みそ汁セロリ
「美夜子は本当になんでも食べるよな」
秋良に言われて、具だくさんのコブサラダをもりもり食べている美夜子は苦笑いする。
「あなたが好き嫌いし過ぎなの。食べられるものが数えるほどしかないって、よくそれで大人になれたね」
二人で一緒に暮らし始めても、食事の支度はそれぞれ別にしていた。理由は秋良の偏食だ。
肉とじゃがいもしか食べない秋良のためにレシピを考える必要性を美夜子は感じなかったし、秋良も毎日ふかし芋と焼いた肉で満足している。
「アレルギーがあるわけじゃないなら、野菜もたまには食べてみたらいいのに」
「必要ないよ。子どもの時は、ずっと我慢して食べてたんだ。もう好きに生きるよ」
なにやら世捨て人のような言いようがおかしくて、美夜子はくすくすと笑った。笑われた秋良は拗ねたような口調で尋ねる。
「苦手なものってひとつもないの?」
一瞬、言葉が途切れた。美夜子の表情が能面のように動きを止める。
「……あるよ」
「なに?」
大きく息を吸ってしばらく止めて、ため息をつく。美夜子は苦しそうに口を開いた。
「セロリのみそ汁」
「は? セロリって普通、みそ汁に入れなくない?」
黙って俯いてしまった美夜子を見て、秋良は慌てて質問を変えた。
「じゃあさ、一番好きな料理ってなに?」
「ないよ。食べられるなら、なんでもいい」
より暗くなってしまった美夜子に、なんと声をかければいいのか、秋良にはわからない。しんとした食卓で秋良のステーキが冷めていく。
「ステーキ、食べる?」
美夜子は首を横に振ると、サラダを無理に口に押し込むようにして食事を終えた。
***
「先輩、お昼行きませんか」
後輩の由紀に声をかけられたとき、美夜子は猛烈な勢いで表に数字を叩き込んでいるところだった。呼ばれたことで集中力が途切れ、伝票のどこまで入力したかわからなくなってしまう。
「由紀ちゃん、もう。勘弁してよ。数字入れてるときに話しかけないで」
「すみませーん。つい、うっかり」
由紀は美夜子より六つ年下、まだ二十三歳。かわいく謝られると、『つい、うっかり』許してしまう。自分が後輩に甘いことも、それが相手のためにならないこともわかっているが、強く注意することができない。
美夜子は人と深く関わらないように身構えてしまうのだ。心を開いて会話することが出来ない。人の気持ちに踏み込むことも出来ない。
そんな不甲斐なさが、胸の底に少しだけある、わずかな自尊心を傷つける。きちんとした大人になったと思うことが出来ないまま、三十代が近づいてくる。
「あとは午後からやろう。行こうか」
暗くなりそうな気持ちを奮い立たせるため軽く伸びをする。
財布とスマホだけが入った小さなポーチを持って軽やかに歩き出す。十二時になると同時にオフィスを出たため、八階のエレベーターホールはまだ空いていた。
「先輩、なに食べたいですか?」
「なんでもいいよ」
由紀は軽く眉根を寄せて不満を表明する。
「それ、一番困るんですよ。うちのかずくんも、しょっちゅう言うんですよね」
新婚の由紀との会話には、五分に一度は『かずくん』が登場する。顔も知らないのに、美夜子はかずくんについて、かなり詳しくなった。
「夕飯のメニュー決めのこと? 由紀ちゃんが好きなものを作ればいいじゃない」
「かずくんの好きなものを作ってあげたいんですよう」
「私は由紀ちゃんの好きなものを食べさせてあげたいから、なんでもいいよ」
「先輩は選ぶのが面倒なだけじゃないですか。あ、じゃあ、魚政にしましょう。私、和食気分かもです」
オフィスビルを後にして裏通りに向かって七分。刺身が格別に美味いと評判の居酒屋ののれんをくぐる。客の入りはまだ三割程度で、テーブル席につくことができた。
「やった! 限定十食の海鮮丼まだありますよ」
「じゃあ、それにしよう」
迷うこともなく注文を追え、二人で他のメニューを検分して暇つぶしをする。品ぞろえが豊富でメニューを読み上げるだけでも楽しめる。
「沖縄郷土料理、どぅるわかし、ってなんでしょうね」
「説明もイラストも無しとは。客に対する挑戦ね」
「なんなのか聞いてみましょうか」
美夜子は真剣な表情で首を横に振る。
「挑戦されたら迎え撃つ、それが私のポリシー。近いうち、飲みにきて頼みましょう」
