殺人とは何か?
ウクライナ情勢の凄惨なニュースを日々目の当たりにしていますが、ここ数日では露軍の大量虐殺がクローズアップされています。私たち日本人の感覚からすればどうしてここまで酷い事が出来るのだろう、とその行動を疑ってしまいますが、よくよく考えてみて、勿論、戦争も虐殺もその行為は犯罪として許されるものではありませんが人間の本質として人を殺す事は出来ない事では無いのかもしれません。善悪の定義は別として、人殺しも戦争も結局、生活、文化、教育、価値観等の環境と習慣でできてしまうのかも知れません。
私たち日本人の感覚と照らし合わせてみれば、日本も歴史を遡れば、戦国時代だなんだと戦があり、今から見れば斬首、火炙り、車裂き、等々エグい処刑法があり、第二次世界大戦でも色々とやってきたわけですし、現代であっても私たちの周りでも殺人事件は起こります。殺人はしなくても理解できないパワハラ上司もいます。平気で人を傷付ける人たちもいますし、老若男女イジメは日常的にあります。
また、魚の死体は魚屋で平気で見られても、鳥、豚、牛は何となく抵抗があるし、道路で動物の死体はグロテスクで目を背けます。それでも猟師は動物を殺しますし、屠畜場の人も動物を屠殺します。害のある虫は大量に駆除して安心します。コロナなんて特に駆逐出来るならしたいものです。
医師は手術で人体にメスを入れられますし、葬儀屋は遺体を触れます。ミリオタ、サバゲーオタは戦争ごっこを楽しみますし、ゲームで平気で人殺しもできます。映画ではスプラッタ映画や戦争映画もあるし、むしろ当たり前のように人が死にます。
結局リアルな殺人は出来ないけど、殺人行為を切り分けて擬似的に体験しています。変な例えですが、タバコが吸えないから、禁煙ガムを噛んでベイプを一緒に吸うとか、ショートケーキは食べられないから、生クリームとイチゴとパンを別々に食べるとか、なとなくそんな風に見えます。
慣れという面でも、なんでもそうですが数をこなし経験値を増やしていくうちにスムーズ出来るようになります。なので殺害に関しても、1人目は抵抗があっても10人、100人となれば大した違いは無いのかも知れません。
法律によって色々制限されていて平和が維持されていますが、法律は時代の価値観によりますし、また逆を言えば法律で縛らないと何を仕出かすか分からないのです。
サピエンス全史(ユヴァル・ノア・ハラリ 著)によれば未だに人間の脳は狩猟採集時代のままアップデートされていない状態らしいです。戦闘や人殺しの本能は基本スペックなのでしょう。命の概念も無いのかも知れません。
ですので、ラブアンドピースみたいな価値観は、あくまで理想であり真理ではないのかも知れません。有史以来の目標かもしれませんが、ここ数十年の西側のトレンドに過ぎないのかも知れません。今回のウクライナ情勢のように日本では報道されていませんが、ウクライナ以外でも世界各地では至る所で紛争が起こっており似たような殺戮は当たり前のように繰り返されています。
人の命は重いと言われますが、私たちの社会にとって象徴的な死に方をした人や重要人物であればメディアで特集を組まれたりしますが、大体大量の死者が出れば軍人も民衆も数字に含まれて終わりです。
結局の所、人殺しにメリットがあればやるし、デメリットしかなければやらない。という事でしかありません。人は自分たちの利害を勘定して、生命の維持のため有害なものであれば排除する、という動物的本能はいまだに健在であり、私たちは未だに原始時代の本能が根底にある、人間もまた獰猛な動物である、この部分を前提として人間の生存戦略は考えていかなければなりません。
善悪は概念であり、ポジショントークであり、人々の立場によって違います。その人の生命に得になれば善ですし害になれば悪です。絶対的な二元論を捨て、人は動物だと言うことを人種同士の融和や人類の発展は無いのかも知れません。