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王様な私の父さんとゴールドトレジャー

マップ…。お空の上でゆっくりとしていますか?
私はあなたの甥っ子姪っ子と過ごし、日々とても忙しくしていますが、悲しい事があると、あなたを失った日に
時計の針が戻り、大声で泣いてしまいます。

元競走馬ゴールドシップ。その偉大で破天荒な私の子供達の父は、今もなお多くのファンに愛されている。

そのゴールドシップには、全弟のトレジャーマップという競走馬がいた。私は、このトレジャーマップの存在に夢中だった。
憧れであり、愛おしい特別な存在、トレジャーマップ…。

そして、トレジャーマップが競走中の画面から消えたあの日…。空へと旅立った報告を聞いたあの日…。

心臓の位置がハッキリと分かる程、脈は速くなり、息が吐けなくなったのを覚えている。
私はこの時、そのまま後ろに転倒した様だ。いわゆる、過呼吸だったのではないかと思う…。

それから…競馬を見れなくなった。

その後、続けて実父を亡くした。

49歳で口腔底の癌を発症し、74歳で亡くなるまで、食道癌、舌癌、上咽頭、中咽頭、下咽頭癌と合計6回の癌と戦う事25年…。

全ては初期の癌ではなく、浸潤性の癌。最期は口の入り口から、食道の入り口までに癌が広がり、喉の癌は皮膚を突き破ったかの様に、固い癌が皮膚を覆った。

過去の癌で、放射線はもうあてる事はできず、範囲が広すぎて手術もできず、辛い抗癌剤の治療に臨んだが、効果はでず、癌は気道を塞ぎ、呼吸を奪われ旅立った。
頭頸部以外はどこにも転移はなかった。

私が初めて経験した身内の介護は、当然父親だった。

最初は食事が通らなくなり、水が飲めなくなり、息ができなくった。
壮絶な闘病の末、最後まで生きる事を諦めなかった父。

呼吸を奪われた末の最期。私は正気を失わない様に、父を一人にさせない様にと。
全ての感情はなくなっていた様に思う。

私は片っ端から癌の治療を調べ、最後は光免疫治療にたどり着いたが、残念ながら受けることさえ叶わなかった。

「どうして…。こんなに画期的な治療が見つかったのに…。どうして!!どうしてお父ちゃんは出来んのですか!!」
何度も、何度も、私はこの言葉を叫んだ。

手の施しようのない状態。お医者さんも驚く様な癌の広がり方。

それでも、私は父を治そうとしていた。
そして、絶対に見事に復活してくれると信じていました。いつもの様に…。

自らの手で奇跡を起こす自信があった。

愚かにも…。

この時まで、ほとんど会話らしい会話をした事のない父
と毎日電話で話した。

入院を嫌がる父の車椅子をひいて、一回3時間の点滴を
日に3回通った。

自由を好む父は、長く母とは別居状態だっが、

「一緒に暮らそう。」

という私と母の言葉に頷く事はない。
父は最後まで自由を好んだ。
そんな中、電話が鳴ると、父の自宅に駆けつける訳だが、帰宅したと同時にまた電話が鳴る。

「もう良くはならない。」

と予感は常に頭をよぎる。だから、残された時間は自宅で過ごさせてやりたかった。

父の介護で疲弊していた…。

そして、最後の入院の時、自分から

「入院する。」
と言った。

人は堪え兼ねる程の身体の辛さの時、みな、ご自分から入院を希望される。

父も例外ではなかった。

私と父の思い出は、父の最期の闘病時に限定される。
点滴の針が通りやすい様にカイロで手を温めながら、たくさん話をした。
歩けなくなった父を病院運ぶ時、おんぶをして移動させた。
泣けるくらい軽かった。
すると父は、
「お前、太った分だけ力が強くなったのー。」
と一緒に笑った。
「ごめんの。ごめんの。」と
千円札を私に握らせる父。