あまりにも硬い美夜子の様子を由紀が笑う。
「先輩って、食に貪欲ですよね。飢えたオオカミみたい」
自分の内面を言い当てられた気がして、美夜子の硬い表情がさらに硬くなる。いつもはにこやかな美夜子が、まるで怒っているかのようだ。
その姿に由紀は驚いたようで声もない。なにかが美夜子のネガティブな感情に触れたのだろうが、それを問いただすような仲でもないと遠慮して下を向いた。
美夜子はそんな空気を払拭するため笑顔を作ってメニューの読み込みに戻った。由紀もすぐにいつもの調子を取り戻した。
「おおう。すごい」
やって来た海鮮丼の盆にはサラダと、デザートのわらび餅、冷ややっこ、みそ汁とボリュームたっぷり多くの皿がのっている。
「先輩、サラダいかがですか。私、セロリだめなんです」
由紀がたっぷり盛られたサラダの鉢を突き出す。
サラダは薄切りのセロリ、角切りのトマト、チーズ、ベーコンが和えてある。
「じゃあ、いただきます」
受け取った美夜子はぺろりとサラダを食べきり、空っぽの鉢を由紀に戻した。
「さすが先輩。ありがとうございます」
「いえいえ」
にこやかにみそ汁に口を付けた美夜子の動きが止まった。呆然と椀の中に目を落としたまま動かない。尋常じゃない様子の美夜子に由紀が尋ねる。
「先輩? どうかしました?」
「このみそ汁、セロリが入ってる」
「ええ、うそ。セロリ?」
由紀が慌ててみそ汁の具をあさったが、わかめと豆腐しか入っていない。美夜子は茫然とみそ汁の椀を見下ろし続ける。
「勘違いじゃないですか?サさラダに入っていたセロリの味と混ざったとか」
黙って首を横に振る美夜子の脳裏に、ひとつの思い出がくっきりと映し出された。
***
冷蔵庫を開けるとき、少しの希望と多くの諦めがぐるぐる頭の中を巡る。幼い美夜子はいつもそれを感じて顔をしかめていた。
冷蔵庫と冷凍庫、扉は二つ。希望を出来るだけ長く感じていたくて、冷凍庫の扉から先に開ける。
買ったときから一度も掃除をしていない。壁面に霜が厚く張り、こんもり積もったかまくらのようだ。
入っているのは二つの製氷皿。二十個の氷が出来上がっている。氷は、ほぼ毎日使われるので新鮮だ。水道水が出て電気も通っているときは常にある。氷があるのは安心でもあり、嫌悪感を掻き立てるものでもあった。
冷凍庫の扉を閉めてぎゅうっと押す。ガムテープでぐるぐる巻きにしたら、お母さんはどんな顔をするだろう。困るだろうかと思って、ふと笑う。氷がなければウイスキーの瓶に口をつけてそのまま飲むだけだ。何度も見たじゃないか。
小学生らしくない深いため息をつく。開けたくはないけど開けなくちゃ。美夜子は冷蔵庫の取っ手を握り、力の入らない様子で引き開けた。中を覗くと、ぷんと嫌な臭いがする。
いつも中身なんてほとんど入っていないのに、様々な食品が腐っていったような臭いがこびりついている。中に入っているのは梅干しのパックが一つだけ。美夜子の母が二日酔いの朝にお湯に入れて飲むためのものだ。梅干しを食べて唾液が出て、ますますお腹が空いては困る。美夜子は扉を閉めた。
お米の袋はカラ、缶詰もカップラーメンも食べきってしまった。お小遣いなんてもらったことがないから美夜子はなにも買うことができない。せめてお米があったらお粥が作れるのに。
今年、四年生になって始まった調理実習の授業で作り方は教わった。出来たてのお粥はとても美味しかった。調理実習のある日は給食に加えて、もっと食べることができる。美夜子にとっては夢のような日だった。
次の調理実習は来月の第二火曜日。まだ三週間も先だ。それまで給食だけで過ごすことを考えると、空っぽの胃が、ぎゅっと握り締めたように痛むのだった。
美夜子が学校から帰ると、珍しく母がいた。
「お母さん」
驚いて玄関で立ち止まった美夜子が呼びかけると、母は目をそらしたまま財布をぽんと投げてよこした。
「買い物してきて。なにか食べるもの」
美夜子は恐る恐る財布を拾い、中を覗いた。一万円札が三枚も入っている。
「な、なにかって?」
「なんでも。寿司でもステーキでも、あんたの好きなもんでいいよ」
美夜子は慌ててランドセルを放り出すと、財布を握り締めて駆け出した。なんでも好きなもの! なんでも好きなもの! なんでも好きなものが食べられる!
