背中5 憑 狂 ~ツキクルウ~
「お兄ちゃん!? どうしたの!?」
昼休み、画廊のドアが開いたチャイム音で、食べかけの弁当を置いて表に出た私を見て、お兄ちゃんが両手を上げて、ひらひらと振った。
「突撃、職場ほうもーん」
「もう! やめてよ、そういうの! お客様の迷惑になるでしょ!」
大きなバックパックを肩にかけたお兄ちゃんは、そんなに広くもない画廊の中を、しつこいほどにキョロキョロと見渡した。
「おお、団体様がいらっしゃってますね」
「そういう冗談もやめて。お父さんそっくり」
本当に、お兄ちゃんは年々、お父さんに似てくる。そのうち、お腹もでっぷりと出てくるに違いない。
「そうだ、父さんから、就職祝いを預かって来たぞ」
お兄ちゃんはバックパックを床に置くと、その場で開けて中身を引っかき回し始めた。あわてて、お兄ちゃんの腕を引っ張る。
「ちょっと! 本当に邪魔になるから、やめてってば!」
無理やり立ち上がらせると、お兄ちゃんをバックヤードに引っ張り込んだ。
「おお。関係者以外立ち入り禁止っぽいところ」
「その通り、関係者以外立ち入り禁止です」
「俺、無関係者だけど、いいの?」
「ダメだけど! 仕方ないじゃない」
私に睨まれてもお兄ちゃんは飄々としている、腹立つ。改めてバックパックを漁って、白い封筒を引っ張り出した。
「ほい、これ」
「なによ、もう。くしゃくしゃじゃないの」
ぶつぶつ文句をいいながら封筒を受け取った。表書きは『船木美和殿』。中には便箋が二枚入っていた。一枚はお父さんから。もう一枚はお母さんからの手紙だった。
「なんで、わざわざ手紙なんか……」
「お前が、すぐに電話切るからだろ。用件くらいちゃんと聞いてから切れよ」
「聞いてるわよ」
ざっと目を通した手紙には、就職祝い金、十万円を同封したとある。封筒を覗き込んだけれど、何も入っていない。逆さにして振ってみたけれど、一円たりとも出て来なかった。
「あ、貸付利率は0パーセントでよろしく」
「はあ?」
「十万、来年には返すから」
「盗ったの!? 私のお金!」
「人聞き悪いなあ。借りただけだって」
「何に使ったの! そもそも、どうやって返すのよ! お兄ちゃん、無職じゃないの!」
「これから働くんだよ」
「何をして!」
「起業だよ。だから資金がいるんだ。なあ、良かったら、二十万円くらい投資しないか」
「するわけないでしょ、バッカじゃないの。投資じゃなくて捨て金になるだけだって、わかってるもん」
お兄ちゃんを無視してお弁当に戻ろうと箸を取ったところで、来客を知らせるチャイム音が鳴った。
「お兄ちゃん、絶対出て来ないでよ!」
お兄ちゃんの胸を押して壁際に下がらせて、一睨みしてから表に出た。
「百合子さん! いらっしゃいませ!」
思わず声が大きくなってしまう。本当なら飛びつきたいくらいだ。百合子さんに会えるなんて、今日は本当に、なんてラッキーデイだ。大吉だ。
百合子さんは優しく微笑んで、手にした紙袋を差し出した。
「これ、お約束していた橋田坂下の画集よ」
「わざわざすみません。私が取りに伺うべきなのに」
「いいのよ、ついでがあったから。ところで、あちらの方は、どなた?」
百合子さんの視線を追って振り返ると、バックヤードに続くドアが半分開いていて、その隙間からお兄ちゃんがこちらを覗いていて、間抜けな顔でポケッと口を開けて百合子さんに見惚れていた。
「お兄ちゃん! 出て来ないでっていったでしょ!」
急いでドアを閉めるべく突進していったけれど、お兄ちゃんは私が押し込める前に、するりと表に出てきた。
百合子さんの元に駆け寄って、片膝をついて腕を差し伸べる。まるで中世ヨーロッパの騎士が貴婦人に忠誠を誓うような姿だけれど、だらけきったお兄ちゃんには当然、似合うようなしぐさではなく、なんとも情けない。
恥ずかしくて顔から火が出そう。けれど、百合子さんは微笑んだまま動じることもない。
「美しい貴女、お名前をうかがっても?」
芝居がかったお兄ちゃんの言葉に、百合子さんは、くすくすと笑いだした。
お兄ちゃんの腕を引っ張って立たせようとするけれど、足が床に接着されたように微動だにしない。力いっぱい肩を押してもびくともしない。
「もう! お兄ちゃん、やめてよ、恥ずかしい!」
百合子さんはいかにも楽しそうに笑う。
「いいじゃない、美和さん。愉快なお兄様だわ」
百合子さんは差し出されたお兄ちゃんの手に手を重ねる。
「私は、高坂百合子と申します」
貴婦人然として軽く膝を曲げたお辞儀をしてみせる百合子さんに、お兄ちゃんは見惚れて、鼻の下をデレーっと伸ばして、言葉もない。