「いらんよー。元気になったら一緒に美味しいもの食べよう。」
と言うと、
「行こう。行こう。」
とサッと自分の財布にお金をしまう父。

とにかくケチだった…。

そんな父も、父らしく、まだ大丈夫な証拠と私は思っていた。

そして、私は嘘を吐いた。

「かならず治るよ!!大丈夫よね!!ええ方向に向かっとるんじゃけぇ!! 」

「お前が言うなら大丈夫な気がする。いつも眠れん…。
怖くて眠れんのじゃ…。でも、お前が大丈夫言うなら、ホッとしたわい…。」

と父の言葉に、私は許されない嘘をついている気がして、胸が張り裂けそうだった。

孤独だった。
責任を感じた。
申し訳ないと思った。
そんな気持ちが天に通じて、お父ちゃんを元気にしてくれないかな?と思った。

意識のある最後、私は

「お父ちゃん!!お父ちゃん!! 大好きよ!!大好きよ!!」
と叫ぶと、父は怒った。

最期の時と分かっているのに、まだ頑張ろうとしていたのだ。
私の言葉が嘘だと気が付き、とても悲しい顔をした。
人間の身体は正直だ。
分かっていなかった筈はない。
なのに父は、一縷の望みを私に掛けた…。

食べ物が通らない、嚥下ができないから食べれない。
父の体重は34kgとなった。
TVのお好み焼きの映像をみて、
「こんなん食べたいのー。お腹空いたのー。」
と言った。

二度とお好み焼きを食べれる日は来なかった。

固形物が食べれなくなり、流動食も食べれなくなり、最後は水も通らなくなった、骨と皮になったその姿までの2年間。

永遠にも思える長い時間の介護を、私に経験させずに旅立った様に思う。

声帯にまで癌が広がり、話すことが出来なかった頃、看護師さんを呼び、文字盤を使って私にメッセージを残した。

「ありがとう。ありがとう。」

私が小さい頃からいつも怒ってばかりで、優しい言葉一つかけてくれた事のなかった父が、初めて私にかけてくれた言葉。

常に外に女の人がいた父の姿を、家庭で見る事は少ないものだった。ほんの僅かに一緒に過ごす時間は、いつも不機嫌で、怒られてばかりいた。

そんな父の傍ら、母は私達に気付かれない様に、ベランダで泣いていた姿を覚えている。

でも、決して私に父の悪口を言わなかった。

「お母ちゃんは幸せかな?」
いつも思っていた。
どんなに包み隠しても、母の不幸さは、子供ながらに
感じ取っていた。

いつも離婚の危機を感じ、そんな話が聞こえてくると、
父はいつも同じ言葉を言った。

「子供はかわいくない。いらん。」
と言った父。

「家族は共同生活。自分の食い扶持は自分でどうにかしろ。親を頼るな。」

まだ小さかった私は、その言葉の裏にある、愛されてはいないという、父の心に恐怖を覚え、見捨てられたら生きて行けないと思った。

いつも父の顔色を伺い、笑顔を心がけた。悲しい顔をすると、泣くと怒られる。嫌われてしまう…。

嫌われると、手を離されてしまう。そしてその手は二度と繋いでもらえない。

涙を堪えられない時は、おかしな笑い方になっていた。
涙を流しながらも、それでも笑顔を作る。
そして、また
「おちょくっとるんか!!」
と怒られる。
それでも笑顔を仮面を外せない。
だって、捨てられてしまう…。

それでも父の事がいつだって大好きだった。
だから父が喜ぶ様に、父に誉めてもらいたい気持ちの一心で介護に臨んだ。

父と私は、最後まで親と子の役割が逆だった様に思う。
そうでないと、できない関わりだった。

それでも良い。
父が幸せならば。
親子だから。
答えは一つだけだ。

この言葉は深く、親子の因縁は切っても切れないものだと、身を以って知るのである。

決して愛してはくれない父を、私はひたすら愛していた。

愛しているから、父に尽くす。

私の思考回路は、そんな風にできている様な気がする。
最後まで父は、私をかわいいとは言わなかった。

でも、それでいいと思った。
私にはそれに協力してくれる母がいた。
全てを許して父の側にいようとする母。
母と私は、互いに見返りを求めない奉仕というものを学んだのだと思う。

