自分にどれだけ向き合えるのか。
いつも「教える」人がいる。その教える事柄は、わたしには興味のないことが多い。あー、面白くない。なんで自分のことを言わないのだろう。なんかその人の姿が見えない。「教える」ことで自分の姿を現さないようにしている。防御しているんだ、きっと。本来の姿を見せて欲しい。とそんなふうに思っていた。
しかし、言われた。「微妙だなと思うのは、教えられることが嫌で、その嫌さを解消したくて、その人に関わりに行くのか。要するにその人をなんとかしようとしているわけ、その場合は。もしくは自分の嫌さをなんとかしようとするわけ。そんなふうに関わろうとしているのか、本当にその人に興味・関心があって動いているのかとは、ぜんぜん違うよね。興味・関心がある場合は、あらかじめの想定ってあんまりないので、どんな結論であろうと、それを受け入れていくような形になっていく。その人の例だとその辺が見えずらくなる。人生の謎のようなものが解かれるっていうのは、その人にとっての話で、その人の人生の謎であって、あなたの違和感とか嫌な感じではないわけやん。当たり前だけど。でもその教えてくる人が嫌だというところで動き始めると、その人の人生の謎にはほど遠くなっていくわけだよね。それは話としては分ける必要はあるかなと。難しいところ。確認やね。だいたいグループで違和感とか言い出すと、違和感を解消するために動き出すんで、興味・関心で動かなくなるんだよね。ますます何言っているのか、わからなくなる。独りよがりの関わりになっていく。」
グサッと心に痛みが走った。そのことを悟られないように息を詰めた。
自分が進行役という立場でいるから、この場を保持しないといけない、どの人の話にも興味を持たないといけないと思っていたから、いい人でいなければいけないと思っていて、自分が本当に何を感じているのか、思っているのかがあやふやになっていたんだろう。役割に囚われていて、自分の心の表面しか感じられなくなっていた。もしくは、進行役でなくても、今の自分は、そこまで自分に向き合うことができないのか。いずれにしても、「教える」人に教えられることが嫌で、うんざりしていたんだと思う。あんたの本当の姿を見せなさいよとか思ったり、「教える」ことが防御していることになっていて、それがダメなのよとも。なので、興味・関心で動いていたわけではなかったなと。もっと言うと、わたしの投影なのかも。「教える」ことで防御し、本当の姿を現さない。防御してはいけないというという思いがあって、自分の姿を現すことに恐怖を感じている自分に暴力を奮っているんだ。
そこまで見えてきたら、結構すっきりしてきた。明るくなってきた。なんだか力湧いてきた。