仕事にムダは必須だと思ったので、それについて言語化していく。
どうも、ムダ鑑定士のGAIです。
ムダ鑑定士とは
世の中にあふれるムダを調査し、鑑定し、言語化し、数値化し、それを具体化していく仕事である。
・・・まあそれはいいとして。
ムダは基本的に、世の中によって不要なものとして評価されることが多い。
これは至極最もで、当たり前のことだ。
まず、無駄という漢字の意味するところは何か。
無駄という漢字は、馬を引いて荷物を運んでいる商人の話を語源としている。荷物を運んでいる商売なのに、何も荷物を積んでいない馬がいたら、それはまったく利益を生まない存在。
かつ、利益を生まないにも関わらず食事を用意する必要がある。
これを無駄飯、といい、短くなって無駄という言葉になったそうだ。
無駄の駄という漢字は荷物を持つ馬から成り立っている。まあつまり、荷物を持っていない馬で、無駄、となっているわけだ。
こんな語源があるくらいなので、無駄とは無くすべき、無駄なんてあればあるだけ意味のない、損失を生む存在だ、ということだ。
これはもちろん、その通りだと思う。
僕もそう思う。何もしていない、何も生まないのはよくない。
それは本当に無駄飯くらいという言葉にふさわしい無駄さだ。
つまり何が言いたいかというと、僕の提唱するムダとはムダであって無駄ではない。
ムダってなんだ?
ここでいうムダとは、平たく言えば何の役にも立たないものである。生産性がなく、何かを生んでいるかと言われれば何も生んでいない。
ただそこにある。
それじゃあ無駄と同じじゃないかということだが、大いに違う。
それは、くだらない、笑えるものであることだ。
世の中にムダはあふれている。
でも、あえてムダを生み出す人はなかなかいない。
これはもちろん、ムダなことだからだ。
仕事としてムダをつくっている人もいるにはいる。エンタメを生む人。
商業効果を狙っているわけではなく(なかには狙っている人もいるかもしれないが)ただただ、隣の人を笑わせたい、という感覚。
実際、笑ってくれればいいという理由でバカみたいなものを沢山生み出す人はいる。
だが、これはとても難しいことだ。
なにせ、人が笑うためになにかをする、なんてことを学ぶことは基本的にないからだ。(お笑い芸人とかになるのだろうか?)
僕もことあるごとに笑ってくれるかな、という観点で話をしたりする。(別に芸人でもなんでもないので、なんとなくそういう方向の話をする人、くらいの考えで)
効率的なことをして笑ってくれるならそれはそれでいいのだが、無駄なことの方がいい。
ムダなことはそれだけで笑顔になれる。
意味のないことで人は笑顔になれるのだ。
こんなに素晴らしいことはない。
考えてみると、子供のころはムダなことばかりしていたのではなかろうか。
なんちゃら教育、みたいな言葉はたくさんあるが、結局なにをするかは子供次第。
砂場でバケツに砂をつめてお城をつくる。
これは一体なんなのだろうか?
積み木を積み上げてなんかよくわからないものをつくる。
これは一体?
新聞紙をまるめて剣をつくる。
なんぞこれ?
不思議な遊びもたくさんある。
すべてムダではない。玉けり遊びがサッカーを始めるきっかけになったりもする。
だが、そこにあるのは一生懸命な人と、完成した時の笑顔だ。
それを無駄と断ずることはできない。
あえて言おう、ムダであると。
ムダという言葉は、ネガティブな言葉ではない。
ポジティブな言葉だ。
なにものにも遮れない、唯一無二の自分にしかできない制御不能な挙動。
自分にとっても、なにしてるんだろうなこれってあとで思っちゃうような不思議な行動。それがムダ行動。
バケツを棒でたたいて音がでて爆笑しちゃうのもいい。
納豆の原型がなくなるまで混ぜるのもいい。
とてもいい。
おおいにムダをしよう。
ムダなことが笑顔をうみ、やがては大きな流れと経済を生んでいくのだとおもう。
雑多な文章だけどちょっとずつ思考をまとめていきます。
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