家族四人。たった一枚の写真。みかん狩りの思い出。


父の話が長くなったが、きっと父の存在、父との関わりがなければ、私はこれから出会う、ゴールドトレジャーという馬を引き受けるまでのエネルギーを、生み出す事はなかったと思う。。

大好きな父がいなくなった喪失感。

マップがいなくなった脱力感。

辛くなると、しゃがみ込んで人目をしのんで泣く事が多かったように思う

笑顔になる時、いつも口元を意識して動かしている様な毎日であった。

あの芦毛の美しい馬に出会うまでは…。

彼の名はゴールドゴールデン
ある乗馬クラブにやってきた、ゴールドシップの初期の産駒だ。

元気のない私を、乗馬クラブへと連れ出してくれた主人。
その乗馬クラブでの先生とのお話の中で、

「いつかゴールドシップの子供を家族として迎え、
一緒に生きていきたいんです。」

そんな私の夢物語の話を、先生は覚えていて下さった。

全ては、この言葉から始まった。
あまりに無知であり、馬の世界を知らないからこそ、
簡単に放てた言葉であった。

多額にかかる、馬の購入代、維持費など、何も知らなかった。
少し節約をすれば、実現できる位に思っていた。
それが、どれ程に無知で愚かしい事かを、私はゴールドゴールデンを通して、苦しみ抜いて学ぶ事になる。

運動が苦手な私は、入会は無理であったが、主人について、クラブに通う日々の中、馬達とのふれあいは、手のひらを通して、たくさんの元気を私にくれた。

「ホースセラピー」
とは本当なんだと思い始めたある日、

いつもの様に乗馬クラブのレッスンに行ったあの日…。

レッスン前に先生が

「僕、ゴールドシップの仔を買いましたよー!!
 もう来てますよ!!」

私は涙目になり、大声をあげました。

健康手帳を見せて下さり、そこには…

「ゴールドゴールデン」

トレジャーマップと同じ出口牧場さんで生まれていた。

その姿は…

ゴールドシップによく似た芦毛の優しい男の子。

そして…目元を見て泣き崩れた…。
「マップが戻ってきた!!マップー!!マップ!!」

先生は私に、
「名前、つけてもいいですよ!!」
と仰って下さり、

「候補としては白いので、ゆきちゃんがあがってます。」
と、いけない感じの流れを口にしたので、

「ゴールドトレジャー!!この仔の名付けて頂いた名前と、トレジャーマップの名前を受け継がせて下さい!!あんたは、ゴールドトレジャーじゃ!!黄金の宝なんよー!!」
私はまた泣きじゃくりました。

そう。
私はゴールドゴールデンという競走馬を知らなかった…。

ゴールドゴールデンはおろか、マップを失った後は競馬を一切見なくなっていたので、他のシップ産駒も一頭も知らなかった。

私が前述の言葉を発した時期に、偶然に売りに出されていたゴールドシップ産駒は、トレジャー一頭であった。

そんな偶然の歯車が噛み合い、運命は動き出した。
偶然ではなく、必然であったと、今になって思うのだ。

さて、これからゴールドトレジャーの乗馬としての馬生の始まりだ!!

「いつか、いつか自馬にできる様に頑張ります!!
お父ちゃん、いつかトレジャーに乗って、レッスンを受けようね!!」

この時、トレジャーの馬生は、乗馬以外の選択肢は何一つ持っていなかった。

乗馬以外の引退馬の馬生を知る筈もなく、馬は走るものだと思っていた、愚かな私だった。

漠然と、引退したら、鹿児島のホーストラストさんでのんびりさせてやろう!!

まだまだ時間あるし、お金を貯めなきゃな…。
無駄遣いをやめて、しっかり貯金しよう!!

と浅はか過ぎる、馬の世界を何も知らない人間だった。

そもそも、トレジャーを買い取るという行為が、計画の中で省略されていた。

進呈でもして貰えるとでも思っていたのか?