頭のなかに様々なメニューが閃く。小さい頃に一度だけ食べたイチゴのケーキ。給食のメニューで大好きなホワイトシチュー。お母さんが何度か作ってくれたカレー。
ぴたりと足が止まった。
そうだ、お母さんはなにが食べたいんだろう。
振り返って自分の住まうボロボロのアパートの方を見る。戻って聞いてみようか。だが、なんだか不安な気持ちがして足が動かない。戻ったらとんでもないことが待ち受けているような気がした。
美夜子はそのまま逃げるようにスーパーへ向かった。
スーパーをぐるっと回って精肉コーナーの前を三度通り過ぎた。母は寿司でもステーキでもいいと言った。だが、美夜子はステーキ肉の値段の高さに驚き、手に取ることができなかった。
それでも肉が食べたくて、じっと観察して牛豚合い挽きミンチを買うことに決めた。
ハンバーグを作ろう。調理実習で作ってすごく美味しかったのだ。
米と野菜も必要だ。並んでいる野菜を覗くと、野菜も結構高いのだと少し驚く。タマネギは絶対に必要だけれど、あとは諦めようかと思ったとき、見切り品というコーナーを見つけた。
タマネギがある。ニンジンとセロリもある。どれも百円だ。美夜子は大喜びで野菜をかごに入れた。みそを買ってみそ汁も作ろう。具は豆腐とわかめだ。私が料理出来るって知ったら、お母さん、びっくりするぞ。
スキップしたいような気持ちでスーパーを出た。まだ財布の中には一万円札が二枚も残っているし、千円札もたくさんある。夢みたいだ。
「ただいま!」
ドアを開けて家に駆けこんだが、母の姿は見えなかった。
「お母さん?」
トイレにもお風呂にもベランダにもいない。まだ時間は早いが仕事に行ってしまったのだろうか。背中に不気味な焦りのようなものがざわざわと湧く。
それを見ないように首を振って、美夜子は食事の支度をして母の帰りを待つことにした。
美夜子の母はガールズバーで働いている。お酒をたくさん飲む仕事だ。午後六時ごろに出勤して行き、帰宅は深夜。いつも深夜というわけではなく、早朝に帰ることも、帰らないこともある。
最近はほとんど帰ってきていなかった。母は帰宅するときに弁当を買ってくるのだが、それ以外に食べ物はめったに買わない。
ごくたまに料理本と一緒に高級食材をそろえて難しい名前の料理を作る。あまり美味しくはないが、美夜子は母が作ってくれることが嬉しくて、美味しい、美味しいと繰り返しながら食べる。
母は怒っているのか笑っているのかわからない顔をして、あっそう、とだけ言う。その顔も美夜子は大好きで、いつでも見られたらいいのにと思っていた。
母は翌日になっても帰らなかった。
美夜子は二人分のハンバーグのタネを冷凍庫に入れた。氷は二十個、きれいに固まっている。
昨夜、米を炊いてみそ汁を作って母を待っていた。絶対に一緒に食べようと頑張って起きていたのだが、いつの間にか眠ってしまっていた。
朝食にごはんとみそ汁を食べて学校に行き、給食も食べると、いつもよりずっと元気になれた気がした。走って帰ったが、家はしんと静まったままだった。
翌日も、翌々日も母は帰らない。ごはんは新しく炊き、みそ汁も作り直した。ハンバーグの付け合わせに作っていたニンジンのグラッセと、彩りのためのセロリ炒めも、また作った。それでも母は帰ってこない。
美夜子は何度も冷凍庫を開けて確かめたが、ハンバーグのタネはきれいな赤のまま、硬く凍り付いていた。
ニンジンがしなびて、セロリが黄色くなり、みそ汁の具がなくなってしまった。しおれたセロリの黄色くなった葉を細かく刻んでみそ汁に浮かべた。
出汁昆布を買い忘れてみそだけの味の汁に見た目の悪いセロリの葉。
