「無責任一代男」という曲
1962年7月20日。この日に、ハナ肇とクレイジーキャッツの曲として、「無責任一代男」が発売されました。アポロ11号が月に行ったっていう日(1969年7月20日)より少し前ですね。
私の最も好きな曲の一つであるこの曲。かつて多くの人々に影響を与えたというこの曲。今もこれからも多くの人に聴いてほしいこの曲。
発売からちょうど61年を迎えた今日、無責任一代男について少しお話しようと思います。60周年の去年書けよというのはそう。
記事は読まなくても、ぜひ次の歌詞だけは覚えていってください。
※以下、原則敬称略とします
0. 「無責任一代男」とは?
ハナ肇とクレイジーキャッツというバンド(以下、クレイジーキャッツと表記)による曲で、作詞は青島幸男、作曲は萩原哲晶によるものです。これはクレイジーキャッツのメンバーらが主演する映画「ニッポン無責任時代」の主題歌として制作されました。無責任一代男がA面で、B面は「ハイそれまでョ」です。
植木等が演じる映画の主人公「平均(たいらひとし)」のように、無責任に飄々と生きる男の人生を描いた一曲です。この曲はその後の植木等のハマり役である「無責任男」を象徴する曲となりました。
クレイジーキャッツについての解説は今回は省略しますが、知らない方は「ザ・ドリフターズの一世代前にコメディで一世風靡したバンド」と思っておいてください。いまでも有名な曲としては「スーダラ節」「だまって俺についてこい」があるでしょうか。
まあ、百聞は一聴に如かず。まずは聴いてみてください。
1. 歌詞について :「無責任」とは?(私的解釈)
歌詞を読んでいけば、作詞した青島幸男が描いた「無責任」な人間がどのような人間かが見えてくると思います。飄々と調子がよく、持ち前の要領のよさとゴマすり力から「ラクしてもうける」人物です。とはいえ、上役にせっせとゴマすりを一生懸命行っているようなので、単に「ラクして」いるわけではなさそうです。
以下は個人的な解釈に基づく内容となりますが、無責任とは、仕事を地道にコツコツとやって努力するのではなく、マイペースに自分の得意なやり方でのし上がっていく生き方、なのではないでしょうか。また無責任という言葉の辞書的な意味を汲めば、ルールや他人の利益を気にせずやりたいことをやる、というところかもしれません。ある意味では自分勝手であるように見えますが、好意的に解釈すれば何事にも縛られない自由な生き方、ということであると言えるでしょう。4番の歌詞はそんな生き方をかなり象徴していると言えますが、ここについては私は同意しません。冗談を込めた歌詞とは思いますが、念のため言っておきます。
青島幸男の著書(「ちょっとまった! 青島だァ」だった気がするが記憶が曖昧)に、彼の考えた「無責任」像が書かれていました。だいぶ前に図書館で読んだだけなので詳しくは覚えてませんが、それによれば確か「無責任とは、ルールなどに縛られることなく自由に自分の生き方で生きること」(意訳)みたいなことが書かれていたと思います。間違ってたらすみません。
「タイミングにC調に無責任」
そしてこの曲は、「人生で大事なことは タイミングにC調に無責任」というメッセージで締めくくられます。人生で大事なこと、と宣っているので、ここが最も重要です。ぜひここだけでも覚えていってください。そして、この言葉がもつ意味について、自分なりに解釈してみてください。
一応ここを逐語的に解釈すれば、タイミングよく(テンポよく)、C調に(調子よく)、無責任。ということでしょうか。「タイミング」というものが大事なファクターであることは後にブラックビスケッツの「Timing」でも謳われていますね。もはや宇宙をも支配するファクターです。
2. 「無責任一代男」と私
私は1990年代生まれの私が無責任一代男を初めて聞いたのは、父が録音したカセットテープでした。車で出かける度によく父のカセットテープを車内で流していたのですが、そのうちの一つが、クレイジーキャッツのベスト盤をダビングしたものでした。そこからクレイジーキャッツが、植木等が好きになっていくのです。
小学校入る前には聴いていたと思いますが、クレイジーキャッツの曲全般について歌詞の意味がわかってくるのはしばらく経ってからだと思います。そして気付いたら中学のころにはカラオケで「スーダラ節」を歌ってたりしてましたね。どんな中学生だよ。