綺麗事だらけの理想ばかりの夢を見ていた私は、なんと偽善者であったのだろう…。


ここで、トレジャーことゴールドゴールデンについて。

私はあまり詳しくは知らないのだが、競走馬時代の最後の2走、ゴールドゴールデンは出走直後にレースを中止し、ボイコットの様にもみえる競走の中止があった。

その2走の後、トレジャーは競走馬生活を引退するのでが、リトレーニングされ、乗馬としての第二の馬生が始まった様だ。その後の一年、どこの乗馬クラブにいたかは分からない…。

健康手帳に記載がなく、詳しい事は今となっては分からない。

だが、誰も知らない。
競走馬を引退してから一年近く、彼をよく知る人間さえも、生きている事を願う毎日だった様である。


しかし、沢山の方の愛情と好意の中、トレジャーは生かされた。
どなたのご尽力を欠いても、トレジャーの現在はない。
私の知らない所で、沢山の人に手をかけて頂き、沢山の愛情、好意、その積み重ねの結果がトレジャーの今日に繋がる。どの力を欠いても、トレジャーの今日には繋がらないのだ。

私一人の力ではないのである。
人間が一人では生きていけない様に、馬の今日も誰か一人の力で築けるのではないのだ。

そして、トレジャーの最初の頃の印象。

とにかく大人しい。そして優しい。人懐っこく、私が近寄ると、首を長くして、スリスリを続ける。

誰もが太鼓判を押す、大人しく、扱いやすい馬であった。

乗馬時代のゴールドトレジャー


私は、トレジャーの虜となった。
馬房の前にずっと座っては、ずっと話しかけては、人参やりんごを一緒に食べたり、ずっと撫でていた。

「うちはね、トレジャーが大好きじゃ。ずっと側にいたんよ…。
いつかね、お母ちゃんになるよ。
ええ子。ええ子…。ウフフ…。
トレジャーはええ子じゃ。長生きしてよ。健康そーじゃもんね!!」
まったくもって、浅はか過ぎて、世間知らず丸出しだった。
芦毛特有の病気も知らず、表面的にしか物事を捉えてない証拠の言葉を、トレジャーに毎回投げかけていた。