だがセロリの香りだけはしっかりと立ち上る。ずずっとすすり飲むと、セロリの葉が唇に張り付いた。
ぺろりと舐めとると、なんだか生暖かい。気づくと美夜子は泣いていた。
「お母さん」
財布の中には、まだたくさんのお金が残っていたが、使う気にはなれなかった。母はとうとう帰ってこなかった。
ハンバーグのタネは永遠に解凍されることなく、美夜子は大人になった。
***
「すみません、このみそ汁、セロリが入ってますか?」
由紀の声で、はっと現在に意識が戻る。店員が驚いたようで目をしばたたいて由紀を見ていた。
「よくわかりましたね。出汁にセロリの葉を使ってるんですよ」
ガタンとイスを鳴らして美夜子が立ち上がった。口を手で覆って店から飛び出す。席待ちの客の列を掻き分けて電信柱に手をつく。ひどい吐き気をなんとか抑えて荒い息をついた。
「先輩、大丈夫ですか」
しばらく動けずにいた美夜子の背中を由紀がそっとさする。
「ご、ごめん。お会計しないと」
「大丈夫です、私が済ませてきましたから。動けそうですか?」
青い顔でなんとか頷いて、美夜子は小刻みに震えながら歩き出した。
オフィスフロアに入ると、ほとんど空席で、残っている社員も食事をしていたりスマホをいじっていたりと一人の世界に没頭している。美夜子は惨めな自分の姿を見られないことにほっとした。
由紀は美夜子を席まで送り、お茶を淹れて戻ってきた。
黙ってマグカップを美夜子の前に置き、隣の席に腰かける。美夜子は小さく頭を揺らすと、カップを両手で包み込んだ。使い慣れた温かなカップなのに、なんだか温度を感じられない。
「セロリのみそ汁だけは、だめなの」
ぽつりとこぼれた言葉は湯気に落ちて曇ったようで、美夜子の視界が滲んだ。
「とても悪いことが起きそうで。きっと、二度と立ち直れないような悪いことが……」
ポーチの中で美夜子のスマホが鳴る。ぼんやりした頭でポーチを覗く。ピカピカと緑のライトが点滅している。ゆっくり手に取ると、通話ボタンを押して耳にあてた。
「……秋良?」
めったに電話などかけない秋良だ。なにか緊急事態だろうかと脅えて、声が震える。だが聞こえてきた声は、至極のんきだ。
「今日、外食しないか。美夜子の会社の近くに美味い居酒屋があるって言ってただろ、魚政って」
なにか重いものが喉につかえて、つい先ほどまでそこにいたと口にすることができず、美夜子は小声で「うん」と答えた。
「今さ、テレビで紹介されてたんだけど、ジビエがあるんだって。俺、鹿肉が食べてみたくて」
断りたいのに言葉が出てこない。大人になったのだからどこにでも行けるのに、財布にお金も入っているのに、あの日のようにどこにも行けない。ただ、悪いことが起きるのを待っていることしか出来ない。
「六時にそっちに行くよ。残業するなよ」
明るい声が「じゃあ」と言って消えた。
✴✴✴
秋良と二人、テーブル席につくと、メニューを運んできた店員が美夜子に声をかけた。
「お昼は大丈夫でしたか? なにかアレルギーがあったとか……」
美夜子はせいいっぱいの作り笑顔で店員を見上げる。
「いえ、そんなことはないんです。急に気分が悪くなって気が動転して。お騒がせして、すみませんでした」
店員にお詫びを言えたことで、美夜子の不安も少し落ち着いたかのように思えた。
「お昼、なにかあったの?」
秋良がそっと尋ねると、美夜子は深くうなだれた。肩に力が入って、必死で感情の波に飲まれないようにしている。秋良は美夜子が話せるようになるまで、じっと待った。
店内の客と店員のやり取りは遠い蜃気楼から流れてくるような現実感のなさだ。美夜子は古い幻影に囚われそうになって、救いを求めて顔を上げた。
