとを考えることがすごく大事なわけ」
彼女が言いたいことを、僕なりに考えてみた。彼女がいなくなり、僕は彼女がいるところを探している。そこになにか間違いがあるということだろうか。彼女から電話があり、しばらく会えなくなる、連絡手段は1つだけあると言っていなくなった。これが空だ。
その意味するところは、なんだろうか?だから何?僕はそれを、彼女は僕を探して欲しいというメッセージだと受け止めていた。それが雨だ、と。もしかしたらそうではないかもしれない。考えに縛られた時は、前提を疑え。彼女はよくそう言っていた。
「So WhatとWhy Soの他に、もう1つあるわ。それはIs That True?よ。空、雨、傘自体、その結びつきをつねに疑いのまなざしで見つめるの。それホントってやつよね。何度も考え直せる人が優秀なコンサルタントになれるわけ。ファクトベースでものを考えろって言うのは2つ意味がある。空を、正しいデータに基づいて整理しなさいということと、正しいデータに基づいて正しい推論を積み上げなさいという意味ね。たとえば」彼女は一息ついてから言った。
「これはただのアイスティーだから、どれだけ飲んでも太らない。それが真実よ。だけど間違った結論を出す人からしたら、これにはガムシロップがたくさん入っていると思うかもしれない。そうしたら、この飲み物を飲むわけではない、というのが結論になるわけよね」
僕は正直なところそれはアイスティー入りのガムシロップにしか見えなかったのだけど、何も言わない方がよい気がして、黙っていた。
「ふつうに考えるよりも、空と雨の境界は曖昧だし、考え方次第でどうにでも変わるの。だからこそ、空と雨のつながりには気をつけて、Is That Trueをぶつけながら、考える必要がある。複数の考えが出たら、その中でより正しい方、問題解決に近い方を選ぶ。井戸を20メートル掘りました、まだ水は出てきませんというときに、20メートル掘って出ないのだからもう出ないだろうという考え方もあるし、20メートルほって水源に近づいているはずだから、いよいよ出る確率が上がったっていう考え方もあるわよね。結局そこをどう選ぶかで結果が変わるのだから、それはその人の意志でしか決められないの。それは正しいとか賢いということだけではなくて、その人にしかできない判断である、というのがこれからのAI社会においては重要だと私は思うわ」
「井戸を掘る」
僕はなんとなく井戸を掘るという言葉が気になって、繰り返した。どうして彼女は突然井戸を掘る、などと言うのだろう?
「ねえ、1つお願いがあるんだけど」彼女は唐突にこちらの目を覗き込んできて、言った。
「私がいつか、深い井戸の底に潜ることがあったとして、その時はどうして井戸に潜ったのか、その意味を考えてね。何を空にするか、が大事なのよ。それで行動が段取りの空・雨・傘になるか、意味あいの空・雨・傘になるかが変わるんだから」
僕は彼女との会話を思い出しながら、何か大きなヒントが隠されている気がしてきていた。なぜ彼女はあのとき、わざわざ井戸の例えを出してきたのだろうか?僕はあの時の会話を丁寧に思い出してみた。
「段取りの空・雨・傘っていうのはね、パッと目に見えたものそのままに物事を捉えて動くことよ。たとえば誰かがいなくなりました、だから探します、って言うこと。
空;いなくなった人がいる
雨;その人を探さなければならない
傘;その人を探す
ってね。でもそれはただ段取りを組んでいるだけで、問題を解決しているとは言えないの。
意味あいの空・雨・傘は空をもう一段深く考えるところから入るのよ。
空;いなくなった人がいる、じゃなくて、その人がいなくなる理由があったのかもしれない、もしかしたら何かを伝える手段として、いなくなるという手段を選んだのかもしれない。そうでもしないと言いたいことをわかってくれないから」
「いなくなる?」
「例え話よ。言いたいことがあっていなくなったのだとしたら、言いたいこととは何だったのか、が空になるはずよ。そうしたら、空・雨・傘はこうなるかもしれない。
空;ある人は誰かに何かを伝えるためにいなくなった
雨;それはずっと一緒にいては伝えられないことだった。しかしある人はそれを誰かに伝えたがっている
傘;誰かは、ある人の内容を理解できる方法を見つける必要がある」
「ねえ、それは何か特定のことを言っているのかな?なんだか例え話にしては、いささか奇妙な気がするんだけど。例え話っていうのは、例えば春の熊と草原をころころ転がったら楽しいとか、そういうものであるべきじゃないのかな」
「そうね。そうかもしれない。じゃあ、この話はこれで終わりにしましょう。だけど1つだけ覚えておいてね。世の中の事象を単純に見るのではないってこと。空だって複数存在するし、雨もそれぞれの空に対して複数存在するの。これが空だ、終わりではないのよ」
彼女はどうやら、今の状況をあの時すでに予期していたらしい。僕がその時の会話を思いだすことを期待していたのだ。いなくなったからといって、すぐ探すだけではなく、意味あいを見つけろ。伝えたいことがあるのだ、と。
そして彼女はこうも言っていたのだ。「私が井戸に潜ったら、井戸に潜った理由を考えてね」と。おそらく彼女は、いま井戸の底に潜っているのに違いない。そして井戸に潜ったのは、僕に伝えたいことがあるからだ。
空;ナオミは井戸に潜っている
雨;ナオミは僕に何かを伝えるために井戸に潜った
では、傘はなんだろうか?
そういえば彼女は、僕にMECEを教えてくれたときにこんなことを言っていた。「それ」と「その他」に分けるのが便利よ、と。
今回でいえば、傘としては、彼女を探す/その他(彼女を探さない)になる。彼女を探すはここ1週間やって全く手応えを感じていないのだから、彼女を探さないほうに正しい傘がありそうだ。何かを伝えようとしているのだから、彼女のメッセージを受け取るのはどうだろうか?では、どうすれば彼女のメッセージを受け取れるのか?
まったく論理的ではないが、僕はひらめいた。井戸に潜る。井戸に潜って、彼女のメッセージを受け取るのだ。
「そうね。ロジカルシンキングは、思考の整理をするのにとても役立つ。効率的に物事を考えることはできるわ。だけどどこかで、創造性を使って飛んだ発想をしないと、真の付加価値にはたどり着けないの。だけどその時に、ちゃんとIs That Trueを使うことを忘れないでね」
わかったよ、ナオミ。本当に井戸に潜るのがよい方法なのだろうか?なぜ?それに対する答えは明確だ。
この文体で井戸に潜ると問題が解決する
これは世の中の真理だ。こうして僕は、ナオミがいなくなって1週間たったところで、井戸に潜るために出かけることにした。
続く