乗馬クラブに来た当初は大人しいので、ニヶ月程で、ビギナーさんのためのレッスンにデビュー予定であった。

ゴールドシップの仔であり、白馬のごとく白いトレジャーへの乗馬を熱望する方は、非常に沢山いた。

私達夫婦もその中の一組であった…。

それから暫くした頃、私にとっては衝撃的な出来事が起こる。

あるレッスンの日、上級会員さんのレッスン時、トレジャーの出番を、スマホの撮影、準備万端で、ミーハー丸出しの私がいた。

すると…
「ヒヒーン!!!!」
けたたましく、一頭の馬が暴れ出した。

尻っ跳ね。
後ろに猛スピードで下がる。
よく分からん方向に蛇行する。
鞭に激怒するかの様に、噛みつこうとする仕草。

慣れてきた頃に、トレジャーは本当の性格を見せ始めた。
乗馬のレッスンはこのスタイルと、強い拘りがあるようで、それ以降、絶対にその姿以外を見る事は出来なかった。

「あれ?どっかで見た事ある顔…。」
破天荒なヤンチャ坊主。抜群の頭脳。

あの大人しく哀愁漂う小さなお馬さんは、モリモリと食べ、背も伸び、体格も良くなり、走りたくない、人を乗せたくないなら、絶対に走りたくないアピール。

そこには、偉大な父ゴールドシップがいた。

それでも笑って興味をそそる、周りの方々のリアクションは、父から受けた恩恵である事には間違いない。

破天荒。

そんな言葉がピッタリな馬になっていた。

日毎に乗る人間を選び、レッスンも気分がのらないと、自ら中止する様になった。

レッスンに出れない、人を乗せれないまま、月日は流れた。

やがて外に出る姿を見なくなった。
筋肉のつき方が変わって来た。
鉄が外れかかっているのを見つけた。

ゴールドトレジャーの乗馬としての馬生の終わりを意味した。

会員さんを乗せる事のできない乗用馬。

トレジャーはやがてどこかに行ってしまうのだろうか…。

クラブの先生方は、良い方ばかりであった。

それでも、みなトレジャーの立ち位置が分からず、この仔はどうしていくのだろう…。

みなが応援をしても、トレジャーは結果を出そうとはしなかった。

一日中部屋の中でゆっくりできる。何故かみんながチヤホヤしてくれる。走らなくても怒られない。

トレジャーはこの場所が気に入っていたのかもしれない。

そのトレジャーの思いとはうらはらに、人間の世界での常識は、彼の思わぬ方向に動き出している様な予感がしていた。
選択をする時期なのは、分かっている。

でも、私には馬を引き取る程の力がない。

「どうしたらいいんだ…」
毎日、毎日頭を抱えて悩みました。

分不相応な悩みだからこそ、悩みになるのである。

「トレジャー。トレジャー。お母ちゃんかね?
私はあんたのお母ちゃんかね?」

この仔は頭がいい。

スリスリスリスリ。。

この頃、涙もろくなっている私の姿を目にする事が多くなったトレジャーは、何かを感じているかの様な仕草を多くした。

自分本位な関わり方をする私から、トレジャーは何かを感じとった様な気がする。

「お母ちゃん、力がないよ。ごめんね。ごめんね。」
それでも、
スリスリ…。
「走りたくない。でも、生きたい…。生きたいよ。」

一緒にりんごを食べた仲…。嫌いなりんごを私が一口かじって差し出すと、りんごを食べたトレジャー。そう言ってる気がした。

テレパシーのようなもの。馬には特殊なアンテナがあるように思えた。人と理解し合える特殊なアンテナ。

人は弱い生き物だ。
悩み、もがき、自分にとって楽な方向に、答えを出そうとした日の前日だった様に思う。

「しばらく様子をみよう。多分トレジャーは大丈夫。」

「大丈夫。いつか買い取ると伝えているんだから、その時まで面倒みてくださるよ。」

「人気があるのだから、これから誰かが買い取って下さるかもしれない。」

これは、すぐに否定してしまえば終わる考えなのだが、追いつめられると1ミリ程の、奇跡的な可能性を信じて縋ってしまう物なのだろう…。

一欠片の自分の中の無理矢理に作り出した希望にすがりつくと、途端に心は晴れやかになった。

「これからも、隣で見守り続けよう。」

何の権利もないのに、私は命名をしただけで、トレジャーについての特別な権利を持ったような、厚かましい気分でいた。
根拠のない自信は、あたかもそれが、絶対的な正解である様な錯覚を覚えさせた。

でも、自分の心に嘘は吐叶い。

後ろめたい気持ちに必死に蓋をした。
逃げたかった。
未知の世界に踏み込む度胸は、こんなにも愛おしいトレジャーの存在を以っても、持つ事が出来なかった。

そして…。

仕事と考える事に疲れ果てて、残りの仕事が深夜までおよんだ夜、座ったまま寝ていた。

視線を感じ、目を開けた様に思う…。
寝ぼけながらも、はっきり父の姿を見た。

元気な時の姿で、にこりともせず、私の顔の目の前で、私の顔をじっと見つめていました。

「笑え…。笑え…。」
この言葉だけを、真顔で語りかけてきたお父ちゃん。

後にも先にも父の姿を見たのはこの時一度だけであった。
笑えない私を父は、心配してくれたのかもしれない。
父は、私をかわいいからこそ、心配してくれたのかもしれない。

夢であったのだとは思う。
私の弱い心が見せた、父の幻影だったのかもしれない。
でも、不思議と心の中のザワザワは無くなっていた。

父 享年74歳

「巡り合わせがあったんだ。
運命なんだ。いつかこの時を後悔するならば、全てを賭けて臨んで後悔しよう。
ならばトレジャーは許してくれるんじゃないか?
何も努力せずに、私は何を悩んでいるんだろうか。
厚かましくお母ちゃんと名乗るならば、母親としてこの子のために何がしてやれるのか…」