秋良はいつもの優しいまなざしを美夜子に向けていた。
その視線にすがりつくように、美夜子は前のめりになって震える声を絞り出した。
「セロリの……みそ汁が出たの」
一度話しただけなのに、秋良はすぐに聞き返してくれた。
「それって、美夜子が苦手なやつ?」
またうなずく。恐怖に近い感情が湧いて、美夜子の目が大きく開かれた。
「だめなの。ほかのものならなんでもいいけど、セロリのみそ汁だけはだめ。お母さんが、お母さんが……」
テーブルに置いた美夜子の手がカタカタと震えだす。秋良は美夜子が養護施設で育ったことも、母親の消息が今もわからないことも聞き知っていた。付き合い始めてすぐに、美夜子が苦笑交じりにふざけた調子で話したのだ。
秋良は美夜子の右手をぎゅっと握った。美夜子の手はひどく冷たくなっている。
「すみませーん」
秋良が店員を呼ぶため、もう片方の手を上げた。
「みそ汁ありますか、セロリの」
「はい、ございます」
「ひとつ、お願いします」
美夜子にはなにが起きたかわからない。秋良はなんと言った? なにを頼んだ?
去っていく店員の背中を、ただ呆然と見つめる。
「なに頼む?」
秋良がメニューを差し出したが、美夜子は青い顔で首を横に振ることしかできない。いったい、なにが起きたのだろう。秋良はなにをした? なにがしたい?
店員がみそ汁を運んできた。秋良がなにか注文しているのが耳に届いたが、意味はひとつも理解できない。
秋良はみそ汁の椀に向かって両手を合わせる。
「いただきます」
「だめ!」
引き攣った顔で、声にならない声で美夜子が叫ぶ。その声が聞こえなかったかのように秋良は箸を取り、みそ汁を啜った。
いなくなってしまう。秋良もきっといなくなってしまう。
秋良は一瞬、眉をひそめたが、すぐに笑顔に戻った。
「みそ汁にすると、セロリって美味しいんだね。俺、これ好きだよ。家でも飲みたいな」
美夜子は茫然と、みそ汁の椀を見つめる。秋良はなんと言った?
「毎日でも。なんなら、三食これでもいいや」
あの時、一人きりで食べ続けたセロリのみそ汁を、向かい合った秋良が飲んでいる。嬉しそうに笑って。美味しいと言って。
「……本当に?」
かすれた声で問うと秋良は美夜子の目を見つめた。
「うん。美夜子が苦手なら、俺が自分で作るよ。あ、においもだめだったりする?」
美夜子は首を横に振る。なんども、なんども。
「セロリのみそ汁は鍋いっぱい作っても、俺が全部飲んでやるから。心配しないで」
「私が……」
「うん? なに?」
「私が作っても、食べてくれる?」
秋良が明るく笑う。
「当たり前じゃん。美夜子の手料理、楽しみだよ」
「ハンバーグも、食べてくれる?」
「大好物だよ。知ってるだろ」
「ニンジンのグラッセは? セロリの炒め物は?」
秋良は矢継ぎ早の質問に困ったように眉を寄せたが、決して美夜子から視線を外すことはない。
「そうだなあ。チャレンジしてみようかな」
偏食の秋良が自分のために飲んでくれたセロリのみそ汁。
美夜子はそっと手を伸ばして秋良の手から汁椀を受け取った。
丁寧に両手で包んで口を付ける。ふわりとやわらかなセロリの青い香りが立ち上る。味噌の香ばしさと一緒になって、とても優しい。
こくりと飲むと、熱い液体が舌の上を転がり、喉の奥へと消えて行く。
まるで長い間、凍り付いていたものを融かしてくれるかのようだ。冷凍庫で凍りついた思い出を、暖かく、暖かく。
ほうっと息をはくと、胸いっぱいに溜まった湯気は店中に広がって、灯りを受けてキラキラと輝く。
美夜子はその光を受けとめて、まぶしそうに目を細めた。