「美和さん、お兄さんのお名前は、なんておっしゃるの?」
お兄ちゃんに直接聞くのではなく、わざわざ私に聞いたのは、貴婦人ごっこの続きだったのかもしれない、百合子さんに呆れられなくて良かった。
私が紹介するより早く、お兄ちゃんは百合子さんの足許に詰め寄っていく。
「船木大吾です! 年は二十五、未来の大社長です!」
「まあ」
百合子さんは笑った。その場にいるものを虜にせずにはおれない、花のような笑顔で。
「あなたも大ちゃんなのね、すてき。よろしくね、大ちゃん」
百合子さんは細く白い手を伸ばして、お兄ちゃんの頬に触れた。とたんに、お兄ちゃんのデレっとした表情が変わった。百合子さんの瞳以外のものは、きっと見えていない。
一瞬で、百合子さんの所有物になってしまったかのようだった。
「本当にもう。お兄ちゃんてば、ずうずうしい」
画廊の営業を終えて、お兄ちゃんと一緒に家に帰った。私の部屋に落ち着いたお兄ちゃんは、荷物を解いてはいるのだけれど、周りのことは何も見えていないようで、出した荷物を何度もバックパックに戻したり、出したり、戻したり、出したり、意味のない行為を続けていた。
「百合子さんのモデルだなんて。そんな大役が務まるわけないじゃない」
私はぶつぶつ文句を言いながらも、夕食の仕度をすすめる手は止めない。
「なあ、美和。これは運命だと思うんだよ」
「これはって、なにが?」
「俺の名前が『大ちゃん』だったことだよ。それに、俺の背中が百合子様の弟君の背中に似ているなんて」
切っていたニンジンを握ったまま、お兄ちゃんの背後に回った。セーターに毛玉がたくさんついている。そのセーターを着た背中をじっくり観察して首をひねる。
「似てるかなあ?」
お兄ちゃんはくるりと振り返って肩をそびやかす。
「もちろん、似てるに決まってるだろ。巨匠が認めたんだからな」
「巨匠って。百合子さんのこと、そういう言い方するのやめて。なんだか安っぽい」
むっと眉をひそめた私の顔を面白がって、お兄ちゃんは同じ顔をしてみせた。兄妹だけあって、似ているところに腹が立つ。ますますむくれてキッチンに戻った。
「美和は百合子さんの弟君に会ったことあるのか」
料理の手を止めずに冷たく答えてやる。
「ないよ」
「じゃあ、似てるかどうかなんて、お前には判断つかないじゃないか」
「直接は見たことないけど、毎日『背中』を見てるもん」
「あの絵ねえ。あれ、本当に似てるのか?」
思わずお兄ちゃんを横目で睨む。
「なによ、さっきは百合子さんのことを、巨匠だ
なんて言ってたくせに」
「それはそうなんだけど、すごくいい絵だと思うんだよ、生きているみたいで。けどさ、あの背中の絵、全部同じ人間とは思えないんだよな」
「なに、それ。宇宙人の背中だって言うの?」
お兄ちゃんはぼりぼりと頭を掻く。床に視線を落として喋ろうか喋るまいか、しばらく悩んでから話し出した。
「全部さ、別人の背中じゃないか?」
私の口が思わずぽかんと開く。
「何言ってるの。バッカじゃないの」
「バッカなんかじゃ、ないって。お前、毎日見ていて思わないのか、何か違和感を持たんのか」
私はお兄ちゃんの顔をじっと見つめた。お兄ちゃんはふざけてばかりいるけれど、昔から勘がするどい。
と言っても、神経衰弱やババ抜きなんかのトランプゲームが強いとか、手品のタネを当てるとか、その程度なんだけれど、その勝率がものすごいことを私はよく知っている。なんとなく、気になってしまう。
それに、私自身も二十歳の背中と二十三歳の背中との間に違和感を覚えているのも確かだ。
「でも、じゃあ、モデルはだれだって言うの?」
ぽつりと、自分自身に問いかけてみる。私の言葉を聞きつけたお兄ちゃんは腕を組んで首をひねる。
「その時その時の、彼氏とか」
「なにそれ。それじゃ、百合子さんは似たような背中ばっかり好きになってるみたいじゃない」
「だよな。やった!」
「何が、やったなの」
「次のモデルは俺だろう? 百合子さんは俺の背中に惚れたんだよ」
「バッカじゃないの」
冷たく言い放って料理に戻ったけれど、何か腑に落ちず、考え込んだ。
百合子さんは何故、弟の代わりにお兄ちゃんの背中を描く、なんていうことを考えたのだろうか。弟がストーカー対策で姿を隠しているとしても、戻ってくるのを待てばいいだけのことなのに。急いだ注文があるわけでもないんだから。
現に、『背中 二十三歳』だって、『背中 二十歳』から五年後に発表した絵なのだ。制作に何年かけてもいいはずだ。
「本当に、百合子さんはお兄ちゃんの背中なんか描いて、どうするんだろう……」
ぽつりと呟いたセリフは、有頂天になっているお兄ちゃんの耳には届かなかった。