#1億円に使われた男の選択の代償→(改め)#選択の代償 第4回
おはようございます、私「20年前に1億円を手にして、その1億円に使われた男」、亀川がお送りします。
本日は、6月4日・・・何の日か???虫歯予防デー(笑)です。自分も3年前に左奥歯を入れ歯にしてしましました(笑)
ローメンの日でもあります。長野県伊那市の名物料理で、羊の肉と固めの中華麺を独特のスープで煮込んだものなんです。学生時代長野県で過ごす時期がありましたが、このローメンを食べた時は結構複雑でしたね。ラーメンのようでもあり、焼きそばのようでもあり、そして食べる際に、ウスターソースをかけて・・・不味くはないのですが、初めての感覚でした。
さて本日は、このチャンネルのタイトルにある「1億円」をどのような経緯で手にしたか?についてお話していきたいと思います。
その前段に、そのような状況になっていく過程を少しお付き合いください。
最初は日本企業で、勤めていました。1社目は小さな地方のモノづくり系のメーカー法人企業へ様々な材用や部品を販売するルートセールスでした。樹脂やゴムなどの金型による成型したものや絶縁材料です。そしてそこでの最初の転職のきっかけは、ある時大手クライアントから相談された大型案件のお話でした。あるユニットを金型から起こして継続的に流すとても興味深いものでした。通常ですと、自社の工場での加工を主体としていましたが、モノがモノだけに専門の外注先を探して打合せを進め、図面等も取り交わし提案しようとした際に、上司に報告したら「うちじゃ、身の丈が合わない仕事だから引け」と指示されました。20代前半で、それを言い渡された際に、愕然としました。もっと大きな仕事やビジネスをこの会社では目指すべきではないと知った際に、一瞬にしてモチベーションはダダ下がりでした。
その後、当時の地元で少し参加していたラグビー同好会のトップの方に、「うちに来ないか?」と誘われたのです。ただ、先の件が嫌でこの話に乗ったのではなく、自身の中にある目標みたいな話をした際に、琴線に触れた気がしました。それは「いつかは北米に行って仕事がしてみたい!住んでみたい!」という10代からの夢の実現の可能性があるかもしれないと言われたからです。いつかは、この田舎(当時は、諏訪市在住)から出て、もっと大きなステージに行きたいと常々思ってはいましたが、その頃の自分では全く縁がない情けない自分でした。
そして、誘われた会社に転職しました。誘っていただいた方は、現状の営業所から分離して新たな営業所を作りたいという目標をお持ちでしたので、私もその目標に向かって一緒に仕事をさせていただきました。大変いい経験でした。日々の営業活動と並行して、新たな事務所の物件探しや、事務員の募集などやれることは何でもやらせてもらえる環境でした。
そして、スタートしたその新営業所は、今でも存続拡大しているようで、売上も過去振返るとマイナス成長することなく進んでいったのです。
その後、その誘ってくれた新しい上司となった所長が、「次は、お前の夢に向かってできる限りの後押しをするぞ」と断言してくれました。
それは、営業マンとしての成績もさることながら、社内公募の際に、直属の上司とその上の部長が、全面的に社内の幹部会で強く自分を後押ししてくれたのです。その公募とは、「北米LAの副社長のポジションです」その現実が、自分の目標と重なったときの鼓動は今でも忘れません。そして、社内検討の結果、役員会での承認を経て、その座の指名を受けました。ホントに嬉しかった。そして27歳の時に東京へ転勤辞令を得て、先にお話しした国分寺に住むようになりました。
本社での仕事は、担当を持ちつつも、他の営業現場の支援をしていく経験をさせていただきました。その後、最初の渡米とLAでの研修生活を経験することになりました。LAの空港に降り立った際の興奮は、それまでの自分の中で、一番だったかもしれません。思わず、地面にほおずりしたくなる気持ちでした。しかし・・・そんなに甘くなかった・・・この続きは次回へ