そして何度もクレイジーキャッツの曲を聴く中で(中学のころにはウォークマンに入れていた)、改めて最も感銘を受けたのが無責任一代男でした。サラリーマンの悲哀を歌ったスーダラ節よりも、前向きで自由な生き様を描いた無責任一代男のほうが私には響きました。
そして私の生きる方針の一つが「無責任」になっていったのです。自分の人生なのだから、他者に責任を押し付けられようが自分のやりたいことをやって生きる。それが大事なのではないかと。他人にほんの少し迷惑かけるぐらいがちょうどいいのではないかと。そう考えて私は自由にやりたいことをやっていくことにしました。今も仕事でなんとかして個性を出してやりたい放題やろうとしてます。まあ現実はなかなかそうはいかないが。
植木等と私
一方で私が憧れるのが、植木等という人物です。彼は表舞台では「無責任男」を演じてはいますが、実際の彼は非常に真面目で誠実な人物だったといいます。ふざけるときはふざけて、真面目なときは真面目に生きる。とてもかっこいい生き方だな、と私は思いました。その上多芸なのだから本当に強すぎる。
ある界隈で私が別名義として「植木屋」を名乗る理由は植木等への憧れだったりします。お気づきでしょうか、このnoteのURLに"uekiya"という文字が含まれていることに…。
3. 現代と「無責任」
さて時は2020年代。無責任を声高に叫ぼうと思ったら、気付けば「責任過剰時代」になってしまいました。何をしようにも話そうにもコンプラコンプラと、コンプライアンスがどうのこうのと文句を言われてしまいます。
実際のところ、コンプライアンスという言葉の本来の意味は(元の英和辞書的な意味とも違うようですが)、「法令遵守」というところだったはずです。しかし、気付けば何をしようにも「誰かに迷惑をかけてはいけない/気分を害してはいけない」「全体の利益になるような行動でなければいけない」といった強迫観念を押し付けられているような、そんな時代になりました。
これはまさしく「無責任」な生き方とは正反対です。何をするにも責任を押し付けられてしまう、それではまったくの不自由であり、ルールや他人に縛られるしかありません。
そんな今こそ、「タイミングにC調に無責任」に生きていく、という姿勢が自分自身の人生を生きる上で重要になるのではないでしょうか。全体最適とか見知らぬ他人への迷惑ばかり考えるのではなく、自分の気分で、自分のやりたいことをやる。他人のこタァ笑い飛ばしてやる。そういう考えをもつことで、少し楽に生きられるような、そんな気がします。
余談になりますがもう一つ悲しいのが、「無責任一代男」という言葉が悪い意味で使われている文脈を目にするようになった点です。ふと検索すれば、例えば政治家の批判に使われていたりして、辞書的な意味での"無責任"な人物として無責任一代男呼ばわりされていることがあります。60年以上前の曲なので仕方ないところではありますが、曲そのものが忘れられて言葉の文字面だけが独り歩きしてしまうのは寂しいですね。
4. おわりに
以上、無責任一代男について語らせていただきました。とても好きな曲の一つなので、一度語りたいと思った次第です。
そして何より存在を知ってほしかった。もう古い曲なので懐メロよりも古い懐古趣味でしか取り扱われなくなってしまうのが寂しくて、むしろ今の時代にない新しいものとして知ってほしかった。そんなところです。
そして新旧問わず語りたい曲はまだまだあるのですが、まあそこは気分次第。次語るなら新しめの曲にしようか。
本当は音楽的な側面についても語りたいところでしたが、何せあまりに知識がないゆえに言葉で語れないのでやめました。メロディーだけとってもとてもいい曲なので、ぜひ誰か分析お願いします。
そして今回、「無責任」という言葉に対して個人的な解釈を言葉にしてしまったので、作者の意図や読者のみなさんの思ってたことと大きく食い違ってるかもしれません。気分を害してしまうかもしれませんが、そこはアホが勝手になんか言ってる、という程度に笑い飛ばしてください。無責任に書いてるので。
また長くなってしまいました。
コツコツ長文を読んでいただき、ありがとうございました。
ハイ、ご苦労さん。