実母の姿が思い浮かびました。

生活費を母に一切渡さない父をあてにせず、昼も夜も働いて私と妹を育ててくれた母。
私達が幸せならばそれでいいと思ってくれた母。

私も母の生き様を受け継ぐ時が来た様に思った。

そして、私のトレジャーと生きていくための目まぐるしい日々がスタートした。

綺麗事ではない。深く深く愛している。
ただそれだけ。
父と同じ。
私は人間。トレジャーは馬。

それでも私の中には、親と子の愛情が確かに存在した。それは、私だけなのかもしれない。
トレジャーが私をどう思うかは分からない。
でも、常識を遥かに超える頭脳の持ち主である。
私に何かを感じていたのは間違いない。

それがトレジャーを見つめ続け、深く愛し、彼に敬意を持って接した結果の答えだ。

とことん走らない選択をしたゴールドトレジャーの走らない馬生はどこに…。

後がない。

一緒にいたい…。でも力がない。

私が負けそうになったのは、誰のせいでもない。
自分自身の心だ。
努力から逃げ出し、私自身がトレジャーの今後を決めていた。
できない理屈を並べてる事に徹して、できない事を正当化する自分がいた。
だって…でも…そんな言い訳。
あんなに私を、信頼の眼差しで見つめるトレジャーの心を無視していた。

彼がいたからその後に続くシップの仔達と出会えた。

全ては巡り合わせ。運命が動いた。

今までの人生、たくさんの苦労、苦しみ、寂しさを経験して来たが、きっとそれは、トレジャーと出会うために与えられた苦難だったのであろう。

トレジャーは、私のこれまでの人生についての答えを与えてくれた。

「おまえが幸せならばそれでいい。おまえは私の息子。
トレジャー、今から私がする事が叶うならば、私をお母ちゃんと呼んでくれる?私の大切なお母ちゃんと同じ呼び名で呼んでくれる?」

ゴールドゴールデン。いえ、ゴールドトレジャー。
彼と過ごした日々。
彼の事は誰よりも知っている。日々、トレジャーに一番かける言葉。

「どうか、機嫌を直して下さい。」
王様なのです。それは私の浅い競走馬の知識だからこそ、あの芦毛の愛すべき偉大な元競走馬の姿が頭をよぎる。

父も王様。いつでも父の自分の思いを叶えるための、私と母と妹は、ゲームのボードのその他たくさんの駒の様であった。
それでも、生きて欲しかった。
存在して欲しかった。
何も与えてもらっていないのに、三人とも父を愛していた。

「あぁ、私の愛するこのお馬さんは、トレジャーマップではなく、父ゴールドシップの血を強く受け継いでいるんだな。巡り合わせて頂いて、感謝しています。」

どこか、トレジャーを上に見る感覚。
この仔には、天性のスター性がある。
現在もクラブを訪れた方々の大半は、そのルックスと、
父の名前を見ると、歓喜の声をあげる。

「ゴールドシップ」

という名前を、トレジャーは知っている。

あまりに多く、この呼び名を自分を通して聞いてきたのであろう。
父の名を聞くと、キメ顔をする。笑

それ程に、父シップの影響力は、トレジャーへの恩恵になっている。
シップは自らの功績や立ち振る舞いで、今日も自分の子供達を見守っている様な気がする。


ゴールドトレジャーと、トレジャーマップはいつしか全く別の存在となっていた。
マップはマップ。トレジャーはトレジャーだ。

心の隙間をトレジャーに重ねるのは、マップに失礼だと気が付いた。

トレジャーマップは、唯一無二の存在なのだと。

そして、ゴールドトレジャーも。


そんな魅力のトレジャーは、私に人生の全てを賭けさせる程であった。

長くなりましたので、この続きはまた今度。

駄文の中、お付き合い頂き、誠にありがとうございました。




















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